マナベリーとカシスのカッサータ【魔】
ぼくは空を見ていた。今にも泣きだしてしまいそうな子供のような空を。雨が降るのは時間の問題だろう。ひょうと冷たい風がぼくの頬を通り過ぎて行った。これはいよいよかもしれないと思い、ぼくはフードを深く被り歩き出した。どこへ行くかなんて決めてない。その時の気分によって決まるし、またその気分がまたかわるかもしれない。だから、敢えて決めない。自分の行きたいように行けばいい。
「あぁらアトラーグったら。そんなにフードをすっぽり被ってどうしたの? 寒かったかしら?」
こいつは……なんていえばいいのかな。あることをきっかけについてくるようになった巨大なボールのような……悪魔? なのかな。よくわからないや。
「んま! ワタシを悪魔だなんて! でも……あながち間違っちゃいないわねぇ。おっほほう♪」
巨大なボールのような悪魔はけらけらと高い笑い声をあげた。ぼくはそんな笑い声に構うことなく、黙々と歩いた。いや、黙々としか歩けないんだ。
ぼくはアトラーグ。小さい村で生まれて、すぐに両親とは死別。ひとりで暮らしていたけど、それも限界になり、母さんと仲の良かったお隣さんがぼくの面倒を見てくれることになった。それから、お隣さんはぼくを本当の息子のように育ててくれて、今ではそっちが本当の両親なのではないかと思ってしまうくらい。
それから数年の月日が流れた。ぼくはある程度のことは一人でこなすことができるくらいまでになると、今度はお隣さんへの恩返しで何かできないか模索していた。そのことをお隣さんに話すと、二人は首を横に振った。
「いいのよ。そんなこと考えないで。アトラーグ君が元気で過ごしてくれれば、それでいいのだから」
「今はまだ考えなくてもいいよ。ほら、天気がいいからどこか散歩してくるといい」
二人に促されながら、ぼくは町の近くにあった図書館に出かけることにした。図書館といってもそんなに大きな場所じゃないんだけど、でもぼくでも読める本がたっくさんあって楽しい場所だった。
「あら、いらっしゃい。ゆっくりしていってちょうだいね」
顔馴染みのお姉さんに挨拶をし、館内をぐるり。昨日はあれを読んだから今日は……あれ。昨日まで見なかった本がある。手に取ると「錬金術」となんとか読めた。錬金術……どんなものなんだろうと思い、ぼくは本を広げた。そこには今の自分では読むことができない文字がびっしりと書かれており、奇怪な図形や見たことのない生物の絵が描かれていた。ちょっと怖い……でも、面白そうかも。ぼくは頑張って読むという自分への課題を課しながら、その本を借りることにした。
「あら、珍しい本を借りるのね。でも、君ならきっと楽しめると思うわ。頑張ってね」
笑顔でそう言われると……ちょっと恥ずかしいな。ぼくは少し目を逸らしながら本を受け取り挨拶をし、戻ることにした。びゅうと強い風がぼくの顔にぶつかり、思わず目をつむる。なんだろう、まるで意思を持っているかのような風に驚いていると、次にぼくの目に飛び込んできたのは想像を絶するものだった。それは、さっきまでぼくが暮らしていた町が濛々と煙をあげていた。何事かと思い、ぼくは急いで町に戻るとそこには数人の大人たちがげらげらと汚い笑い声をあげていた。
「んだよ、これっぽっちしかねぇのかよ」
「だから言ったじゃないっすか。こんな小さな町に期待すんなって」
「それもそっか。ぎゃははは!」
誰だ誰だ誰だ。ぼくは物陰に隠れながら暴れる心臓を必死に抑え、自分に問うた。いや、知らないし、あんな奴ら見たことないし、いったい何をしているのか……ぼくはゆっくりと様子を伺うとそこにはさっきの奴らはいなくなっていて、代わりのぼくの背後から声がした。
「よう兄ちゃん。こんなところで何してるんだい?」
「まさかかくれんぼなわけねぇよな? そんなバレバレなかくれんぼみたことねぇな」
ぼくは口をぱくぱくさせながら視線を上げると、そこにはさっきまでげらげらと笑っていたやつらが立っていた。見るだけで不機嫌……いや、吐き気を覚えるくらい下卑たその笑顔にぼくは思わず口元を抑えた。
「んだテメェ。おれたちの顔見てなぁにしやがんだ」
「おいおい。いきなりそれとはご挨拶だな」
挨拶でもなんでもない。ぼくは純粋に気分が悪くなっただけだ。思ったことを口にしようと思ったけど、今はそれは得策ではないと思い、口を噤んだ。ぼくはそいつらを睨むと、何が面白いのかまたげらげらと笑い出した。
「おいおい。このちびっこ、おれたちに歯向かう気ありありだぜ?」
「おお怖い怖い。おれたちをどうする気だ? ぺちゃんこにしちゃう? それとも八つ裂きにされちゃう?」
また一段と笑い声が高く、大きくなりぼくの耳が不快だと発しているように思えてきた。苦痛に顔を歪ませていると、男の一人が物陰から何かを掴むとぼくの前にそれを出した。その瞬間、ぼくの背中がぞわりと逆立った。
「あ……アトラー……グ」
「お……ばさん……」
それは出かける前に見たおばさんの顔とは程遠いくらい、ぼこぼこに殴られたおばさんだった。もう自分から動く気力がないのか、おばさんの手足はだらんと力なく下がっていた。ぼくは声を出した。ぼくの声を聞いたおばさんはうっすらと笑みを浮かべながら一筋の雫を零した。
