76話 清掃おじさん、朝から修羅場になる
翌朝。
「⋯⋯身体、痛ぇ」
目を覚ました瞬間、首から背中にかけて嫌な痛みが走った。
原因は分かっている。ソファだ。
ホテルの部屋に置かれている一人掛けのソファに座ったまま寝たせいで、身体中がバキバキになっている。
おっさんがする寝方じゃない。もう若くないのだから。
「んん⋯⋯」
声が聞こえ、ベッドを見る。
橘さんがまだ眠っていた。
昨夜、部屋で怪奇現象が起きたと言って怖がっていた橘さんを俺の部屋に入れ、眠るまで話に付き合ったのだ。
改めて見ると、なんて綺麗な寝顔なんだろう。普段から美人なのは分かっているが、こうして無防備に眠っている姿を眺めるのは何となく悪いことをしている気分になる。
慌てて目を逸らし、スマートフォンを確認した。
時刻は朝の七時過ぎ。思っていたより寝ていたらしい。
もう一度ベッドへ目を向けると、ちょうど橘さんが目を覚ますところだった。
「⋯⋯おはようございます」
「おはようございます。眠れました?」
まだ寝惚けているのか、橘さんは俺の顔を見たあと、知らない部屋にいることを不思議そうに眺めていた。
やがて昨夜のことを思い出したらしく、ベッドから身体を起こす。
「すみません!私だけベッド使ってしまって⋯⋯田中さん、ずっとそこで寝てたんですよね?」
「全然いいですよ。ちょっと首が死んでるくらいなんで」
「本当にすみません!」
「冗談ですって。まあ、痛いのは本当ですけど」
「それ冗談じゃないじゃないですか⋯⋯」
橘さんが申し訳なさそうに眉を下げる。
昨日から何度謝られているんだろう。
「俺も橘さんが寝た後は普通に寝てますから、気にしないでください。それより、自分の部屋には戻れそうです?」
「⋯⋯朝なら大丈夫だと思います」
微妙な答えだった。
まだ怖いようだ。
「戻ったらフロントに連絡した方がいいですよ。怪奇現象かどうかはともかく、設備の不具合だったら見てもらった方がいいですし」
「そうですね。そうします」
橘さんがベッドから降りる。
昨夜の部屋着にカーディガンを羽織ったままだ。俺も着替えたいので、ひとまず橘さんを送り出すことにした。
「昨日は本当にありがとうございました。一人だったら、多分朝まで眠れなかったと思います」
「眠れたなら良かったです。俺もちょうど起きてましたし」
「田中さんが夏希ちゃん達とゲームしていてくれて助かりました」
「それはそれで変な感謝ですね」
橘さんが笑う。
昨日あれだけ怯えていたのが嘘のようで、俺も安心した。
「じゃあ、また後で」
「はい。田中さんも少し休んで——」
ドアを開けた橘さんの言葉が止まった。
そのまま動かない。
どうしたのかと思い、背中越しに廊下を覗き込む。
「⋯⋯あ」
俺も止まった。
そこには黒川さん、小宮川さん、水野さんの三人が揃って立っていた。
誰も喋らない。
三人の視線が橘さんへ向き、その後ろにいる俺へ移り、もう一度橘さんへ戻る。
朝っぱらから男のホテルの部屋から出てきた女と、その男。
事情を知らなければ、どう見えるかなんて考えるまでもない。
不味い。
これは非常に不味い。
「⋯⋯おはようございます」
耐えられなくなって挨拶すると、黒川さんだけが「おはようございます」と返してくれた。
水野さんはそれどころではないらしい。
「由香里さん、昨日連絡してきたあと、ずっと田中さんの部屋にいたの?」
「はい⋯⋯。皆さんにも連絡したんですけど誰も出なかったので、起きていた田中さんにお願いして、一緒にいてもらったんです」
橘さんが申し訳なさそうに事情を説明してくれた。
これで分かってくれただろう。
そう思ったのだが、水野さんの表情を見る限り、どうやら引っ掛かっているのはそこではない。
「一緒にって⋯⋯朝まで?」
「朝までですけど、本当に何もないですよ。橘さんがベッドで、俺はソファです。おかげで朝から首が死んでます」
