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99話 清掃おじさん、向こう側を調べる

「調べるって、どうするんですか?」


 俺が尋ねると、白峰さんは目の前の巨大な歪みを見たまま、伸ばした杖を軽く振った。


「僕の魔法で、向こう側を探ってみます。田中さんの『清掃』ほど便利ではありませんが、水なら多少無茶な使い方も出来ますから」


 白峰さんの前に、拳ほどの大きさの水球が生まれた。


 戦闘で何度も見てきた白峰さんの水魔法だが、今回は敵を攻撃する様子はない。水球から何本もの細い水流が伸び始め、それぞれが糸のような細さになると、空中を漂いながら巨大な歪みへ近づいていく。


「白峰さん、それで何が分かるんですか?」


 橘さんが尋ねた。


「水に僕の魔素を含ませています。どこまで正確に調べられるかは分かりませんが、少なくとも水がどちらへ流れるのか、どこまで進めるのか、それくらいは確認出来ると思います」

「そんな使い方も出来るんですね」

「僕の『水魔法』は、あくまで水を操る魔法ですからね。水そのものに特別な探知能力があるわけではありません。ただ、自分の魔素を含んだ水なら、ある程度は状態を把握出来ます」


 白峰さんはそう言いながら、何本もの水流を歪みの中へ送り込んでいく。


 以前、北海道で白峰さんと話した時のことを思い出した。

 

 魔法にとって重要なのはイメージだと、白峰さんは言っていた。

 何でも出来ると思い込めば何でも出来る、なんて便利な話ではない。それでも、自分自身が納得出来るだけの理由や根拠があれば、同じ水魔法でも出来ることは大きく広がるらしい。


 実際、この人は水を刃にも盾にもするし、圧縮して氷にまで変えていた。

 今度はそれを、調査道具として使っている。


 世界で唯一のS級魔法使いというのは、単純に威力が高いだけではないらしい。


「⋯⋯流されていますね」


 しばらくして白峰さんが呟いた。


「流されてる?」

「はい。こちらから向こうへ押し込んでいるんですが、かなり強い力が反対方向に働いています」


 白峰さんが杖を僅かに動かすと、歪みへ入っていた水の一本がこちらへ戻ってきた。


 水自体に見た目の変化はない。

 だが、白峰さんはその水を見つめながら眉を寄せた。


「やはりそうですね。伊勢ダンジョンの内部で魔素が発生しているわけではありません。明確に向こう側から流れ込んできています」

「やっぱりですか」


 俺が感じていたものと同じだった。


「北海道の亀裂もそうだったんでしょうか?」


 神崎さんが尋ねる。


「そこまでは分かりません。あの時は僕もここまで詳しく調査していませんから。ただ⋯⋯」


 白峰さんが歪みを見る。


「少なくとも、これは今まで見てきた亀裂とは少し違うように思います」

「違うって、何が?」


 空さんが聞いた。


「向こう側です」


 白峰さんはそれだけ答えると、再び魔法へ集中した。


 今度は先ほどより多くの水が生まれた。

 一つの水球から何百本もの細い水流が伸び、それぞれが異なる方向から歪みの中へ入っていく。


 俺には何をしているのかさっぱり分からない。

 ただ、白峰さんの表情を見る限り、かなり細かいことをやっているのだろう。


 邪魔をしないよう黙って待っていると、一分ほどして白峰さんの表情が変わった。


「⋯⋯広いな」


 独り言のような声だった。


「どれくらいですか?」

「分かりません」


 予想外の答えが返ってきた。


「僕が送り込んだ水は、全て違う方向へ進ませています。それなのに、どれも壁らしいものに当たりません。少なくとも、亀裂の向こうに細い通路があるわけではなさそうです」


 白峰さんはさらに水を送り込む。

 目の前の歪みは数十メートルほどの大きさしかない。


 だから俺も、何となくその先にはダンジョンの通路か、大きくても部屋くらいの空間があるものだと思っていた。


 だが、白峰さんの話を聞く限り違うらしい。


「もっと伸ばしてみます」


 白峰さんの周囲に新しい水が生まれ、先ほどの細い水流へ次々と加わっていった。


 水流は歪みの中へ吸い込まれ続ける。

 十秒、二十秒と時間が過ぎた。

 

 やがて白峰さんが杖を握り直す。


「まだ届かない⋯⋯」

「そんなに広いんですか?」

「ええ。少なくとも僕が今まで潜ってきたダンジョンの大部屋とは比較になりません。かなり先まで水を伸ばしていますが、それでも空間が続いています」

「じゃあ、やっぱりダンジョンの深層とか?」


 水野さんが言う。


「その可能性はあります。ただ、今の段階では何とも言えませんね」


 白峰さんの返事は慎重だった。


 俺も歪み越しに見える景色へ目を凝らす。


 岩のようなものは見えている。

 だが、ここから見える範囲だけでは何なのか判断出来ない。

 