「あぁ……無事だったんだね……はやく……は……やく……にげ……て」
「おばさん? 嫌だ嫌だ! ぼくを一人にしないで!!」
「は……やく……ア……トラー……。あなた……は……たしたちの……わいい……すこ……」
「おばさん!!」
「再会はここまでだ」
男はそういうとおばさんの首を片手で持ったまま、まるでゴミを扱うようにぽいと放り投げた。放物線を描きながらおばさんは最後までぼくから視線を外すことなく見つめていると、ごしゃりという嫌な音と共にそのまま動かなくなってしまった。男たちの笑い声が耳の中で響き、不快さが益々膨れあがり、お腹がぐるぐると何かに掻き混ぜられているような感覚に、ぼくは再び口元を抑えた。もう……だめだ。限界だ……。
「誰か……誰か……助けてよ!! ぼくに力を……!!」
声の限り叫んだぼくにびっくりしたのか、男たちは一瞬ぴたりと動きを止めたけど、またすぐにげらげらと笑い始めた。構うものか。ぼくは何度も何度も何度も何度も喉が潰れるまで訴えた。すると、ぼくのすぐ横で何かが光ったのが見えた。光っているものに視線を動かすと、それはさっきぼくが図書館で借りた本からだった。一体どうして……でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。ぼくは……こいつらをやっつける力が欲しいんだ。
「あらぁあ。何かと思ってやってきてみれば、ずいぶんと可愛らしい子がワタシを喚んだのね♪」
本から現れたのは、巨大な紫色のボールのようなものだった。そのボールのようなものはぼくを舐め回すように見えると、嬉しいのか巨大な口を歪ませ笑みを浮かべた。
「な……なんだこれ……」
「なんだこれとは失礼ね。アンタの呼び掛けに応えてアゲタのに」
「ぼ……ぼくの?」
「ええ。力が欲しいって言ったわよね? その願い、ワタシなら叶えてあげられるわ。でも、何かを差し出さないといけないけどね」
「差し出す……?」
「ええ。それが取引というものよ」
「……わかった」
ぼくは決めた。これから先、もうぼくを知っている人は誰もいない。話すことなんてない。だから、ぼくはこれを差し出すよ。
「お願い! ぼくの『声』を差し出します! だから……あいつらをやっつける力を……!」
「おっけ~い! じゃ、アンタの声、いただくわね。そ・れ・と、ワタシの魔力と紐づけてっと」
「……」
ぼくはまるで喋ることを忘れてしまったかのように、一言も言葉を発することができなくなった。その代わりに体の奥底から力が湧いてくる感覚に驚いていた。この力があれば……。
「おほほほう! いくわよアトラーグ! ワタシとあんたの力、たぁあんと見せつけておやりなさいな♪」
じっとりとした口調のボールのようなものが次々と男たちをやっつけていく。さっきまで威勢の良かった声はもう二度とぼくの耳に入ることはなく、代わりに助けを求める声になった。
「た……たすけ……」
「もう……やら……ねぇ」
「あらあら。あなたたちの願いを聞く義理なんてないわよ。さ、アトラーグ。とどめをさしちゃいましょ♪」
ぼくの気持ちを察したのか、ボールのようなものはぼくの返答を待つ間もなく、男たちをすぐに静かにさせた。もう二度とあの下卑た笑い声を発することはないだろう。文字通り一人になったぼくは、宛もなくとりあえずどこかへ行こうとすると、ボールのようなもはぼくの後ろにぴったりとくっつきながらけらけらと笑った。
「さぁ、アトラーグ。一緒に行きましょ」
そうだ。このボールのような存在を忘れていた。これからこのボールのようなものと共にするのか。ちょっと怖いけど……ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ寂しくないかも。
「あら。ワタシはちーっとも怖くないわよ? アトラーグをいじめるやつはこのワタシが許さないんだから」
えっへんとばかりに顔を反らすと、それがなんだか面白くてぼくは無言で笑った。それが嬉しかったのか、ボールのようなものはすごく上機嫌になり、それからずっとあれこれ話し始めた。ぼくは大事な人と声を亡くした代わりに、少し賑やかでちょっとだけ怖いボールのようなものと出会った。
「あら。雨が降ってきたわね。アトラーグ。あそこの木で一休みしましょ」
予想通り雨が降ってきた。それも結構雨脚が強くて、被っていたフードがあっという間にびちゃびちゃになってしまった。雨を凌げる場所にたどり着き、ほっとしているとボールのようなものはすいっとぼくの傍に寄って「ぎりぎりだったわね」といつもより優しい声でぼくに話しかけた。ぼくは小さく頷くと、ボールのようなものは続けた。
「アンタは……もう一人じゃないわ。このアタシがいるわ。だから……もうそんな悲しい顔しないでよくってよ?」
まさかの言葉にぼくは思わず感極まり、その場に蹲り嗚咽を漏らした。声は出ないけど、こみ上げてくるものは抑えられない。ぼくは今までつかえていたものを全て流すように、大粒の雨を降らせた。
「……大丈夫。アンタは……アンタはアタシが守るんだから。あの時から、この気持ちは変わっていないわ」
その声が一瞬、誰かの声に聞こえたのは気のせいだろうか。ぼくは、声を亡くしたまま泣いていた。今の空は、ぼくと瓜二つだった。




