71話 清掃おじさん、ホテルでヤニ吸う
静岡と愛知の異常を無事に解決した、その日の夜。
俺達は愛知県内のホテルに泊まることになった。
残る異常地点は北海道だけだが、さすがに今日中に移動するのは厳しい。明日は一度東京へ戻って状況を確認してから、北海道へ向かう予定になっている。
全国を飛び回る生活も、もう随分長く続いている気がする。
実際にはそれほど経っていないのだが、大阪へ行き、広島へ行き、福岡へ戻り、沖縄へ行ったと思えば欠航で足止めされ、ようやく東京へ戻ったら静岡と愛知。
おっさんにはなかなか厳しいスケジュールだ。
夕食を済ませて部屋へ戻り、風呂に入った後。
時刻は21時を過ぎていた。
明日も朝から移動なので、そのまま寝てしまってもよかったのだが、俺は財布と煙草を持って部屋を出た。
ホテル内は全館禁煙で、煙草を吸えるのは一階にある喫煙所だけらしい。
⋯⋯本当に喫煙者の肩身が狭い。
エレベーターで一階へ降り、案内表示に従って喫煙所へ向かう。扉を開けると誰もいなかったので、奥の壁際に立って煙草へ火をつけた。
「ふぅ⋯⋯」
煙を吐き出しながら、ようやく一息つく。
今日は朝からずっとダンジョンだった。
俺は戦っていないとはいえ、異常が起きているダンジョン内を何時間も歩き、皆が倒したモンスターを片付け、最後には高濃度の魔素まで『清掃』している。
疲れないわけがない。
それでも、静岡と愛知は無事に終わった。
残るは北海道だ。
ようやく福岡へ帰れる日も見えてきた。
そう考えながら煙草を吸っていると、喫煙所の扉が開いた。
「あら」
「⋯⋯黒川さん?」
入ってきたのは黒川さんだった。
ホテルに泊まっているので当然なのだが、普段の探索者としての格好ではない。ゆったりした黒いパンツに薄手の上着という随分ラフな姿で、片手には電子タバコを持っている。
「黒川さんも吸いに?」
「ええ。喫煙室があれば良かったんですけどね」
黒川さんが俺から少し離れた壁際に立ち、電子タバコを口元へ運ぶ。
いつもなら水野さん達がいる。
二人だけというのは、思えば珍しい。
「⋯⋯静かですね」
俺が何となく口にすると、黒川さんがこちらを見た。
「嫌ですか?」
「いや、むしろ落ち着きます」
「ふふっ。私もです」
黒川さんが小さく笑う。
それから少しの間、二人とも黙って煙草を吸った。
気まずくはない。
誰かと一緒にいるのに、無理に話さなくてもいい時間というのは結構好きだ。
「こうしていると、全国を飛び回っているのが嘘みたいですね」
「分かります。ここ最近、色々ありすぎましたからね」
「田中さんは特にそうでしょうね。少し前までは普通の清掃員でしたもんね」
「今もそのつもりなんですけどね⋯⋯」
「S級探索者と戦って勝ったり、政府の依頼で全国を回ったりする清掃員が普通かは分かりませんけど」
「俺にも分かりません」
二人で笑う。
俺だって、こんなことになるとは思っていなかった。
今頃は福岡で山下達と一緒に仕事をして、帰ったら一人で飯を食って、風呂に入って寝る。
少し前まで、それが俺の日常だった。
「田中さんって、ずっとあんな生活だったんですか?」
「どんな生活です?」
「お仕事して、家に帰って、一人で過ごして。また次の日も仕事して⋯⋯」
「まあ、大体そんな感じですね。休みの日は掃除したり、買い物したり。たまに飲みに行ったりもしますけど」
「思っていた以上に普通ですね」
「⋯⋯俺を何だと思ってるんですか」
「最近の田中さんを見ていると、普通の基準が分からなくなってきたので」
酷い⋯⋯。俺は今でも普通のおっさんのつもりなんだけどな。
「黒川さんは?」
「私ですか?」
「探索者になる前って、どんな感じだったのかなって」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
黒川さんとは知り合ってからそれなりに経つが、VIVIDとしての彼女しか知らない。
ただ、黒川さんは特に気にした様子もなく、電子タバコを手元へ下ろした。
