ハニートマトとスイートキャロットのパウンドケーキ【竜】
「任務完了。これより帰還します」
通信機にそう端的に伝える一人のSPがいた。対象であるリーララナを狙う集団がこちらに向かっているとの情報が入り、誰よりも早く現地に到着した彼の名前はラーガッツェ。ぴしりときめた深い深い紫色のスーツに身を包み、きりりとしたその表情は何事にも動じないという強い意志を感じる。黒縁スクエアの眼鏡をかけ、静かにブリッジを持ち上げた。艶やかな髪をオールバックに整え、額付近から伸びる黒曜石色の角、尖った耳、腰辺りからが同色の尾がだらりと垂れていた。左手には数々の便利グッズが詰め込まれたジェラルミンケースが握られており、いつでも戦闘態勢にはいる準備は整っていた。
幸い、今回についてはそこまで大事に至ることはなかったが守られている本人はそんなことが起きていることなんて露知らず、年の近いのSPであるリッカナファーと買い物に興じていた。リッカナファーも立派なSPであるのだが、守る立場であるとともに親友に近い存在でリーララナに接している。決して不安にさせないよう、決して恐怖を抱かせないようリッカナファーなりにリーララナをしっかりと護衛している。その上司であるラーガッツェは二人の無事な姿を確認すると、薄く笑みを浮かべながら音もなくその場を去った。
その日の反省会。ラーガッツェはいつものバーでウイスキーを楽しんでいた。大きな氷がじんわり溶けていく様を見ながら小さくグラスを傾けると、スモーキーな香りとともにふわりと広がる柑橘系の風味が張り詰めていた緊張を心地よく解きほぐしてくれた。からからと氷を傾けていると、一人の部下がバーのドアチャイムを軽快に鳴らしながら入ってきた。
「あ、先輩。お疲れ様です」
「ああ。おつかれ」
ラーガッツェの隣に座り、「いつもの」とだけ小さく注文するとがっくりと肩を落としながら深い溜息を吐いた。
「どうした。いつになく辛そうだな」
ラーガッツェが声をかけると、部下は「そうなんすよ……」と入ってきたときとは違い、少し弱気な雰囲気を醸し出していた。何事かと思ったラーガッツェは同僚が話し始めるまで、じっくりと待つことにした。しばらくして部下が注文した飲み物が運ばれると、バーテンダーは空気を呼んでか何も言わずに下がった。グラスを大事そうに握りながら、部下は琥珀色に輝く液体をじっと見つめながら呟いた。
「……おれ、ちょっとだけ自信なくしそうになっちゃいまして……」
部下の話を聞いていると、今回の任務で小さな小さなミスをしでかしたそう。その小さな小さなミスが原因で護衛対象がえらくご立腹になってしまったとのことらしいのだが……。
「……小さくてもミスはミスだ。次から気をつければ済む話だろう」
「……そうなんですけどねぇ……なんか難しいっす……」
琥珀色の液体を一気に煽った部下。ふうと大きく息は吐きながら空になったグラスをただ握りしめながら、少し潤んだ瞳でラーガッツェを見つめながらへらっと笑った。
「……そうします。こんなんでへこたれてたら、SP失格っすもんね」
「その意気だ。どうだ。もう一杯飲むか? 奢るぞ」
「え? いいんすか? ……じゃあ、お言葉に甘えて」
「マスター」
ラーガッツェが小さく手を挙げ、注文をするとマスターは返事もせず静かに飲み物を作り始めた。その間、ラーガッツェはミスが起きないためのアドバイスをいくつかすると、部下はこくこくと頷きながら聞き入っていた。すべてを聞き入れたあとの部下の顔は、さっきまでの憂い顔ではなく、すっきりと何か迷いがなくなったかのような顔をしていた。
「さすが先輩っす! 先輩っていっつもスタイリッシュでクールでいいっすよね。しかも都会でなら猶更洗練されて見えるというか……。それがもし、田舎だったらどうっすかね?? 目立っちゃって無理そうっすよね」
新しい飲み物を受け取った部下から何気なくそう言われたラーガッツェは僅かに眉をぴくりと動かした。
「……ほう?」
静かにだが確かな声に部下はびくりと身体を震わせた。この時の先輩は本気だということを、部下は何度も間近に見てきている。だからこそ、自分の発言はまずかったと後悔しても遅かった。
「……ならば、おれが田舎でもできるということを証明すればいいのだな?」
ぎろりと部下を睨むように見ると、部下は恐怖のあまり目に涙をうっすらと浮かべながら何度もこくこくと頷いた。ラーガッツェは「簡単だ」と言いながら眼鏡のブリッジを持ち上げると、どこからともなく取り出した有給申請書に必要事項を書き込んでいき、代金をそっと置いて店を後にした。ドアチャイムが鳴り終わるまで、部下は何も言えずただ「やってしまった」という後悔だけが残っていた。
有給申請書を叩きつけ終えたラーガッツェは早速地図を頼りに現地へと赴くと、そこは喧噪とした都会とは全く別の世界が広がっていた。広大な大地、いつまでも深呼吸をしたくなるような新鮮な空気がラーガッツェを優しく包み込んだ。前日に雨が降っていたのか、しっとりとした空気はラーガッツェの気持ちをもしゃきっとさせてくれているような気がした。
「……中々にいい場所だな」
事前にコンタクトを取っておいた家屋を尋ねると、中から出てきたのは白髭を豊かに蓄えた男性だった。ラーガッツェの顔を見るなり、嬉しそうに頬を緩め中へと招き入れた。
「ようこそ。遠かっただろうに」
「いえ。前から興味がありましたので苦ではありません」
