89話 清掃おじさん、甲虫王と戦う②
天井付近まで上昇したインセクト・ロードは、俺達を見下ろしたまま高速で翅を動かしていた。
飛ぶこと自体はカブトムシなのだから不思議ではない。むしろ、どうして今まで使わなかったのかと思うくらいだ。
ただ、俺達にとっては非常に困る。
「神崎さん、あそこまで届きます?」
「無理ですね。壁を蹴れば一度くらいは届くでしょうけど、空中では身動きが取れません。避けられたら終わりです」
「ですよねぇ⋯⋯」
俺も同じだ。
身体能力だけならかなり高いので、跳ぶだけなら出来る。しかし、空中を自由に動けるわけではない。
相手がその場で待っていてくれるならともかく、あの速度で飛び回る相手を捕まえるのは難しい。
それに、自由落下中は良い的でしかない。
「遠距離攻撃が出来る方、試してもらえますか!」
神崎さんが後方へ声をかけると、A級探索者達がすぐに動いた。
炎や雷、風の刃が次々とインセクト・ロードへ向かう。
狙いは正確だった。
しかし、直撃しても黒い外殻の表面に薄い光が走るだけで、魔法は全て消えてしまう。
人型でサイズも人間と大差ないため、的としては小さい。何から何まで面倒なやつだ。
「やっぱり駄目です!」
「外殻の隙間を狙うのも難しいですね。あの距離では狙える面積が小さすぎます」
神崎さんがそう言った直後、インセクト・ロードが動いた。
天井付近から一気に急降下してくる。
「散ってください!」
俺達が左右へ飛ぶと、インセクト・ロードが床へ激突した。
凄まじい衝撃とともに床が砕け、破片が周囲へ飛び散る。俺は顔の前に腕を出して破片を防ぎながら、その中心へ向かった。
今なら殴れる。
煙の中へ踏み込み、インセクト・ロードの胸へ拳を叩き込む。
硬い外殻から嫌な手応えが返ってきたが、構わずもう一発入れようとしたところで、相手の腕が俺の脇腹へ飛んできた。
腕で受ける。
身体ごと押し飛ばされたものの、今度は神崎さんが反対側から踏み込み、首元にある外殻の継ぎ目へ剣を走らせた。
インセクト・ロードが首を傾けて刃を避け、そのまま神崎さんへ拳を振るう。神崎さんは『領域』で動きを把握しているのか、拳が届く前には既に身体を沈めており、すれ違いざまに脇の隙間へ剣を突き込んだ。
黒い体液が飛ぶ。
「入った!」
「いえ、浅いです!」
神崎さんが剣を抜くより先に、インセクト・ロードの膝が跳ね上がった。
神崎さんは腕で受けながら後方へ飛び、衝撃を逃がす。それでも数メートルは飛ばされていた。
「神崎さん!」
「大丈夫です!」
返事を聞いて安心したのも束の間、インセクト・ロードの翅が再び開いた。
「あっ、待て!」
俺が腕を掴もうとした時には、もう遅かった。
目の前から巨体が飛び上がり、あっという間に手の届かない高さまで逃げていく。
「⋯⋯これ、かなり面倒ですね」
「ええ。降りてきた時に削るしかなさそうです」
幸い、ずっと上空にいるだけでは向こうも俺達を倒せないらしい。
しばらく旋回した後、インセクト・ロードは再び急降下してきた。
狙われたのは俺だった。
さっきのように避けようとして、考えを変える。
「田中さん!?」
俺は両腕を前へ出し、正面から受けた。
「ぐっ⋯⋯!」
重い。
腕が痺れ、足元の床が砕ける。
それでも踏ん張った。
インセクト・ロードの腕を掴み、逃がさないように力を込める。
「神崎さん、今です!」
「はい!」
神崎さんが横から入り込む。
俺に掴まれたインセクト・ロードが強引に腕を引き抜こうとするが、その間に神崎さんの剣が腹部の継ぎ目へ深く入った。
今までで一番深い。
インセクト・ロードが身体を大きく震わせる。
次の瞬間、凄まじい力で腕を振られた。
「うわっ!」
掴んでいた俺ごと持ち上げられ、そのまま床へ叩きつけられる。
背中に衝撃が走った。
「いっ⋯⋯たぁ⋯⋯」
めちゃくちゃ痛い。
それでも手を離さなかった俺を嫌ったのか、インセクト・ロードは今度は蹴りを放ってきた。
