08.5
「嫌で~~す! 僕はもう、王宮術士をやめま~す! 実家帰らせてくださ~い!」
恥も外聞もなく、床に転がりじたばたと癇癪を起しているこの男が、王宮術士を束ねる術士長だと、誰が信じるだろうか。
御年二十三の男が、術士の制服である黒いローブをまとったまま、髪が崩れるのも気にせず。まあ、髪はひどいくせっけなのでぼさぼさになろうとすでに手遅れなのだが――転がる床がエンティパイア帝国第二王子、カルファの自室であるという点においては、流石に誰もが目を疑うだろう。
現にカルファの護衛や側使えは顔がこわばったまま。
部屋の持ち主であるカルファは何ら気にすることなく、第三王子のトーランド・ガイツ・エンティパイアとボードゲームに興じていた。カルファの隣に座るトゥーリカは術士長の癇癪に慣れていないのか、おろおろとするばかりだ。
「なんでフィオディーナ嬢を国土追放にしたんですか! 馬鹿! バカルファ!」
罵倒の言葉も、カルファは軽く溜め息で受け流すのみ。普通の民だったら不敬罪に問われてもおかしくはないが、乳兄弟であり、幼馴染として育ってきた術士長は咎められることはない。度が過ぎれば話は別だが、たいていの悪口は流される。
「……婚約破棄して国外追放にしたら、お前が娶って終わりだろう。罰にならん」
「当たり前でしょう!」と術士長は一瞬起き上がり、またじたばたしはじめた。
「ウィルエールさん、趣味わる……」
ぼそり、とトーランドがつぶやく。がばり、と術士長――ウィルエールが立ち上がり、素早い動きでトーランドに詰めよった。
「今聞き捨てならない言葉を聞きました。 僕にとってはフィオディーナ嬢がこの世で最も愛おしい人なんです。あの方は女神なんです! 僕に言わせれば、こんな平和ボケしてそうな女を選ぶカルの方が趣味悪い!」
「近い、近い!」
息がかかる距離でウィルエールはトーランドに、フィオディーナのすばらしさを熱弁しだす。前髪でほとんど隠れてしまっているその両目には離れたがるトーランドの姿は映っていないようだ。
「僕の研究の話を、あんなに熱心に聞いてくれるご令嬢は、この国土のどこを探してもいませんよ!? そりゃ、確かにいつもカリカリしていましたけど……そこがまたいいんです! 怒りに満ちたあの鋭い瞳で睨まれながら罵られる……最高じゃないですか! それなのに……国土追放! ありえない! 彼女が何をしたというんです!」
ギッとウィルエールがカルファをにらむ。カルファは普段からウィルエールの扱いに慣れているからか、あまり動揺はない。
「第二王子の婚約者に手を出したのだぞ?」
「あの時点での婚約者は我が女神だったはずですよ!」
「まあでも婚約破棄は仕方ないよねー。感情をそのまま言葉にしてぶつけちゃうようなご令嬢は王妃にふさわしくない」
ウィルエールの怒りがカルファに移り、物理的にも離れて行ったからか、普段の調子を取り戻し始めるトーランド。
「――王妃って……貴方、第二王子でしょう。不敬ですよ」
さっきまでの雰囲気から一転して、張り詰めたようなものになる。ふざけた空気は一切ない。
しかし、カルファもトーランドも、ウィルエールに対して何も言わなかった。コツ、とボードゲームの駒が動かされる音だけが、部屋に響く。
この沈黙こそが、ある種の肯定であると、ウィルエールは悟る。
何を馬鹿なことを。
確かに、このエンティパイア帝国では、王族の長子が跡を継ぐというのが慣例なだけであり、絶対ではない。
ただ、それでも、第一王子が健全で、存命な上で、まるで別の王子が国王になるというような発言をするのは、滅多なことではない。
「――……辞めます」
ウィルエールは、ぽつりと、しかし、力強くつぶやいた。
「本当に、王宮術士を僕は辞めます」
「……ウィル?」
その言葉に、ようやくカルファは盤面から顔を上げ、ウィルエールを見た。
「……辞めて、僕は女神に会いに行きます」
「死ぬ気か?」
「我が女神は生きていますよ」
「まさか、そんなわけ……」
あの海を渡って生き残れるものがいるわけがない。けれど、ウィルエールの表情は、嘘を言っているものでも、あるか分からない希望にすがっているものでもない。確信あっての表情だった。
「それでは、カル」
ローブを翻し、ウィルエールは去っていく。
――……そのまま去れていれば格好良かったのだが、「床に転がったときに術石を落としました!」と戻ってきたのは数十秒後のことである。