 エルダー・ドラゴニュートは、あそこから来たのだろうか。

 だとすれば、向こう側には同じような奴がまだいるかもしれない。


「⋯⋯あれ?」


 白峰さんの声で意識を戻す。


「どうしました?」

「少し待ってください」


 先ほどまで普通に話していた白峰さんの声が変わった。


 杖を持つ手に力が入り、表情が明らかに険しくなっている。


 空さんと獅子堂さんもそれに気づいたらしく、歪みから少し距離を取った。


「何かおるんか?」

「いえ、モンスターではありません」


 白峰さんが答える。


「魔素です」

「魔素?」

「向こうへ進めば進むほど濃くなっています。こちらへ流れ込んでいる量だけでも異常ですが、向こう側はそんなものじゃない」


 白峰さんの額に汗が浮かんでいた。


 戦闘中でもほとんど余裕を崩さなかった人だ。


 その白峰さんが、ただ水を送り込んでいるだけで明らかに消耗している。


「白峰さん、大丈夫ですか?」

「まだ大丈夫です。ただ⋯⋯僕の魔素を含ませた水に、周囲の魔素が干渉してきています」


 白峰さんは一度呼吸を整えると、さらに杖へ力を込めた。


 歪みへ伸びる水流が増える。

 俺達は誰も話さなかった。


 しばらくすると、何本かの水流が突然床へ落ちた。


「制御が切れました」


 白峰さんが短く呟くと、続いて別の水流も落ちる。

 一本、また一本と、向こう側へ伸びていた水が白峰さんの支配から外れていった。


「これ以上は駄目ですね」


 白峰さんが杖を引くと、まだ制御下に残っていた水が一斉に歪みから戻ってくる。


 最後の一滴までこちら側へ戻したところで、白峰さんは大きく息を吐いた。


「⋯⋯なんだこれは⋯⋯」


 白峰さんがそんな言葉を漏らすのを初めて聞いた気がする。


「何があったんですか?」


 神崎さんが聞くと、白峰さんはすぐには答えず、巨大な歪みを見つめた。


「向こう側には、とてつもなく大きな空間があります。どこまで続いているのかは分かりません。僕の水では端まで届きませんでした」

「それだけじゃなさそうね」


 空さんが言う。


「ええ。問題は魔素です」


 白峰さんは自分の杖へ視線を落とした。


「こちら側とは比較になりません。奥へ進むほど濃度が上がっていって、途中から僕の魔法そのものが正常に維持出来なくなりました」

「白峰さんの魔法が?」


 水野さんが驚く。

 俺も同じ気持ちだった。


 この人は世界で唯一のS級魔法使いだ。

 その白峰さんが、自分の魔法を維持することすら出来ないほど魔素が濃い。そもそも、魔素が濃いと魔法を維持できなくなる、という話自体初めて聞いたことだ。


「正確には、僕の魔素を含ませた水が周囲の魔素に呑まれてしまった、と言った方が近いですね。もっと奥がどうなっているのか調べたかったんですが、今の方法ではこれ以上は無理です」

「じゃあ結局、向こうに何があるかは分からへんっちゅうことか」


 獅子堂さんの言葉に、白峰さんが頷く。


「少なくとも、僕達が見ている範囲より遥かに広い場所が存在していることと、そこが異常なほど高濃度の魔素で満たされていることまでは分かりました。それから、伊勢へ流れ込んでいる魔素は間違いなくそこから来ています」


 俺は改めて巨大な歪みを見た。


 エルダー・ドラゴニュートが言っていた『道』。

 その先には、白峰さんですら調べきれないほど巨大な空間が広がっている。


 しかも、こちらとは比較にならないほど魔素が濃い。

 正直、あまり近づきたくない。


「⋯⋯他に調べる方法はないんですか?」


 俺が聞くと、白峰さんは少し考えた。


「僕自身が向こうへ行けば、もう少し分かるかもしれません」

「それは駄目です」


 思わず即答した。


「ですよね」


 白峰さんも苦笑する。

 エルダー・ドラゴニュートがどこから来たのかを考えれば、人間が何の準備もなく入っていい場所とは思えない。


 獅子堂さんが行きたそうな顔をしている気がしたので、そちらは見ないことにした。


「生身で入らずに、中の様子だけ確認出来ればいいんですけどね」


 俺が何となく言うと、白峰さんが黙った。


「⋯⋯白峰さん?」

「いえ」


 白峰さんは何かを考えるように歪みを見つめ、それから俺達の方へ振り返った。


「少し、試してみたいことがあります」

「危なくないやつですよね?」

「少なくとも、人を向こうへ送るよりは遥かに安全ですよ」

「比較対象が怖いんですよ」


 俺がそう言うと、水野さんが隣で小さく笑った。


 白峰さんは気にせず、自分のポケットへ手を入れる。

 そして取り出したのは、どこにでもある一台のスマートフォンだった。

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