93話 清掃おじさん、キレる
「『清掃』」
目の前を埋め尽くしていた炎が消えた。
熱も、光も、そこに込められていた膨大な魔素も、俺が『清掃』を発動した瞬間にまとめて消えていく。
あと少し遅ければ、間に合わなかった。
黒川さん達と合流してから、ここまでほとんど全力で走ってきた。途中からは魔素を身体に回せるだけ回し、案内してくれていた探索者を抱えて走った。
それでも、間に合わないかもしれないと思った。
通路の向こうが赤く染まり、凄まじい魔素が膨れ上がったのが見えた時には、頭の中が真っ白になった。
だから、消えてくれたことを確認して、ようやく息が出来た。
「⋯⋯間に合った」
俺は小さく呟いてから、前を見る。
最初に見えたのは、水野さんだった。
全身傷だらけで、服もところどころ破れている。いつも明るく笑っている彼女が、今は床に座り込んだまま、何が起きたのか分からないような顔でこちらを見ていた。
その少し前には空さんがいる。
空さんも酷い状態だった。白い服は血と汚れで色が変わり、立っているのが不思議なくらい傷だらけなのに、それでも誰かを守るように前へ出ている。
視線を動かす。
橘さんがいた。
その腕の中に、海さんがいる。
「⋯⋯え?」
俺の足が止まった。
両腕がない。
肩から少し下のところで両方とも切断され、橘さんが必死に止血している。目元も血で真っ赤に染まり、両目には深い傷が走っていた。
「海⋯⋯さん?」
返事がない。
生きているのかさえ分からなかった。
さらに、その近くには何人ものA級探索者が倒れている。辛うじて生きてはいるようだが、全員が傷だらけだった。
そして、少し離れた場所に男の死体があった。
首がない。
近くには、見覚えのある顔が転がっていた。
伊勢ダンジョンに入る前、水野さんに紹介された男。
確か、三浦さんだった。
奥さんが俺のことを知っていると言っていた。
子供と一緒にVIVIDの動画を見ていると、笑って話していた。
ほんの少し前まで、生きていた人だった。
「田中⋯⋯さん⋯⋯?」
水野さんの声が聞こえた。
俺は三浦さんから視線を外し、水野さんの前まで歩いた。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
怖かったんだと思う。
当たり前だ。こんな状態になるまで戦っていた。
俺は水野さんと、その後ろにいる海さん達を一度見てから、出来るだけいつも通りの声を出した。
「助けに来ましたよ」
「田中さん⋯⋯!」
水野さんの顔が崩れた。
今にも泣き出しそうだったが、俺はそれ以上声をかけられなかった。
まだ終わっていない。
「田中さん!」
橘さんの声が飛ぶ。
「海さんが⋯⋯出血が止まらなくて⋯⋯!」
俺が振り返ったのとほぼ同時に、一人の男性探索者が海さんのところへ駆け寄った。
「俺がやります!『回復』があります!」
A級探索者の男は海さんの横へ膝をつくと、すぐに両肩へ手をかざした。
「かなり魔素を使います。誰か、周囲をお願いします!」
「私が守ります!」
橘さんが答える。
淡い光が海さんの両肩を包み込んだ。
傷口が塞がっていくが、それだけではなかった。
失われていた腕が、少しずつ形を取り戻していく。
「腕が⋯⋯」
俺は思わず呟いた。
回復系のスキルがあることは知っているが、ここまでのものを見るのは初めてだった。さすがA級の回復スキルだ。
男の額から大量の汗が流れる。
「もう少し⋯⋯!」
光が強くなる。
やがて海さんの両腕が完全に再生した。
続いて男は目元へ手を移し、傷ついた両目にも『回復』を使う。切り裂かれていた瞼や目の傷が少しずつ塞がっていき、血に染まっていた顔も元の形を取り戻していった。
「これで⋯⋯傷自体は⋯⋯!」
「海!」
空さんが駆け寄る。
「海、聞こえる!?」
海さんの瞼が僅かに動いた。
「⋯⋯姉さん」
「海!」
「腕⋯⋯ある?」
「あるわよ!ちゃんとある!目も治してもらったから!」
海さんは自分の手を確かめるように、僅かに指を動かした。
「⋯⋯よかった」
小さく呟いた直後、力が抜けた。
「海!?」
「大丈夫です!」
治療した探索者がすぐに脈を確認する。
「気を失っただけです。ただ、失った血までは戻せません。出血量が多すぎる。このまま戦わせるのは絶対に無理です」
「⋯⋯分かった」
空さんが妹の手を握った。
俺はその光景を見ながら、無意識に拳を握っていた。
間に合った。
海さんは生きている。
水野さんも、空さんも、橘さんも生きている。
それなのに、良かったとは到底思えなかった。
海さんの腕を切り落とし、目まで斬った奴がいる。
水野さん達をここまで追い詰めた奴がいる。
三浦さんを殺した奴がいる。
俺はゆっくり振り返った。
少し離れた場所に、女のような姿をしたモンスターが立っていた。
頭には角があり、背中から大きな翼が伸びている。腰からは長い尻尾が生え、身体の一部には竜のような鱗が見えた。
見た目だけなら、驚くほど綺麗な女だった。
でも、そんなことはどうでもいい。
あいつがやった。
説明されなくても分かった。
俺が消したブレスも、あいつが放ったものだ。
エルダー・ドラゴニュート。
小宮川さん達から聞いた、SS級モンスター。
俺は自分の肩が震えていることに気づいた。
怖いわけではない。
腹が立っていた。
これまでモンスターと何度も戦った。
殺されそうになったこともあるし、誰かが危険な目に遭ったこともある。
それでも、ここまで腹が立ったことはなかった。
「⋯⋯貴様」
エルダー・ドラゴニュートが俺を見ていた。
さっきまで余裕があったらしい表情が消えている。
俺がブレスを消したことが気になるのか、警戒するように目を細めていた。
「今、何をした?」
俺は答えなかった。
エルダー・ドラゴニュートがさらに目を細める。
「我のブレスを消したな。人間の魔法ではない。貴様、何者だ?」
俺は黙ったまま、一歩前へ出た。
背後にいる水野さん達から距離を取る。
エルダー・ドラゴニュートも、こちらを観察するように一歩前へ出た。
「なんだお前は?人間か?」
「お前こそ何だよ、蜥蜴人間」
空気が変わった。
エルダー・ドラゴニュートの顔から、完全に笑みが消える。
「⋯⋯この我を蜥蜴呼ばわりとは。相当死にたいらしいな」
凄まじい魔素が膨れ上がった。
後ろで誰かが息を呑む。
俺は拳を握った。
三浦さんの首のない死体が視界の端に入る。
傷だらけの水野さんと空さんがいる。
橘さんのそばでは、海さんが意識を失っている。
こいつがやった。
それだけ分かれば十分だった。
「俺はお前を許さない」
エルダー・ドラゴニュートが翼を広げる。
俺も、もう一歩前へ出た。
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