オレンジとハニーアップルのフィナンシェ【魔】
昼も夜も関係なく、どんよりとした森の中を進んでいくとそこだけ月明りが照らしているのかと思うほど眩しい白色の屋敷があった。庭の手入れはあまりされてはいないが、雑草は生えておらず少なくても来訪者を迎えるという気持ちはあるようだった。ひどく錆びた門扉を押し開けると、まるでいびきかのような音と共に開いた。不思議なことに屋敷には傷一つついておらず、新品同様のドアノブに彼女は驚いていた。意を決し、彼女はドアノブに手をかけ、回した。ぎぃという音と共に開いた先には赤い絨毯が敷かれており、天井には大きなシャンデリアがぶら下がっていた。等間隔で置かれた絵画には共通点はないものの、風景画や人物画などがきれいに飾られていた。興味本位で少しかけた花瓶に触れようとしたのだが、何があるかわからない場所で不用意な手出しは禁物だと、恩師に教えられていたことを思い出した彼女は寸でのところで手を引っ込めた。ふうと小さく息を吐きながら、屋敷の散策を続けた。
かれこれ三十分以上、屋敷の中を散策しているが全く人の気配がなく、妙な感じがしていた。こんなにきれいにしているのに人が不在だなんてあるものなのだろうか……彼女はこの仕事を依頼した髭の旦那の顔を思い出し、苦虫を潰したような顔をした。
「……本当にお尋ね者なんているのかしら……」
剣術の腕を買われ、冒険者ギルドに参加し始めて単独での依頼。今まではみんなの力を合わせて苦難を乗り越えてきたのだが、今回は全て自分の力でこなさなかればならない。回復をくれるものも、補佐をしてくれるものも誰もない。信じられるのは己の経験と判断のみ。果たして無事にこなすことができるだろうか……。いくら剣術の腕はあるとはいえ、やはり単独での依頼クエストには不安が拭えない彼女は、お守りであるヒスイのネックスレスを執拗に握っていた。これは母の形見のもので、この世から旅立つ前に母から首にかけてくれた宝物だ。寝る前や不安に感じている時、彼女はこのヒスイのネックレスをいじっている。それは母からの助言を求めているようにも見えるのは気のせいだろうか。鈍色の鎧に具足、それと仲間が作ってくれた銀色の剣をかたかたと震わせながら一歩また一歩と屋敷の中を進んでいくと、今までの屋敷とは違ったものが彼女の目に入ってきた。
「……これはなにかしら」
それは既に朽ち果てた果実だった。元は鮮やかな色をしていたと思われるものは、茶色く変色し当時の形を思い起こせる部分は一片たりともなかった。
「……なんでこれが……?」
彼女は朽ち果てた果実を見ながら呟いた。それを皮切りに今度は廊下が変色しあちこち朽ちかけている廊下に立った。うっかり足を踏み入れようものなら底が抜けてしまいかねないと思った彼女は、だいぶ慣れてきた夜目を頼りに変色している部分を避けて更に屋敷の奥へと向かった。だいぶ奥まで進んだのか、変色している個所が明らかに増えてきていた。何度も慎重に進んでいくと、どこからかすすり泣く声が聞こえた。
「……誰かいるのね」
彼女はヒスイのネックレスをぎゅっと握りながら声のする方へと進むと、そのすすり泣きはぴたりと止んだ。急に訪れた静寂に戸惑った彼女はゆっくりとドアノブに手をかけ、そしてゆっくりと回した。
扉の先にいたのはこの屋敷と同じいやそれ以上に白いジャケットに同色のハイブーツ、そして白銀色のショートヘアーの間から見える黒い角に加え、その目元には黒い目隠しをしていた。頭に角があるからきっと悪魔だと安直な判断をした彼女だが、すぐに武器を構えず彼女はその人物にゆっくりと近付いた。
「やぁ。ごきげんよう。よくここまでたどり着くことができたね。君はわたしと対話をしにきたのか……それとも、わたしを討ちにきたのか……。とりあえず、お話でもしましょう」
びくりと身体を震わせた彼女。思っていた以上に紳士的な振る舞いに、事前情報と齟齬があり彼女の頭の中はこんがらっていた。事前情報には、屋敷に住んでいる悪魔は辺りを無差別に腐敗させ、問答無用で襲い掛かってくる……とあった。それがどうだ。今、目の前にいる悪魔は余裕の立ち振る舞いをしているではないか。
「あの爺め……」
忌々しく唇を噛みしめていると、悪魔は薄く笑みを浮かべながら両手を広げた。
「怖がらなくてもいい。落ち着いて……」
「あ……あの」
「そこ、床が腐ってるから……あ」
「きゃああっ!!!」
すっかり目の前の悪魔に気を取られていた彼女は、悪魔からの忠告が耳に入る前に朽ちた床板を踏んでしまい、視界が一気に低くなった。