「そうかそうか……では、簡単に説明しようかのう」
そう言いながら男性は家の中を簡単に案内をした。食事をするリビング、ラーガッツェが使える部屋、キッチンなどもあり男性曰く「ここにあるものは好きに使ってくれていい」とのことだった。それから、この家の外にある広大な畑に向かうと、そこには何もなく寂しい光景だけが広がっていた。
「わしも年でな。前までは畑で作物を育てておったのだが……」
「お任せください」
そう言うや否や、ラーガッツェは持ってきた鞄から自前の家庭菜園用のエプロンをはじめとした装備一式を身に着けると、目にも止まらぬ早さで畑を耕していった。そこへ物置にあった作物の種をきれいに植えていき、水やりを行った。ここまで一時間もかかっていないのだが、今度はそこから作物だけではなく季節に合う植物も育てようと種を植えていった。一通り作業が終わり、ほっと息をついた頃には空もオレンジ色に染まりつつあった。
「おーい。そろそろ寒くなるから中へ入りなさい」
言われるがまま家の中へと入り、男性が用意してくれた野菜のスープとパンを有難くいただいたラーガッツェは早めの床へと就いた。
それから数か月後。作物たちはすくすくと育ち、とても初めて作ったとは思えないほどの豊作だった。トマトやナス、とうもろこしなどは家の中にあった籠だけでは足りず倉庫の中へと一時的に保管をするほどの量だった。艶々に輝くナスを収穫しているときのラーガッツェは、護衛任務では味わない充実感で満たされていた。
「……ほう。これはうまそうだ」
ナスの収穫を終え、次はトマトの収穫へと移りその真っ赤に実ったトマトを手に思わず喉をごくりと鳴らす。丁寧にハサミで切り、大きく実ったトマトを袖で軽く拭き、がぶり。
「うん……うまい」
口いっぱいに広がる甘味と酸味に笑みが零れた。満足のいく出来に頬を緩ませていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「せんぱぁい!」
しばらく護衛任務から離れていたから心配になってすっ飛んできたという部下だった。変わらない人懐っこい笑顔で挨拶をしながら畑へ案内されると、部下は目を見開いて驚いた。
「これ……全部先輩が作ったんすか?」
「ああ。そうだ。豊作だぞ」
「……すご」
愕然とする部下を後目に、ラーガッツェは真っ赤に熟れたトマトを一つ部下に渡した。
「これ、齧ってみろ」
「へ? トマト?」
「ああ。この環境で食べるのは格別だぞ?」
仕事では見ることのない新しいラーガッツェを見つけたような気がした部下は、思い切りトマトにかぶりついた。溢れる果汁に戸惑いながらも、大地の恵みを黙々と味わいにこっと笑った。
「うまいっすね……いつも食べてるものよりも……格別っす」
「だろ?」
部下はラーガッツェが育てたトマトを大事に大事に食べ、空を仰いだ。都会では拝むことのできない青い空の海、泳ぐ雲を目で追いかけ、透明な風に頬を撫でられた。まるで身体の中にあるものが入れ代わるような感覚に、部下はただ静かに立っていた。
「……いいっすね」
「ああ。ここにしかないものがたくさんあった。それに気づかせてくれて有難うな」
にかっと笑うラーガッツェに部下は顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を横に振った。あの時の言葉が頭に浮かんだ部下はなんとも居づらそうにしていたのだが、そんなことなど全く気にする素振りを見せないラーガッツェは腕を組みながら部下と一緒に空を仰いだ。
「もう少ししたら戻る。最後の手入れをしたら戻るから」
「……っす」
「おー、客人か。折角だから今日は泊まっていきなさい」
男性がそういうと、ラーガッツェはたくさんの野菜たちを籠に詰め込み、夕飯の仕込みをするために中へと入っていった。豪華ではないが、素朴で自然の味を楽しむことができるとラーガッツェは言いながら仕込みを始めていった。今日のメニューはトマトのシチューに、トウモロコシをふんだんに使ったパンケーキとナスのグリルだった。特にナスのグリルはじっくり弱火で熱を入れたナスはとろけるように柔らかく、そのままでも十分美味しい一品となった。大地に恵みに感謝をしながら三人で食卓を囲むと、あっという間に食べ終わってしまった。作り手であるラーガッツェは嬉しそうに微笑みながら食器を片付けると、そばで手伝って切れている男性に感謝の意を伝えた。
「いいってこと。またいつでもおいで。ここはもう、お主の家でもあるのだから」
「……有難うございます」
今まで決まった家などなかったラーガッツェにとって、その一言は深く胸へと浸透していった。その日の夜、ラーガッツェは空に浮かぶ幾万の星たちの会話に耳を傾けてから床へと入った。
男性に別れを告げ、帰還したラーガッツェは簡単に報告書をまとめてから提出をすると廊下でリッカナファーとばったり遭遇した。
「あ! ラーガッツェさん! おかえりなさい。どうでした?」
まるでお土産が欲しいというようなウキウキしているリッカナファーを見たラーガッツェは、小さく笑みを浮かべながら小さく咳払い。
「……今度、おれのも・う・一・つ・の・家・へと招待します」
便利なものはない、どちらかと言えば少し不便に感じるかもしれない。けれどその中にある発見こそが、ここ都会にないものだと感じたラーガッツェは田舎であった話をするため、談話室の札を「未使用」から「使用中」へと代え扉を閉めた。