「普通ですよ。昔から特別目立つタイプでもありませんでしたし、夏希みたいに何でも勢いで飛び込める性格でもありませんでした。探索者になったのも、最初は自分にどこまでできるのか試してみたかった〜⋯⋯みたいな」
「意外ですね」
「どういう意味ですか?」
「黒川さん、昔から何でも冷静に決めてそうな感じがするので」
「そんなことありませんよ。今でも結構迷います」
「そうなんですか?」
「そう見えないようにしているだけです」
黒川さんが少し笑った。
水野さんや小宮川さんは感情が顔に出やすいが、黒川さんはあまり表に出さない。
四人の中では一番年上ということもあって、自然とまとめ役になることも多い。
「VIVIDも最初から今みたいな感じだったわけじゃないですから。喧嘩もしましたし、活動方針で揉めたこともありました。辞めようかと思ったこともありますよ」
「黒川さんが?」
「意外ですか?」
「ちょっと⋯⋯」
「そういう時期もあったんです。でも、気づけば一番年上として、玲奈さん玲奈さんって頼られるようになって。今更抜けられなくなりました」
そう言いながらも、黒川さんの表情は柔らかい。
「嬉しそうですね」
「分かります?」
「何となく」
「⋯⋯そうですね。なんだかんだ、あの子達のことは好きですから」
やっぱり黒川さんは黒川さんだ。
水野さん達が好き勝手している後ろで、いつも何だかんだ面倒を見ている。
「田中さんは?」
「俺?」
「探索者を辞めた後、今のお仕事に就くまで迷いませんでした?」
「ああ⋯⋯」
そういえば、黒川さん達には細かく話したことがなかった。
「迷いましたよ。その時は本業の会社も辞めちゃいましたし、探索者も辞めましたし。当時は22だったんで、まあ何とかなるだろうとは思ってましたけど」
「若いですね」
「黒川さんに言われると複雑だなぁ⋯⋯」
「私はもう29ですよ?」
「俺から見たら十分若いですよ」
「そういうこと言うと、おじさんっぽいですよ」
「おじさんですからね」
また二人で笑う。
俺は灰皿へ灰を落としながら、昔のことを思い出した。
「探索者を辞めた時は、結構落ち込みましたよ。自分なりに頑張ってたつもりだったんですけどね。全然才能なくて、後から始めた年下の探索者にあっという間に抜かれて。⋯⋯ああ、俺には無理なんだなって」
「それで、清掃員に?」
「最初は⋯⋯なんとなく、ダンジョンへの未練があって。清掃スキルを一番活かせる仕事でもありましたし」
「それが今まで続いたんですね」
「そうですね⋯⋯。居心地が良かったんでしょうね。仕事も性に合ってましたし」
いつの間にか主任になり、部下もできた。
探索者になれなかったことを後悔しなかったと言えば嘘になるが、今となっては別に悪い人生だったとも思わない。
「今は?」
「今?」
「探索者に戻りたいと思います?」
「思いませんね」
それだけはすぐに答えられた。
「俺、清掃員の仕事好きですから。戦うより掃除してる方が向いてますよ」
「田中さんらしいですね」
「そうですか?」
「ええ。とても」
黒川さんが俺を見ながら微笑む。
何だろう⋯⋯妙に照れる。
視線を逸らし、煙草を口へ運ぶ。
「⋯⋯でも」
黒川さんが続ける。
「昔の田中さんには、少し会ってみたかったです」
「俺の?」
「22歳の田中さん。今とは全然違ったんでしょう?」
「いやぁ⋯⋯どうですかね。今より髪が元気だったくらいじゃないですか?」
「そこですか?」
「大事ですよ」
幸い、まだ禿げてはいない。
ただ22歳の頃と比べれば、そりゃあ色々違う。
「写真とか残ってないんですか?」
「家を探せばあると思いますけど」
「見てみたいです」
「えぇ⋯⋯嫌ですよ。絶対笑うでしょう」
「笑いませんよ」
「その顔は信用できないなぁ」
「失礼ですね」
黒川さんはそう言いながら笑っている。
ほら、絶対笑うじゃないか。
「じゃあ私も昔の写真を見せますから」
「それなら⋯⋯いや、それでも嫌だな」
「何でですか?」
「黒川さん、絶対昔から綺麗だったでしょう。俺だけ損するじゃないですか」
何気なく言ってから、少し遅れて気づいた。
黒川さんが黙っている。
⋯⋯あれ?
