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マルスティン。コウンベールの口からこぼれた名前は、どこかで聞いたことのあるものだった。どこだろう。
マルスティン、マルスティン……と脳内で、フィオディーナの方の記憶に検索を書ける。コウンベールが知っていて驚いている、ということは貴族だろうから。
わたしが誰だったか、と思い出そうとマルシを見れば、彼は固い笑みを浮かべていた。
「……マルスティン、とは誰かな。僕はマルシだよ」
そういう彼の雰囲気と表情を見て、一瞬で、あ、嘘だ、と思った。
ただの嘘ではない、嘘と分かる嘘だ。
貴族時代に、たまに見かけた嘘。嘘をついている本人も、嘘だと暗に言っているような嘘。
誤魔化すためのものでなく、追及するな、という意味を込めた、圧力のある嘘だ。
そういった嘘をつくのならば、やっぱりマルシはマルスティンで、彼は貴族なのだ。
けれど、この場でこれ以上追及してはならない。貴族にとっての暗黙ルール。
わたしはもう貴族ではないけれど、かつてのルールに従ってこの話題には触れないようにした。……わたしは。
けれど、現役のエンティパイア貴族であるはずのコウンベールは嘘と分かる嘘に気が付かなかったのか、「こんなところでどうしたんです?」と、会話を続行した。
これにはマルシも驚いたような表情を見せた。わたしだってびっくりだ。
宰相一族ヴァイセン家の長男が、貴族の『嘘と分かる嘘』に気が付かないなんて。
いや、わざとなのだろうか。わざと、っていう表情には見えないけれど……。彼の性格的にも、そういう高度な貴族のやりとりができる人間に思えない。
大丈夫か、ヴァイセン家。
嘘と分かる嘘が通じた上で無視された、とマルシはとったのだろう、怒気が彼の周りへにじみ出る。
わたしはこの場を濁そうと、口を開いた。
「……あの、ご飯、よろしくて?」
とりあえず仕事しろ、という圧を込めてにっこり笑って見せる――が、コウンベールは仕事に戻りこそしたけれど、圧のある笑顔が効いたようには見えなかった。これは……さっきのわざとらしい嘘にも気が付かなかったのかも。
本当に大丈夫か、ヴァイセン家。
わたしとの婚約破棄をしたカルファ王子は、今のところ第一王子のアンブロ王子に比べて劣勢だろう。わたしがどれだけ非道な人間であったとしても、婚約破棄ともなれば経歴に傷がつく。
むしろ、女一人手なづけられなかった王子が国を率いていけるのか、と考え出す貴族たちもいるはずだ。
第三王子のトーランド王子は国王になることに興味を見せていない。自分が王子という自覚がないのか、常に政に関しては他人事だ。
ともなれば、第一王子が王となって、この男、コウンベールが宰相となる未来が一番有力だ。
大丈夫か、エンティパイア。
そう心配したところでどうにもならない。わたしがまだオヴントーラの者であればやりようもあったが、二度とわたしには関われないことなので。
……とはいえ。
皿を落として列を止めたともなれば、コウンベールが食堂のおばちゃんから怒られるのは必然で、彼は強制的にこちらへ話しかけられる様子ではなかった。
おばちゃんの怒りようは他の職員と接するときと何ら変わりがない。
コウンベールが貴族とは知っているだろうが、ここが国に属さない自治区であるからか、見ているこっちがドキドキしてしまうくらい叱りつけている。いや確かにコウンベールが悪いんだけど……。
相変わらず量の多い食事を受け取り、わたしとマルシは席に着く。向かい合う形で。
目の前に座ったマルシの料理が、普段より妙に綺麗な盛り方になっているのを見て――パチリ、とパズルのピースがはまるように、思い出していた。
エンティパイアの傘下国、グルトンに、そんな名前の王子がいたことを。