87話 獅子堂・白峰視点②
「次はあいつ、ぶん殴ったる」
獅子堂がそう言っている間にも、シャドウ・ファントムが広げた黒い霧は通路全体を覆っていった。
床や壁、天井から伸びる無数の腕を白峰が水で次々と消し飛ばしているが、一本消せば別の場所から新たな腕が現れる。
A級探索者達も魔法系の能力を持つ者を中心に応戦しているものの、物理攻撃しか出来ない者は仲間を庇いながら回避することしか出来ず、徐々に後方へ押され始めていた。
「獅子堂さん、試すのは構いませんけど、あまり時間はありませんよ」
「分かっとるわ。せやけど、これ思ったよりムズいねん」
獅子堂は両腕の表面へ魔素を押し出そうとしていた。
普段なら拳へ大量の魔素を集中させることなど意識するまでもなく出来る。
しかし今回は、魔素を身体の内側に留めるのではなく、皮膚の外側へ薄く広げた状態で維持しなければならない。
少し力を入れれば拳へ集中してしまい、逆に広げようとすれば身体から離れて霧散する。
「クソッ、また消えた!」
「力任せにやるからですよ。魔素を放出するのではなく、身体の表面に留めるイメージを持ってください」
「簡単に言うなや!お前みたいな魔法使いと一緒にすんな!」
「今やろうとしていることを考えたら、似たようなものだと思いますけどね」
白峰が答えながら杖を振ると、獅子堂の背後から迫っていた黒い腕が水の刃に切り裂かれた。
そのまま杖をシャドウ・ファントムへ向ける。
細く圧縮された水流が放たれ、黒い身体の胸元を大きく削り取った。
シャドウ・ファントムはすぐに床の影へ沈み、少し離れた場所から再び姿を現す。
「また逃げましたか」
白峰は相手が現れた瞬間に複数の水弾を放った。
シャドウ・ファントムも今度は影へ逃げず、身体から黒い腕を伸ばす。水弾のいくつかが身体を削ったものの、残った腕が水の間を抜けて白峰へ迫った。
白峰は水の膜を展開して防ごうとしたが、一本だけが膜を回り込み、左腕を掠める。
「っ⋯⋯!」
黒い指先が触れた瞬間、白峰の身体から魔素が一気に引き抜かれた。
すぐに腕を振り払い、水流でシャドウ・ファントムを遠ざける。しかし、ほんの一瞬触れられただけにもかかわらず、白峰は僅かに呼吸を乱していた。
「白峰!」
「大丈夫です。怪我はありません。ただ、魔素を吸われました」
奪われた魔素はそのままシャドウ・ファントムへ流れ込み、水魔法によって薄くなっていた黒い身体が再び濃さを取り戻していく。
白峰はそれを見て眉を寄せた。
「なるほど。魔素を奪って自分の力に出来るんですね。ますます長期戦は避けたいところです」
「ほな、さっさと仕留めろや!」
「さっきから仕留めようとしてるんですよ!」
白峰が杖を振り上げると、シャドウ・ファントムの周囲を大量の水が取り囲んだ。
今度は逃げ道を与えない。
床を水で覆って影へ潜るのを防ぎながら、左右と上方から大量の水を流し込む。逃げられる場所を一つずつ潰し、シャドウ・ファントムを通路の中央へ追い込んでいった。
相手が影へ逃げられないことを確認すると、白峰は杖の先を向けた。
周囲の水が一点へ集まり、凄まじい勢いで圧縮されていく。
「これならどうですか」
圧縮された大量の水が、一気に放たれた。
先ほどまで使っていた水の刃とは比較にならない。通路を埋め尽くすほどの水流がシャドウ・ファントムへ殺到し、その身体を完全に飲み込んだ。
しかし、直撃する寸前だった。
シャドウ・ファントムの身体が足元へ崩れ、白峰が水で覆った床ではなく、壁際に立っていたA級探索者の影へ吸い込まれていく。