「だ、大丈夫かい。すまない。わたしがもっと早くに気が付いていれば……」
「あ……いえ……その……」
悪魔から手を借り、なんとか脱出することに成功した彼女は小さく頭を下げた。
「気にしなくてもいいよ。あ、そういえば自己紹介がまだだったね。わたしはフェアデル」
……事前情報と一致する箇所が一か所だけあった。それは討伐する悪魔の名前だった。それが今目の前にいるのだが、邪悪な気配など一切感じられない佇まいだった。
「ここまで来ることができたということは、それなりに腕に自信がある方とお見受けしていいのかな。改めて、お話でもどうかな」
フェアデルと名乗った悪魔は小さく笑いながらついてこいと言わんばかりにゆったりとした足取りで別室へと向かっていった。彼女の足元に気をつけながらフェアデルの後をついていくと、そこには青白い蝶が舞っていた。耳を澄ませばその羽音が聞こえてきそうな神秘的な光景に、彼女はすっかり見惚れていた。
「どうやら彼らも君を気に入ったようだ。彼らも中々気難しい性格をしているのに、これは嬉しいね」
彼女の肩に青白い蝶が止まり、まるで「ごきげんよう」と言うかのように小さく羽ばたいた。それからフェアデルと彼女は紅茶を飲みながら時を過ごした。思っていた以上に紳士な振る舞いに、討伐対象だということを彼女はすっかり忘れフェアデルと会話を楽しんでいた。次第にフェアデルの身の回りを世話するようになった。話をしていく中で、フェアデルは生まれたときから呪いを受けているせいで、あまり人と対話をしたことがないとのことだった。討伐対象の過去を知った彼女は、手をぐっと握った。自身のことを打ち明けてくれる人を悪い人とは思えない……そんなことを思い始めた彼女の口から自分でも信じられない一言が零れた。
「あたしでよければ、話し相手になりますよ」
その言葉にフェアデルは一瞬面食らったような表情をすると、目隠しをしていてもどこか嬉しそうな気持ちで「ありがとう」と一言。それから彼女はフェアデルの身の回りの世話を買って出た。所々朽ちた部分もあるので、それにも気をつけながら生活をしていく時間が積み重なってくると、フェアデルの心にも変化が訪れた。
「彼女は……わたしを愛してくれるだろうか」
生まれついて持ってしまった呪い。それは、腐食。フェアデルが直接見たものを腐食させるという呪いは、どうやっても解呪できず今もこうしてフェアデルの心を悪戯に蝕んでいる。直接見なければ腐食の呪いは発動しないということだけがわかったフェアデルは、自身で目隠しを作りそれで目元を覆った。何度か試したが腐食は起こらず安心していたのだが、今回のように何度かここを訪れる人物がいた。そして、彼もしくは彼女たちはフェアデルと言葉を交わし同じ時を過ごした。そして、彼もしくは彼女たちは一つの興味を持った。
フェアデルの目隠しを取ってみたい
彼もしくは彼女たちはフェアデルが寝静まった時を狙い、目隠し取り外した。そこには深紅の瞳があるのだが、左目はまるで奈落の底のような冥い暗い黒色をしていた。左目だけは開いており、目が合うと徐々に身体が腐食していきその勢いは止まらないまま全身へと広がると最後は液体と化した。
「……だから……目隠しを取ってはいけないと……あれだけいったのに……こんな……こんな力……いらないっ!!!」
やっと仲良くなれたのに……
やっと打ち解けることができたのに……
やっと……やっと……
人とお話ができたと思ったのに……
自身の呪いを忌々しく思うことしかできないことに、余計に腹がたったフェアデルは心の底から悲しんだ。次こそはちゃんとお話しができるように、次こそはもっとうまく立ち回れるよに何度も何度も注意したのに……今回もだめだった。どうして……どうして……。問いかけても返事がこないことはとっくに知っているのにも関わらず、既に腐食が進行しどろどろの液体と化し床下へと流れ出てしまっているかつて話し合っていたものへ何度も何度も問いかけた。それでも、返ってくるのは無情にもぼとぼとと床下へと流れる音だけだった。
今回は……今回こそは……。フェアデルは失敗しないよう、今までの悲しい経験を生かすと心に誓いながら目の前にいる女性に対し精一杯時間を共有していこうと努めた。これ以上、何も腐食させたくないという気持ちを強く抱きながら、フェアデルは昼か夜かもわからない場所で、優雅にティータイムを楽しんでいた。




