★深海ブルーマカロン【魔】
きっかけは何のことないことだった。毎年恒例のバレンタインデーにチョコレートを渡したこと……に加え、わたしが難件につまづいているとその人は柔らかな笑みを浮かべながら助けてくれた。
「どうしたんだい。お前さんらしくない。ここを少し変えてみたらすっきりしそうじゃないかな?」
わたしは周りが見えなくなっていたのか、本当にそこをいじるだけですべてのパズルのピースがぴったりと合うのと同時にあんなに散々悩んでいた時間は一体なんだったのだろうという思いが胸の中でぐるぐると渦巻いた。この件はどうしても成功させないといけないというプレッシャーが、周りを見えなくしていて今はそれが粉々に打ち砕かれたような感覚に、思わず大きな息が漏れた。その人にわたしは何度もお礼を言うのと同時に、バレンタインデーが近いということで手作りのチョコレートをその人に手渡すと、その人は一瞬驚いたような顔を出したあとふっと表情を緩ませた。
「どうやら大丈夫そうだね。お前さんのその顔から察することができるよ。その素敵な笑顔を私に向けてくれてありがとう。なんだか私まで救われたような気がするよ」
その人はわたし以上に安堵の表情を見せると、すいとわたしの前に顔を近付けた。その人がいつもつけてるマリンアクアの香水がほんのりとわたしの鼻腔をくすぐった。
「お前さんの笑顔に救われたお礼に、何か一つお願いを聞いてあげようかな」
悪戯っぽく笑いながらその人はわたしに言った。お願い……かぁ。どうしようかな……わたしは腕を組みながら真剣に考えると、ふと一つアイデアが浮かびそれを口にすると、その人は満面の笑みを浮かべて「いいとも」と答えてくれた。今度の日曜日、その人と町へ出かける約束をした。
その人─フェルグはうちの会社の中でも一位二位を争うほど人気が高い社員さんで、特に女子(言わずもがな)からの人気が高い。女子だけでなく男性からの評価も高く、その控えめな性格がみんなの心をぐわしと掴んでいる。
待ち合わせ時間は午前十時、場所は町の中央にある大きな噴水の近くというこちらの都合で選んでしまったけど、フェルグは来るのかな。憧れの人と一緒の時間を過ごせるなんて夢のようで、昨日は中々寝付けなかったな。どきどきしながら時計を確認しても時計の針はいじわるで、中々時を刻んではくれなかった。やがて眼が冴えてしまったわたしは起床時間よりも早くベッドから起きて準備を始めた。遅刻するよりはましだと考え、いつもより丁寧にメイクを施していく。お気に入りのメーカーから出た春を感じさせる桃の香りがするリップクリームで唇を彩り、ミントをふんだんに使ったミストシャワーで寝ぼけた髪の毛を優しく起こす。メイクも濃すぎないように調整しながら整えると、この日のために買った白いブラウスに小さなハートがついたプチペンダント、薄桃色のフリルシフォンスカート。足首にはプチペンダントとお揃いのアンクレットをつけてみた。しわがないことを再度確認をし、準備完了。軽く朝食を摂ってから待ち合わせ場所へと向かうと、既にたくさんの人で賑わっていた。噴水の近くには数多くのベンチが設置されており、そのベンチで日光浴を楽しんでいる人や読書を楽しんでいる人、また近くに大きな広場もあるので子供たちは元気いっぱい走り回っていた。
わたしが噴水の近くでフェルグが来るのを待つこと数分。わたしの後ろからこちらに近付く足音が聞こえてきて、振り返るとそこには会社で見るフェルグとはまた違った雰囲気を醸し出すフェルグが立っていた。
「やぁ、お待たせ。マイレディ」
黒いジャケットに同色の薄手のシャツ、首からはきらりと光るシルバーネックレス。深海を思わせる深い濃いブルーの毛先はいつ見てもきれいだなぁと感心してしまう。愛用のサングラスもしっかりつけたフェルグはわたしに微笑むと、小さなカップをわたしに差し出した。
「この近くでオープンしたばかりのカフェに寄っていたんだ。新作だってあったからお前さんにもと思って」
確かにこの近くに新しくオープンしたカフェがあったのを思い出した。入りたいけど、出社時間だと閉まってるし、昼休みに行くと人気のため混雑してて入れないし、だからといって帰り道によると閉まってるしで半ば諦めていたカフェのドリンクをフェルグはテイクアウトしてくれていた。
「待たせてしまって申し訳ない。こちらで許してくれるかな?」
ゆ……許すもなにも。時間ぴったりだったし何も謝ることないのに……もう。わたしはカップを受け取ると香ばしい香りにうっとりしつつ、一口含んだ。ほどよい酸味のコーヒーになんだか気分まで上向きにさせてくれるようなブレンドだった。
「さ、今日はお前さんの買い物にとことん付き合うよ。マイレディ」
