84話 GEMINI&VIVID視点②
ヒュドラの牙の間から滴り始めた紫色の液体を見て、最初に異変へ気づいたのは玲奈だった。
「全員、あの液体に触れないで!」
玲奈の声が響くと同時に、九つの頭のうち三つが大きく口を開いた。吐き出された紫色の液体が勢いよく床を叩き、飛沫となって広範囲へ飛び散る。
探索者達はすぐにその場から離れたものの、液体が付着した床からは煙が上がっていた。石材そのものが溶けているわけではないが、鼻を刺すような異臭が周囲に広がり、それを僅かに吸い込んだだけで夏希は喉の奥に焼けるような痛みを感じた。
「毒⋯⋯!?」
「液体だけじゃないわ!吸い込まないようにして!」
玲奈が口元を覆いながら後退する。
ヒュドラは九つの頭を持ち、それを十秒ほどで再生させるだけでも十分に厄介なS級モンスターだった。しかし、その牙から分泌される毒まで強力となれば、長時間戦い続けること自体が危険になる。
「坂口!」
三浦の声が響いた。
見ると、坂口の右腕に紫色の液体が付着していた。防具の表面に僅かにかかっただけだったが、坂口は槍を取り落としそうになりながら膝をつき、左手で右腕を強く押さえている。
「くそっ⋯⋯防具の上からなのに⋯⋯!」
「細井、坂口を下げろ!解毒出来る奴は!?」
「私が出来ます!」
後方にいた女性探索者が駆け寄り、細井と一緒に坂口を後ろへ運んでいく。
その間にもヒュドラは攻撃を止めない。
毒液を吐かなかった頭が長い首を伸ばし、負傷者を狙って襲いかかった。
「させない!」
夏希が走り出したが、それより先に海が動いた。
坂口と細井の姿が消え、代わりに離れた場所に置かれていた小さな鉄球が現れる。
直後、ヒュドラの牙が何もない空間を噛み砕いた。
「助かった!」
「早く治療して」
海はそれだけ答えると、すぐに別の場所へ視線を移した。
そこでは別のA級探索者がヒュドラの尾に弾き飛ばされていた。
受け身を取れないまま壁へ激突しそうになった瞬間、再び『交換』が発動し、探索者の身体が別の場所へ移される。
海の周囲には、あらかじめ自分の魔素を込めた小さな鉄球がいくつも配置されていた。
仲間が危険になれば交換する。
ヒュドラの攻撃を避けきれなければ交換する。
毒液が逃げ道を塞げば、まだ汚染されていない場所へ交換する。
九つの頭が別々の相手を狙い、毒まで撒き散らす状況で死者が出ていないのは、海の『交換』によるところが大きかった。
「海さん、右!」
由香里が叫ぶ。
海が振り向くより早く、一本の首が死角から迫っていた。
しかし次の瞬間には海の姿が消える。
海専用ガントレットから射出した、魔素込の針と位置を交換したからだ。
海は再度ガントレットから針を射出し、由香里の傍まで交換で移動する。
「ありがとう、由香里ちゃん」
「海さんこそ大丈夫ですか?」
「平気」
由香里の『共有』によって、二人は既に互いの視覚を共有している。海自身からは死角になっていても、由香里が見ていればヒュドラの位置を把握出来るため、『交換』を使える範囲が大きく広がっていた。
魔素と視認がトリガーになる海のスキルと、視界を共有することが可能な由香里のスキルは相性が良かった。
由香里は戦場全体を見渡せる位置を維持しながら、海へ視界を送り続ける。
海もすぐにその利点を理解し、自分の視界だけでは追いきれない場所まで意識を広げていた。
「由香里ちゃん、超便利」
「私も出来る限り見ておきます。海さんは皆さんをお願いします!」
「分かった」
短いやり取りを終えると、二人は再びヒュドラへ意識を戻した。
その間にも空は戦い続けている。
迫ってきた頭を爆破し、別の頭から吐き出された毒液を海の『交換』で回避すると、すぐに次の頭へ飛び込んでいく。
「ほんっと、面倒くさい!」
空の爆発によって頭部が一つ吹き飛んだ。
だが、それを見ても誰も喜ばない。
どうせ十秒ほどで治ってしまう。
実際、首の断面は既に動き始めていた。
「姉さん。やっぱり一個ずつじゃ無理」
「分かってるわよ!」
空も同じ結論に達していた。
攻撃力そのものは足りている。空なら単独でも頭部を破壊出来るし、A級探索者達も複数人で集中攻撃すれば同じことが出来る。
問題は九つの頭を十秒以内に破壊することだった。
九つの頭は常に動き続け、それぞれが独立して攻撃してくる。さらに毒を警戒しながらとなれば、九ヶ所へ同時に十分な攻撃力を叩き込むのは簡単ではない。
三浦が毒液を避けながら空の近くまで移動する。
「天城さん!俺達で頭を止める!まとめて吹っ飛ばせないか!?」
「出来なくはないけど、九つ全部を巻き込める位置に集めるなんて無理よ!」
「集める必要ない」
海が答えた。
空が妹を見る。
「どうするの?」
「姉さんが作った爆弾を、私が運ぶ」
「⋯⋯サイズ的に行ける?」
「余裕。ではないけど⋯⋯やるよ」
空の表情が変わった。
海の『交換』は人間だけを入れ替える能力ではない。自分の魔素が入っている対象なら、視界に収めることで位置を交換出来る。
ならば、空が十分な威力を持つ爆弾を用意し、それを海がヒュドラの頭部付近へ同時に送り込めばいい。
それはずっと分かっていた。実際、田中とダンジョンに潜った際は、そのやり方でアラクネを瞬殺している。
問題は、現在の魔素量や戦闘のスピード感だ。
現在、海の『交換』は探索者たちの生命線だ。そこを維持しながら、ヒュドラの頭を吹き飛ばすサイズの爆弾にできる物体に魔素を込め、移動させるのは大量の魔素と集中を要する。
だが、海が出来るというなら。⋯⋯姉の空は信じるだけだ。
「ごめん皆!少しだけ時間を稼いで!」
「分かった。なら俺達が時間を作る!聞いたな、お前ら!GEMINIが準備を終えるまで、ヒュドラをここから動かすな!」
周囲のA級探索者達が応じる。
夏希達も玲奈のところへ集まった。
「玲奈さん、私たちも!」
「当然よ。ただし毒には絶対に触れないで。美月は頭を押さえて、由香里は海さんとの『共有』を切らさないようにして。夏希は動ける頭を止めるわよ」
「了解!」
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