「そっちを使いますか!」
白峰が攻撃の軌道を変えようとするが、既に遅い。
大量の水が誰もいなくなった通路を突き抜け、シャドウ・ファントムはA級探索者の背後から姿を現した。
「後ろ!」
探索者が振り返った時には、黒い腕が胸元を通り抜けていた。
男の身体から魔素が吸い出される。
すぐに仲間が魔法を放って引き離したものの、助けられた探索者は膝をつき、肩で息をしていた。
「す、すみません⋯⋯」
「謝らなくていいです。後ろへ下がってください」
白峰が答えながら前へ出る。
相手は白峰の攻撃が危険だと完全に理解していた。
自分の影だけではない。探索者達が作る影まで移動先として利用し、白峰が大規模な魔法を使おうとすれば他の人間の近くへ逃げ込む。
これでは下手に威力を上げるほど、味方を巻き込む危険まで大きくなる。
「ほんま、性格悪い奴やな」
獅子堂が吐き捨てる。
「同感です。しかも、かなり頭がいいですね」
「頭ええ奴も嫌いや」
「それはただの悪口でしょ⋯⋯」
白峰が返した直後、シャドウ・ファントムの姿が再び影へ消えた。
今度はすぐに現れない。
全員が周囲を警戒する中、突然、一人のA級探索者が隣にいた仲間へ剣を振るった。
「おい、何してる!」
「来るな!化け物が!」
剣を振るった男は明らかに周囲が見えていなかった。仲間達を敵だと思い込んでいるのか、近づこうとする人間へ次々と武器を向ける。
さらに別の場所でも一人が悲鳴を上げ、何もない空間へ魔法を放った。
「幻覚ですね。全員、見えているものを信用しすぎないでください!」
白峰が二人を水で拘束しようとした瞬間、床の影から黒い腕が伸びた。
白峰の両足へ絡みつき、続いて杖を持つ右腕まで影に捕まる。
「先生!」
「私より周りを警戒してください!」
教え子達が助けようとしたが、白峰が止めた。
シャドウ・ファントムはまだ姿を見せていない。白峰を餌にして、近づいてきた人間を狙っている可能性がある。
その判断は正しかった。
白峰から少し離れた床の影が膨らみ、黒い身体が音もなく現れる。
そして、拘束された白峰へ腕を伸ばした。
「白峰!」
獅子堂が間へ入った。
シャドウ・ファントムの腕が獅子堂の身体を通り抜け、再び内側を直接触られたような不快感が走る。
「気色悪いっちゅうねん!」
獅子堂は反射的に拳を振るったが、まだ魔素を纏わせることが出来ていない。拳は黒い顔面をすり抜け、シャドウ・ファントムは何事もなかったように獅子堂の背後へ回った。
そのまま影が獅子堂の両腕へ絡みつく。
両腕を左右へ引かれ、さらに足元まで固定された。
「獅子堂さん!」
「こっちはええ!自分の拘束どうにかせえ!」
力を入れても影は千切れない。
普段ならどれだけ頑丈な拘束具でも筋力で破壊出来る獅子堂が、実体のない影を相手に完全に動きを封じられている。
その状態で、視界まで変わった。
目の前にいた白峰が消える。
A級探索者達もいない。
代わりに通路を埋め尽くすほど大量のシャドウ・ファントムが現れ、獅子堂を取り囲んでいた。
「ほぉ⋯⋯これが幻覚か」
どれが本物なのか分からない。
拘束されて動けないうえ、視界には何十体もの敵がいる。
普通なら絶望的な状況だった。
だが、獅子堂は周囲の幻影ではなく、自分の腕を見ていた。
先ほどから何度も失敗している。
身体の外へ出しすぎれば散る。拳へ集中させれば、いつもの身体強化と変わらない。
必要なのは、その中間。