さっきは聞き取れなかったけど、マイレディって言った……? ちょっと恥ずかしいな。こうしてわたしとフェルグはたくさんの人で賑わうショッピングエリアへ向かった。
「いらっしゃいませー」
「春の新作、入荷してまーす」
「ご試着も承ってますのでお声かけくださーい」
わたしの大好きなブランドのお店に入ると、元気のいい店員さんの声に迎えられた。中々じっくり見る時間もなかったから、今日はフェルグには悪いけど我儘させてもらおうかな。トップスやボトムスはもちろん、バッグ類やアクセサリーなどの小物も充実しているこのお店はずっと前から大好きで新作が出る度に通っていたんだけど、仕事が始まり繁忙期に入ってから来る機会がめっきり減っちゃった。でも、こうして大好きなお店の商品を見れることに幸せを感じながら、あれやこれやとみていた。「新作」と書かれたPOPの商品を自分にあててみたり、イメージしてみたりしているとフェルグがわたしが選んだ隣のブラウスに手を伸ばした。
「こちらの方がお前さんに似合うと思うな」
自分が好きなものとは逆のものが来るとは思わなかったわたしは、どきどきしながら試しに自分にあててみると今まで想像もしなかった自分が鏡の前に映し出されていた。
「うん。私の思った通り、とてもよく似合っているよ」
わたしは思わず息を漏らすと、フェルグが選んでくれたブラウスをショッピングバスケットに入れた。新しい自分を見つけたような気がしたわたしは、フェルグにお礼を言うとフェルグは「気に入ってくれてよかったよ」と言いながら笑った。お会計を済ませ、ペーパーバッグを受け取ろうとすると、横からフェルグがそれを華麗に奪っていく。
「おっと。それは私の役目さ」
何の躊躇いもなく奪っていくその姿に、わたしの胸は小さく跳ねた。
そのあと、カフェに入り昼食を摂ったわたしたち。わたしたちが席に着くのと同時に店内は一気に混み始め、あっという間に満員となった。ナイスなタイミングだったとフェルグは言うとわたしに小さくウインクした。
「お待たせしました。ホットサンドイッチとデザートのセットです」
注文した品が届き、わたしたちは食事を楽しんだ。ハムはジューシー、たまごはふわふわ。厚切りのパンはとても食べ応えがあり、一切れで満足感を得るには十分くらいだった。わたしはお腹と相談し、少しずつ食べ進めているとフェルグはあっという間に完食していた。あまりの早さに驚いていると、フェルグは「ゆっくりお食べ。焦って喉に詰まったら大変だ」と言いながらくすくすと笑った。なんだか子供みたいな扱いをされているような気がしたわたしは小さく頬を膨らませると、フェルグは「普段見られない君の顔を独り占めできる私は、今最高に幸せだよ」とさらりと言った。言葉の圧が強すぎて何も言い返せないままデザートに手を出した。ほどよく溶けたバニラアイスが動揺しているわたしの頭を心地よく冷やしてくれた。最後まできれいに食べ終わり、食後のコーヒーを済ませて席を立とうとすると、フェルグがそれを制した。
「お口にチョコレートをつけてどこへ行くんだい? マイレディ」
フェルグが紙ナプキンでわたしの口の周りを一拭いすると、そこには微かにチョコレートが残っていた。わたしは恥ずかしくなり、今度は自分で紙ナプキンを口元に充てるとフェルグはただ静かに準備が整うまでじっと待っててくれていた。
それから気になるお店を入って中を見て楽しんでを繰り返していると、外はあっという間にオレンジ色に染まっていた。楽しい時間はあっという間だということを実感したわたしは、今日一日わたしに付き合ってくれたフェルグに最大の感謝を伝えた。
「なに。感謝したいのは私の方だ。あんなに喜んでくれるとは思わなかったからね。私の方こそ、ありがとう」
お礼をお礼返しだなんて……。それ以上言葉が見つからないわたしは無言で顔を反らすと、「そうだ。忘れるところだった」とフェルグが胸ポケットから何かを取り出した。
「はい、これ。この前のお礼。お前さんに似合うといいのだけど……受け取ってくれるかな?」
小さな黒い箱を差し出したフェルグ。一瞬、何が起こっているのかがわからなかったわたしは言葉をなくしていると、フェルグは小箱をそっと開けた。中には深海を楽しそうに泳ぐ親子イルカのペンダントが入っていた。
「こんなことしかできないけれど……少しでも今日が『楽しかった』と思ってくれたら嬉しいな」
わたしはフェルグに今日一日、とっても楽しかったと伝えるとフェルグはいつもの柔らかい笑みを浮かべながら「ありがとう」と言った。夕日を背に歩き始めるとフェルグはさりげなくわたしの手を優しく握った。
「さ、帰ろうか。マイレディ。明日も素敵な一日になりますように」
明日からまた仕事が始まる。不安な気持ちもあるけど……きっと大丈夫。わたしなら、できるよね。
ね? フェルグ?




