春風をまとった桃のぱふぇ【魔】
「……ここは」
柔らかい風に気が付いた女性は目を擦りながら辺りを見回した。そこには自分がいた世界とは異なる景色が広がっていた。
「わたし……なぜここにいるの? 確か……茶屋で一息入れていたのに……牛車を見ていたら急に眠くなって……それから……思い出せないわ」
艶やかな長い黒髪を腰まで伸ばし、赤を基調とした着物、帯は紫地に光の反射具合で見える程度の藤の花が描かれていた。女性はどうしようかと困っていると、どこからともなく温かい風がひゅうと吹いた。
「……少し、辺りを見てみましょう。それから考えても遅くはないと思う……」
女性はきゅっと唇を噛みしめながら一歩また一歩と歩き始めた。
女性の名前は六条御息所。高貴な生まれの彼女はあることをきっかけに、とても美しく文武の才能にも恵まれた光源氏と見知ることとなる。それからというもの、六条御息所は光源氏のことを考えるようになり、いつか一緒になれるのなら……と淡い恋心を抱き始める。しかし、そんな光源氏にはたくさんの思い人がいた。その思い人は皆美しく、知性も話術も巧みだった。それに対し六条御息所はあまり自分から話題を提供するということが苦手なためか、中々光源氏と話す機会がなかった。何度も他の思い人に話を遮られ、ついに心が折れかけてしまっている六条御息所は盛り上がっている客間から離れ、ひとり縁側で空を仰いでいた。空は青く澄み渡っており、風も穏やかなこともあってか鳥たちもこころなしか気持ちよさそうに泳いでいるように飛んでいた。そんな鳥たちを見てふっと頬を緩ませていると、背後から声が聞こえた。
「どうした。そんな浮かない顔をして」
振り返るとそこには光源氏がいた。まさかの人物に六条御息所は小さな悲鳴を挙げながら横転すると、それが面白かったのか光源氏はからからと笑った。
「そんなに驚かなくてもよかろう」
「え……えっと……だってさっきまで皆様とお話されていたので……その……」
「いつも同じ話で少し飽いていたのだ。たまにはそなたの話も聞きたい」
「え……そ……」
「なに。遠慮することはない。そなたの気持ちが落ち着いてからで構わん」
「あ……あわわわ……」
六条御息所は目を白黒させながら動転していた。しかし、そんな六条御息所を決して笑わず、ただ静かな笑みを湛えながら光源氏は待っていた。六条御息所から話すことに興味があり、今ここにいるのだ。数分の後、六条御息所は落ち着きを取り戻し静かに口を開いた。それは身内の話だったり、近所の花々が美しかったりと大したことではないことばかりを口から零していた。恥ずかしそうに話す六条御息所に対し、光源氏は何も言わず静かに頷きながら話を聞いていた。その静かなそして優しい表情を浮かべている光源氏を見た六条御息所は、不思議と心がほぐれたのか思いつく限りの話を光源氏に話した。
やがて青空が夕焼け色に染まりそうな頃。六条御息所は全てを話し終えると、光源氏は音を出さずに拍手をした。
「いやはや。これほどまでに美しい話、久しぶりに聞いた。ありがとう」
「そ……そんな……」
「本当の事を言ったまでだ。特に近所に咲く花の話題、とても興味がある。今度また詳しく聞かせておくれ。さて、そろそろ戻らないとな。皆がむくれて風船にでもなっていたら敵わんからな」
悪戯っぽく笑いながら光源氏は六条御息所に言うと、六条御息所もくすっと笑いながら光源氏についていき客間へと戻った。案の定、他の女性たちは頬をぷくっと膨らませながら文句を言っていた。
「光源氏様。お戻りが遅いです」
「もっとわたしたちの話も聞いてほしいです」
「あはは。すまないね。さて、今日はこの辺りでお開きにしようか。また日を連絡する」
こうして光源氏とのお茶会はお開きとなり、各自家路へと就いた。六条御息所も光源氏に手を振り家路へ向かおうとしたのだが、途中目に留まった茶屋が気になり暖簾を払った。
「ごめんください。茶を一杯ください」
「いらっしゃい。おかけになってお待ちください」
日も沈みかけ、辺りを橙色に染めていきながら六条御息所は茶屋で一息を入れた。風も少し冷たくなりこれから夜が来ることを告げていた。本当は早く帰らないといけないのだが、なぜだかこの茶屋に寄って行かないとと感じた六条御息所は、静かに茶が来るのを待った。
「お待たせ。熱いのでお気をつけて」
深緑色の湯飲みに並々と入った緑茶を手に取った六条御息所は、店主に礼を言い小さく会釈をした。ゆっくりと湯飲みを傾け熱い緑茶をすすると、じんわりとした温もりが六条御息所の身体を優しく温めていく。心が落ち着き、もう一口すすろうと湯飲みを口に近付けたときだった。
「あ……ら? どうしたの……し……ら」
急に目の前がぐるりと回ったかのような感覚に陥り、六条御息所はそのまま深い闇の中へと吸い込まれていった。
「それにしても……」
歩き始めたのはいいものの、周りには見慣れないものが多く戸惑っている六条御息所。見たことがあるかもと思って近づいて見てみれば、それは違っていたり景色もどことなく違っていたりと見慣れないものが多すぎて次第に六条御息所は不安を覚えていた。
「ここは……一体どこなのかしら……似ているようで……違う……」
ふと視線に入った小さな腰かけのようなものに座り、六条御息所はどきどきと跳ねる心臓を落ち着かせた。大丈夫……大丈夫と何度も自分に言い聞かせながら深呼吸を何度も繰り返し、ゆっくりと顔を上げるとそこには満開の桜が咲いていた。
「あ……」
その大きな桜の木に思わず声が漏れた六条御息所。ふわりはらはらと散る桜の木を見た六条御息所は、いつかどこかでこの光景を見たような気がした。必死に記憶の糸を手繰っていくと、そこは……。
「光源氏さま……そこにいらしたのですね」
目を細め、うっすらと涙を浮かべ両手を伸ばす。やがて小さな薄桃色の花弁が手のひらにのると、六条御息所は愛おしそうにその花弁を握りしめると背後から声がした。
「六条御息所や」
ゆっくりと振り返ると、そこには優しい笑顔を湛えた光源氏が立っていた。
「光源氏……さま……わたし……」
「皆まで言うな。言いたいことはわかっておる。すまない。遅くなってしまった」
「……」
六条御息所は無言で首を横に振った。憧れの、決して思いが届かないと思っていた光源氏が今目の前にいるというだけで、これほどまでに幸せなことがあるだろうか。
「さぁ行こうか。わしの手を取ってくれるか?」
「……はいっ!」
六条御息所は差し伸べられた手を取り、歩き出した。春風がびゅうと吹き、舞い上がった桜と共に空へと旅立った。あのときと同じ、澄み渡った青空へと向かって。