さすがにこれは受けたくない。
腕を離して転がるように避けると、インセクト・ロードは追撃せず、また空へ飛んだ。
神崎さんが俺の近くまで下がってくる。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと背中が痛いですけど」
「ちょっとには見えませんでしたよ」
起き上がって背中を伸ばす。
たぶん骨は大丈夫そうだ。
上を見ると、インセクト・ロードは先ほどより慎重になっていた。
降りてくる頻度が明らかに減っている。
こちらの狙いに気づいたのだろう。
「頭いいですね、あいつ」
「ええ。こちらが接近戦で有利だと理解しています。おそらく、次からは急降下してもすぐに離脱するつもりでしょう」
「そうなると、もっと面倒ですね」
硬い外殻を持っていて、魔法が効かず、力も強くて速い。
さらに飛べる。
さすがS級というべきなのだろう。
どうしたものかと考えていると、インセクト・ロードが再び動いた。
今度は降りてこない。
天井付近を飛びながら壁へ接近し、太い腕を振るった。
壁が大きく砕ける。
「何を⋯⋯」
砕けた岩の塊を、インセクト・ロードが掴んだ。
嫌な予感がする。
「全員、避けて!」
神崎さんが叫んだ。
直後、岩が飛んできた。
ものすごい速度だった。
A級探索者達が左右へ散り、岩が床へ激突して粉々になる。
「危ねえ!」
俺が文句を言っても、当然相手には通じない。
インセクト・ロードは壁を砕き、次々と破片を投げつけてくる。S級の膂力で投げられれば、ただの岩でも大砲のような威力になる。
神崎さんが『領域』で軌道を読みながら指示を出すため、なんとか避けることが出来ている。
だが、これではこちらから攻撃出来ない。
「田中さん、このままでは厳しいですね」
「そうですね⋯⋯」
神崎さんも俺も飛べない。
魔法は効かない。
飛び道具も持っていない。なのに、向こうは大砲のような威力の岩投げを行ってくる。
こうして並べると、本当に相性が悪い。
また岩が飛んできた。
俺は横へ避けながら、上空のインセクト・ロードを見る。
あいつさえ、こっちまで来てくれればいい。
そう思った時だった。
ふと、以前の感覚を思い出した。
獅子堂さんと戦った時。
追いつけないほどの速度で距離を取られた瞬間、俺は無我夢中で『清掃』を使った。
何が起きたのか、今でも正確には分からない。
ただ結果として、至近距離の獅子堂さんが離れるように瞬間移動した。
「⋯⋯あれ、出来ないかな」
「田中さん?」
「ちょっと試したいことがあります」
神崎さんが俺を見る。
「危険ですか?」
「⋯⋯分かりません」
「それは止めた方がいいのでは?」
「俺もそう思うんですけど、他に思いつかなくて」
神崎さんは困ったような顔をした。
当然だと思う。
俺自身、どうやってやったのか分かっていない。
ただ、あの時の感覚は覚えている。
獅子堂さんの背後にある何かを、邪魔なものとして消した。——そんな感覚だった。
俺は上空を飛ぶインセクト・ロードを見る。
距離が邪魔だ。
あいつまで届かない、この空間が邪魔だ。
「『清掃』」
何も起きない。
「⋯⋯ですよねー」
「駄目でしたか?」
「駄目みたいです」
簡単に出来るなら苦労しない。
そもそも獅子堂さんの時だって、狙って発動したものではなかった。
インセクト・ロードがまた岩を投げてくる。
俺と神崎さんは左右へ避けた。
岩が背後の床を砕く。
その直後、インセクト・ロードが急降下してきた。
神崎さんを狙っている。
「神崎さん!」
「分かっています!」
神崎さんが避ける。
インセクト・ロードは床へ着地することなく、神崎さんの頭上を通過して再び上昇しようとした。
俺は追いかけた。
当然、間に合わない。
手を伸ばしても届かない。
また逃げる。その瞬間、さっきより強く思った。
——邪魔だ。
俺とあいつの間にある、この距離が。
「『清掃』!」
感覚があった。
目の前の空間が、一瞬だけ歪んだ。