「首見ても分かんないって!」
「そりゃそうですけど!」
水野さんは頭を抱えた後、何かに気づいたように俺を見る。
「ていうか田中さん、昨日私達とゲームしてたよね?私達が寝たあと、由香里さんと朝まで一緒にいたってことでしょ?」
「そうなりますけど⋯⋯。橘さんが怖がってたんだから仕方ないじゃないですか」
「それは分かるけど⋯⋯!朝起きてこんなの見たらビックリするって!」
それもそうだ。
俺だって逆の立場なら驚く。
しかも三人は昨夜の連絡に今朝気づき、心配して橘さんの部屋まで行ったらしい。ところが本人は不在。探していたところで、俺の部屋から出てきたというわけだ。
騒ぎになりそうだったので、廊下で話すのもまずいと思い、結局全員を俺の部屋へ入れることになった。
何故、朝から自分のホテルの部屋にVIVIDが全員揃っているんだろう。
「もう一回言いますけど、本当に何もないですからね。橘さんが眠るまで話して、俺はソファで寝ただけです」
「はい。私が何度も起きているか確認してしまって、田中さんもなかなか眠れなかったんです。全部、私が無理をお願いしたせいなので⋯⋯」
橘さんがそこまで説明すると、黒川さんはようやく安心したように息を吐いた。
「事情は分かったわ。由香里が無事ならそれでいいけど、朝まで誰の連絡にも返事がなかったから、本当に心配したのよ」
「すみません⋯⋯」
「次から誰かの部屋へ移動するなら、メッセージくらい残しておきなさい」
「はい」
良かった。黒川さんが話をまとめてくれた。
これで終わりだ。
そう思ったところで、それまで妙に静かだった小宮川さんが口を開いた。
「まあ、美月も昨日バスローブで田中さんの部屋にいたけどね。二人でお酒まで飲んだし」
「何で今それ言うんですか!?」
終わらなかった。
水野さんの顔から表情が消えた。
黒川さんと橘さんも小宮川さんを見る。
「⋯⋯美月さんも?」
「いや、違うんですよ!小宮川さんは部屋にカードキーを忘れて、バスローブのまま締め出されてたんです!それでフロントに連絡するために俺の部屋へ入れただけで!」
「うん。そこまでは合ってるよ」
「そこまで!?」
「そのあと二人でお酒飲んだもんね〜」
「ホテルの人が来るまでですよ!」
何故わざわざ一番誤解されそうな言い方をするんだ。
昨夜、ベッドで二人して横になった件には触れていないので、その点だけは助かっている。そこまで暴露されたら俺はもう窓から逃げるしかない。
「と言うことは⋯⋯。田中さんは私と二人きりで喋って、別れたあとにバスローブ姿の美月と二人で部屋で飲んで、それから夏希達とゲームをして、最後は由香里と朝まで一緒だった、ということですね?」
「黒川さん、整理しないでください」
自分でも分かっていたが、改めて他人の口から聞くと酷い。
俺が第三者なら、そんな男がいたら女誑しのクソ野郎だと思う自信がある。
「全部事情があるんですよ!黒川さんとは喫煙所で会っただけ、小宮川さんは締め出されてたから助けただけ、水野さん達には呼び出されてゲームの審判させられただけ、橘さんは幽霊が怖くて眠れなかったから一緒にいただけです!」
一気に説明した。
完璧だ。
何一つ疚しいことはない。
黒川さんが口元を押さえた。
「⋯⋯田中さん、元気ですね」
「その感想やめてください!」
笑ってる。絶対面白がってる。
水野さんまで吹き出し、小宮川さんは最初から楽しそうにしている。
もう駄目だ。
完全に遊ばれ始めた。
「でも田中さん、美月の時は本当にそれだけだったっけ?」
小宮川さんがニヤニヤしながら俺を見る。
「小宮川さん」
「なあに?」
「頼むから黙ってください」
「え〜?」
やめろ。昨夜のことを思い出させるな。
『からかってるだけだと思ってるんだ』
あの顔まで頭に浮かんできて、急に顔が熱くなる。
「あれ?田中さん、顔赤くない?」