魔素を身体から切り離さず、皮膚の表面に沿わせる。
「⋯⋯これやな」
獅子堂の右腕を薄い魔素が覆った。
今度は消えない。
拳から肘へ、さらに肩へと少しずつ広げていく。均一とは程遠く、場所によって濃さも違うが、それでも魔素は獅子堂の身体の外側に留まっていた。
右腕を拘束していた黒い影が震える。
獅子堂はそれを見て笑った。
「やっと触れたで」
右腕を強引に振り上げる。
先ほどまでどれだけ力を込めても抜けられなかった影が、今度は獅子堂の腕に引っ張られ、そのまま千切れた。
「おっしゃ!」
左腕にも同じように魔素を纏わせ、拘束を掴んで引きちぎる。両腕が自由になると、足元の影も魔素を纏わせた拳で殴りつけて消し飛ばした。
白峰も自力で拘束を解きながら、その様子を見て目を見開く。
「本当に出来たんですか」
「当たり前や!俺を誰やと思っとんねん!」
「さっきまで出来なくて騒いでたじゃないですか」
「うるさいわ!」
幻覚はまだ消えていない。
獅子堂の目には、何十体ものシャドウ・ファントムが見えている。
「獅子堂さん、本体の位置は分かりますか?」
「分からん!」
「でしょうね。少し待ってください。私が——」
「いらんわ!」
獅子堂は一番近くにいたシャドウ・ファントムへ拳を振るった。
何の手応えもなく、幻影が消える。
続けて二体目を殴るが、それも違う。
「何してるんですか?」
「全部殴ったら、そのうち本物に当たるやろ!」
「もう少し頭を使ってください!」
「使った結果がこれや!」
「ちょ、仲間に当たったらどうすんですか!」
獅子堂は殴りかかるが、どれも当たらない。
それでも構わず、目に入ったシャドウ・ファントムを片っ端から殴っていく。
そして五体目。
振り抜いた拳が、初めて黒い顔面へめり込んだ。
明確な手応えがあった。
「おったぁ!」
本物のシャドウ・ファントムの身体が吹き飛んだ。
壁へ叩きつけられた衝撃で幻覚が消え、通路の景色が元に戻る。
獅子堂は自分の拳を見て、それから壁際で身体を揺らしているシャドウ・ファントムを見る。
「殴れるやんけ!」
「ホント滅茶苦茶だよこの人⋯⋯」
「わははは!俺が間違うわけないやろ!!」
獅子堂の攻撃は偶然当たったに過ぎない。しかし、獅子堂は自慢げに笑っていた。
シャドウ・ファントムは慌てるように床の影へ沈もうとする。
しかし、白峰が先に杖を振った。
大量の水が床一面へ広がり、魔素を含んだ水膜が影を覆う。逃げ道を失ったシャドウ・ファントムが別の影へ移ろうと身体を伸ばしたが、そちらにも水が流れ込んだ。
「今度は逃がしませんよ」
「ナイスや、白峰!」
獅子堂が踏み込む。
シャドウ・ファントムは黒い槍を何本も作り出して迎撃するが、獅子堂は魔素を纏わせた腕で正面から払い除けた。
影で出来た槍が拳に弾かれ、次々と形を崩していく。
「これ、めっちゃええやんけ!」
「気に入ったみたいですね」
「今まで殴れんかったもんまで殴れるんやぞ!最高や!」
シャドウ・ファントムにとっては最悪だった。
これまで獅子堂の攻撃は一切警戒する必要がなかった。どれだけ速く、どれだけ強い拳でも、自分の身体を通り抜けるだけだったからだ。
その前提が崩れた。
獅子堂が距離を詰め、右拳を腹部へ叩き込む。黒い身体が大きく折れ曲がったところへ左拳が顔面を捉え、さらに吹き飛ぶより先に腕を掴んだ。
実体のないはずの腕を、獅子堂の手が完全に掴んでいる。
「逃げんなや!」
そのまま力任せに引き戻し、膝を腹部へ叩き込む。