「え?」
インセクト・ロードが消えた。
いや、違う。
消えたように見えただけだ。
次の瞬間には、上昇していたはずの巨体が俺のすぐ目の前にいた。
インセクト・ロード自身も理解出来ていないらしく、空中で大きく体勢を崩している。
「田中さん、今のは⋯⋯!?」
「俺にも分かりません!」
説明は後だ。
せっかく目の前まで来てくれた。この機会を逃してはいけない。
俺は拳を握る。
普通に殴っても、この外殻は壊せない。
さっきから何度も殴っているが、ほとんど傷すらついていなかった。
だったら、壊さなくていい。
ベヒーモスを殴った時のように——拳を通して衝撃を内部へ送り込む。
外側がどれだけ硬くても、中まで同じとは限らない。
インセクト・ロードが体勢を立て直し、俺へ拳を振り下ろそうとする。
その前に、一歩踏み込んだ。
狙うのは胸の中央。拳を外殻へ当てる。
殴り飛ばすための力はいらない。衝撃だけを、その奥へ通す。確かこの技の名は——。
「震界勁!」
拳から伝わった衝撃が、硬い外殻を壊すことなく内部へ抜けた。
インセクト・ロードの身体が大きく震える。
振り下ろされるはずだった腕が止まった。
外殻には傷一つない。
それなのに、口元から黒い体液が大量に溢れ出した。
インセクト・ロードが後ろへよろめく。
「効いた⋯⋯!」
まだ倒れない。ベヒーモスを一撃で倒せた技なのに、こいつを倒すには一発では足りなかったらしい。
インセクト・ロードが再び翅を開こうとする。
「逃がすか!」
俺はその前に距離を詰めた。
今度は腹部へ拳を当てる。
「震界勁!」
二度目の衝撃が内部へ抜ける。
インセクト・ロードの身体が跳ねた。
背中の翅が力を失い、ゆっくりと閉じていく。
それでも腕を上げようとしたので、最後にもう一度、胸元へ拳を押し当てた。
「これで終わりだ。震界勁」
三度目の衝撃を送り込む。
黒い外殻に覆われた巨体から完全に力が抜けた。
インセクト・ロードはしばらく立ったまま動かなかったが、やがて膝から崩れ落ち、そのまま前のめりに倒れた。
念のために少し待つ。
——しかし、動かない。
「⋯⋯倒しました?」
俺が聞くと、神崎さんが近づいてきた。
剣先で反応を確認し、『領域』でも状態を探っているようだったが、やがて剣を下ろした。
「死んでいます。お見事です、田中さん」
「ありがとうございます。神崎さんが先に傷をつけてくれてたおかげですよ」
「最後の攻撃には、俺がつけた傷は関係なかったように見えましたけどね」
「⋯⋯そうですかね」
「そうですよ」
神崎さんが笑う。
俺は倒れたインセクト・ロードを見る。
改めて近くで見ると、本当に格好いい。
外殻はほとんど無傷なので、死んでいるようにも見えなかった。
「これ、持って帰ったら結構価値ありそうですね」
「S級ですからね。しかも魔法を無効化する外殻です。研究機関は欲しがるでしょう」
「じゃあ清掃しない方がいいですね」
「そうしてください」
後方にいたA級探索者達も近づいてきたので、俺は場所を空ける。
ひとまず、これで目の前の問題は片付いた。
ただ、一つだけ気になることが残っている。
俺は自分の手を見た。
さっきの『清掃』。
獅子堂さんとの模擬戦で一度だけ起きた現象を、今回は自分の意思で起こした。
完全に同じものだったのかは分からないし、どういう仕組みなのかも分からない。
何より、もう一度やれと言われても出来る自信はなかった。
「⋯⋯何なんだろうな、あれ」
「田中さん?」
「いや、何でもないです」
今は考えても答えが出ない。
それより、他の人達との合流が先だ。
俺はインセクト・ロードから視線を外し、神崎さんと一緒に通路の先を見た。
俺達のところにS級モンスターがいたということは、他の場所にも同じような奴がいるかもしれない。
水野さん達が無事ならいいんだけどな。
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