「赤くないですよ!」
水野さんに指摘され、慌てて否定する。
しかし遅かった。
小宮川さんは俺が何を思い出したのか分かったらしく、楽しそうだった顔が少しだけ照れ臭そうなものに変わった。
頼む。その反応もやめてくれ。
余計に何かあったみたいになる。
「⋯⋯田中さん」
今度は黒川さんだった。
「何ですか?」
「昨日、喫煙所で話したこと覚えてます?」
「覚えてますけど」
「一緒にいて楽な人がいい、って言ってましたよね」
嫌な予感がする。
黒川さんの視線が、さりげなく橘さんへ向いた。
「昨夜は随分長く二人でお話ししていたみたいですけど、由香里とは一緒にいて楽でした?」
「何で今それ聞くんですか!」
「ちょっと気になっただけです」
「玲奈さん、それ美月も気になる〜」
「私も!」
水野さんまで乗ってきた。
橘さんは何も言わない。
何も言わないのだが、何故か俺を見ている。
答えを待たないでほしい。
「橘さんとは普通に話しやすいですよ!前からそうです!それ以上でもそれ以下でもないです!」
「⋯⋯そうですか」
橘さんが少しだけ笑った。
何だろう。
何で俺がこんなに追い詰められているんだ。
今すぐダンジョンに入りたい。
S級モンスターでもいい。ここと比べたら多分そっちの方が楽だ。
「とにかく、由香里が無事で良かったわ。そこは本当に安心した」
黒川さんがようやく話を戻し、水野さんも頷いた。
「昨日、電話三件も来てた。全然気づかなかった⋯⋯ごめんね、由香里さん」
「私も今朝気づいた。ごめんね、ゆかりん」
「大丈夫ですよ。私もあの時は怖くて片っ端から連絡してしまったので⋯⋯」
三人とも、本気で橘さんを心配していたのだろう。
最初の唖然とした顔も、半分は安心した反動だったのかもしれない。
だったらもう目的は達成したはずだ。
「じゃあ、俺は着替えたいんで、そろそろ出てもらっていいですか?」
「逃げる気だ」
「逃げますよ。これ以上ここにいたら何を聞かれるか分からないでしょう」
「じゃあ今日の移動中に続きね!」
「続きません!」
水野さんはまだ聞く気らしい。
小宮川さんも「美月は玲奈さんとの話聞きたいな〜」などと言っているし、黒川さんに至っては逆に昨夜の小宮川さんについて興味があるらしい。
唯一、橘さんだけが俺を助けて——。
「私も、美月さんがバスローブで田中さんのお部屋にいた間の話は、もう少し詳しく聞いてみたいです」
「橘さんまで!?」
味方がいない。
唯一の男性である神崎さんはこの場にいないし、多分いたところで助けてくれない。
「もう、早く出てってくださいよ!」
四人を追い出そうとしたところで、橘さんが足を止めた。
「田中さん、昨日は本当にありがとうございました」
さっきまでの騒ぎとは違う、いつもの柔らかい笑顔だった。
「⋯⋯いえ。眠れたなら良かったです」
「はい。田中さんのおかげです」
「また何かあったら——」
そこまで言って、三人分の視線に気づいた。
黒川さんは微笑んでいる。
水野さんは何か言いたそうにしている。
小宮川さんはニヤニヤしている。
「⋯⋯次はまずフロントに連絡してください」
「ふふっ。分かりました」
危ない。余計なことを言うところだった。
今度こそ四人を部屋から追い出し、ドアを閉める。
「⋯⋯疲れた」
まだ朝なのに、一日分くらい疲れた気がする。
昨日までは全国の異常ダンジョンを回り、S級探索者達と行動して、S級モンスターまで相手にしていた。
それなのに、最近はそっちより女性陣に囲まれている時の方がよほど怖い。
「⋯⋯『清掃』でどうにかならんかな」
当然、どうにもならない。
ドアの向こうからまだ楽しそうな四人の声が聞こえてくる。
俺はそれを無視して着替えを始めた。
早く北海道へ行こう。仕事がしたい。
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