シャドウ・ファントムが逃れようと身体を霧状に崩したが、獅子堂は構わず魔素を纏った拳を振り抜いた。
黒い霧そのものが殴り飛ばされる。
周囲のA級探索者達が呆然としていた。
「レイス系って⋯⋯あんな戦い方出来るのか?」
「普通は出来ませんよ」
白峰が苦笑する。
シャドウ・ファントムは必死に影を伸ばして獅子堂の足を拘束しようとするが、そのたびに踏み潰される。幻覚を見せようとしても、一度仕組みを理解した獅子堂は構わず突っ込んでくる。
何より、逃げようとすれば白峰がいる。
床の影へ潜ろうとすれば水で塞がれ、壁へ移ろうとすれば水弾が飛んでくる。白峰は仕留めることに拘らず、獅子堂から逃げられないようシャドウ・ファントムの行動だけを潰していた。
「白峰!そっち行ったで!」
「見えてますよ」
壁際へ逃れようとしたシャドウ・ファントムを水柱が押し戻す。
その先には獅子堂がいる。
「おかえり」
拳が顔面へめり込んだ。
シャドウ・ファントムが床へ叩きつけられ、獅子堂は倒れた身体へさらに拳を振り下ろす。
「ちょっ、獅子堂さん。それ以上やると——」
「まだ動いとる!」
「だからってS級モンスターを馬乗りで殴る人、初めて見ましたよ」
白峰が呆れている間にも、獅子堂は容赦なく拳を叩き込んでいく。
黒い身体は殴られるたびに霧となって散り、次第に形を保てなくなっていった。
それでも最後に逃げようとしたのか、残った身体が僅かに影へ伸びる。
「獅子堂さん、離れてください」
白峰の声を聞いて、獅子堂がすぐに後ろへ跳んだ。
同時に杖が振り下ろされる。
無数の水滴がシャドウ・ファントムの周りに現れる。白峰はライトをかざすと、それを水滴に当てた。
「消えなさい」
無数の水滴はライトの光を屈折、反射を繰り返す。
無限鏡のようにライトの光は反射と集合を繰り返し——シャドウ・ファントムを超高温の光が包んだ。
シャドウ・ファントムは、無限の光の中で霧のような魔素だけを残して完全に消滅した。
しばらく待っても、別の影から現れることはなかった。
「⋯⋯終わりましたね」
白峰が杖を下ろす。
獅子堂は満足そうに両拳を見た。
「ええ技覚えたわ」
「そうですね。途中から私、逃げ道を塞いでいただけでしたけど」
「適材適所や!」
「ものは言いようですね」
白峰は苦笑しながら、獅子堂の身体を覆っていた魔素を見る。
既に大半が消えかけており、本人もまだ完全には制御出来ていない。それでも、これまで物理攻撃が通用しなかった相手へ直接干渉出来たという事実は大きい。
「名前でも付けます?」
「いらんわ、そんなん。魔素纏っとるだけやろ」
「そこは意外と普通なんですね」
「俺を何やと思っとんねん」
獅子堂がそう返すと、周囲にいたA級探索者達から笑い声が漏れた。
負傷者はいるものの、幸い死人はいない。
白峰は魔素を奪われた探索者達の状態を確認し、必要な治療を済ませてから、改めて通路の先へ視線を向けた。
「それでは、他の皆さんを探しましょうか」
「せやな。空ちゃんらも神崎はんも心配いらんやろけど、おっちゃん一人になっとったら面倒や」
「田中さんなら一人でも大丈夫そうですけどね」
「それはそうやな」
二人は当然のようにそう結論づけると、A級探索者達を連れて歩き出した。
この時点ではまだ、彼らは知らなかった。
分断された別の場所でもまた、S級モンスターとの戦いが始まろうとしていることを。
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