「今の、結構さらっと言いましたね」
「何がです?」
「私が綺麗だって」
「あ——」
言った。確かに言った。
「いや、その⋯⋯一般論としてですね。黒川さんが美人なのは事実でしょうし」
「ありがとうございます」
「⋯⋯どういたしまして」
何で俺が照れてるんだ。
黒川さんは少し楽しそうだ。
「田中さんって、たまにそういうこと自然に言いますよね」
「すみません⋯⋯気をつけます」
「⋯⋯別に、気をつけなくていいですよ」
「——え?」
「褒められて、嫌な気はしませんから」
そう言って、黒川さんが俺を見る。
普段のVIVIDのまとめ役としての顔ではない。
水野さん達を注意している時とも、ダンジョンで戦っている時とも違う。
こうして二人だけで話しているせいか、少しだけ距離が近く感じる。
⋯⋯落ち着け。相手は29歳。俺は41歳。
最近色々と距離感が近づいてたせいで、感覚がおかしくなっているだけだ。勘違いしてはいけない。
「そういえば田中さん」
「は、はい」
「沖縄で由香里と何かありました?」
「ごほっ!ごほっ!」
思わず咳き込む。
「何で急にその話になるんですか!」
「海で二人とも妙に慌てていたので、少し気になっていたんです」
「橘さんが転びそうになったから支えただけです!」
「分かってますよ」
「じゃあ聞かないでください!」
「ふふっ。すみません」
この人、分かっていて言ったな⋯⋯。黒川さん、やっぱり最近ちょっとおかしいかもしれない。
「黒川さんも、小宮川さんに影響されてません?」
「そうかもしれませんね」
「否定しないんですか⋯⋯」
「田中さんの反応が面白い理由は、少し分かってきましたから」
「勘弁してくださいよ⋯⋯」
水野さんと小宮川さんだけでも大変なのに、黒川さんまで加わったら俺の身が持たない。
「それに——」
黒川さんが電子タバコを口元へ運び、ゆっくり煙を吐き出す。
「少しくらいなら、私も田中さんを困らせてみたいですし」
何だそれは⋯⋯。反応に困る。
「⋯⋯もう十分困ってますよ」
「それなら成功ですね」
黒川さんが笑う。
こういう時の笑顔はずるい。
普段落ち着いている人が、二人の時だけ少し悪戯っぽく笑うと妙に意識してしまう。
俺は誤魔化すように煙草を吸った。
残りはもうほとんどない。
「田中さん」
「今度は何です?」
「私、田中さんとこうやって話すの、結構好きですよ」
今度は冗談っぽい笑い方ではなかった。
「夏希達がいると、なかなかゆっくり話せないでしょう? 二人だと落ち着きます」
「⋯⋯俺もですよ」
「本当ですか?」
「本当です。黒川さんとは、無理に喋らなくてもいいというか。さっきみたいに黙って煙草吸ってても気まずくないですし」
「それ、褒めてます?」
「かなり褒めてますよ。俺、一緒にいて楽な人って好きなので」
黒川さんが一瞬だけ目を丸くした。
そして、ゆっくり笑う。
「それは嬉しいですね」
まただ。また何か余計なことを言った気がする。
でも、まあ⋯⋯嘘ではない。
水野さん達と一緒にいるのも楽しいが、黒川さんとは違う意味で居心地がいい。
同じ空間にいても、無理に何かをしなくていい。
こういう時間も悪くない。
俺の煙草が短くなり、黒川さんも電子タバコをしまった。
「そろそろ戻りますか」
「そうですね。明日も早いですし」
煙草を灰皿へ押しつけ、二人で喫煙所を出る。
エレベーターへ向かって並んで歩いていると、黒川さんがふと俺を見る。
「田中さん」
「はい?」
「今度、福岡に戻ったら二人で飲みに行きませんか?」
「二人で?」
「嫌ですか?」
「いや、全然。行きましょうよ」
普通に答えると、黒川さんは満足そうに微笑んだ。
「約束ですよ」
「はい」
黒川さんが小指を差し出す。
照れ臭いまま小指を絡め、指切りをする。黒川さんの小指は、すべすべしていて冷たかった。
エレベーターに乗り、俺達の泊まっている階へ向かう。
その間も、どちらからともなく会話が途切れた。
でも、やっぱり気まずくない。
むしろ心地いい。
こういうのを大人の関係と言うのだろうか。
⋯⋯いや、違うな。何だよ、大人の関係って。
一人で変なことを考えて恥ずかしくなり、俺は階数表示へ目を向けた。
やがてエレベーターが俺達の階へ到着する。
「じゃあ、おやすみなさい。田中さん」
「おやすみなさい、黒川さん」
黒川さんと別れ、自分の部屋へ向かう。
少し前まで眠かったはずなのに、何故か目が冴えてしまった。
⋯⋯もう一本吸ってくれば良かったかな。
そんなことを考えながら廊下を曲がったところで、俺は足を止めた。
自分の部屋へ続く廊下の先。
そこに、バスローブ姿の女性が一人立っていた。
「⋯⋯小宮川さん?」
俺の声に気づいた小宮川さんが、ゆっくりこちらを振り向く。
そして、とても困ったような顔で笑った。
「田中さん⋯⋯助けてぇ」
⋯⋯何してるんですか、この人。
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