39話 清掃おじさん、S級を目撃する
『ベヒーモスです』
無線から聞こえた名前に、その場にいた全員が黙った。
俺は改めて、さっき倒したベビーモスを見る。
高さ11メートル、全長35メートル。あれだけの探索者に囲まれて攻撃されても耐え続け、俺が殴っても攻撃が通るまで三発必要だった。
その成体⋯⋯S級モンスター、ベヒーモス⋯⋯。
「⋯⋯どれくらい大きいんですか?」
俺が尋ねると、協会職員はすぐに無線で確認した。
「現在、監視設備で計測中です。少し待ってください」
返事を待つ間にも、周囲では慌ただしく探索者たちが動いている。
ベビーモスを倒したからといって戦いが終わったわけではない。ナイトワイバーンの群れは健在で、オーガの軍勢も残っている。別の戦線ではロックドラゴンやケルベロスとの戦闘も続いていた。
それでも、協会の指示は明らかに変わった。
『全部隊へ通達!S級出現の可能性あり!各戦線を維持しながら、22階への進入を一時停止してください!』
無線が各所へ飛ぶ。
それだけで、S級というものがどれほど危険なのか分かった。
そもそも日本国内でS級モンスターが出現すること自体が滅多にない。
これまで日本でS級モンスターが確認されたのは、1999年7月、2002年4月、2008年11月、2011年1月、2012年12月、2014年4月、2018年9月、2020年2月、2023年6月。そして今日、2026年9月。この10回だけだ。
発見されれば周辺のダンジョンを封鎖し、複数の上位探索者を中心に討伐隊が組まれるような相手だ。
福岡には今、大勢の上位探索者が集まっている。
それでも協会は慎重になっていた。
『計測結果出ました!』
無線から声が届く。
『全高約26メートル、全長推定82メートル!』
PoyPoyドームにすっぽりハマるくらいの大きさだ。ヤバすぎる。
水野さんも呆れたように口を開けていた。
「ベビーの倍以上あるじゃん」
「幼体だったんだから、そりゃ大きくなるでしょうけど⋯⋯」
「限度があるでしょ⋯⋯」
それには同意する。
俺たちがそんな話をしている間にも、協会職員たちは対応を協議していた。
やがて、一人の職員が俺たちのところへやってくる。
「神崎さん、VIVIDの皆さん。一度後方へ戻ってください。22階への進入は許可が出るまで禁止します」
「分かりました」
神崎さんは素直に従った。水野さんたちも異論はないらしい。
俺も当然、一緒に戻る。
そもそも俺は戦闘要員ですらない。
「田中さんもお願いします」
「はい」
言われなくても戻りますよ。
今日は十分働いた。
A級中位のギガント・ゾンビと大量のゾンビを清掃して、A級上位のデュラハンまで清掃した。そのうえベビーモスまで殴り倒している。
もう帰って風呂に入りたい。
特にギガント・ゾンビの臭いがまだ鼻に残っている気がする。
「帰ったら作業着二回洗おう⋯⋯」
「二回で落ちる?」
「⋯⋯三回にします」
水野さんとそんな話をしながら後退していた時だった。
足元が揺れた。
ベビーモスの時とは違う。
床だけではなく、壁まで震えている。
「何?」
水野さんが振り返る。
もう一度、地面が揺れる。
今度は明らかに大きい。
天井から細かい砂や石が落ちてくる。
そして無線から、焦った声が飛んできた。
『ベヒーモス、移動開始!21階へ向かっています!』
「え?」
『階段ではありません!床や壁を破壊しながら上がっています!』
意味が分からなかった。
しかし数秒後、その言葉の意味を身体で理解した。
遠くから、とてつもなく大きな衝撃音が響いた。
続けて二度、三度、壁が揺れる。
「⋯⋯まさか」
神崎さんが剣を抜いた。
次の瞬間。
俺たちのいる空間から百メートルほど離れた壁が、内側から吹き飛んだ。
巨大な岩が飛び散り、周囲の探索者たちが一斉に退避する。
もうもうと舞い上がった土煙の向こうから、巨大な何かが姿を現した。
「うわ⋯⋯」
最初に見えたのは頭だった。
黒に近い灰色の鱗に覆われ、額から巨大な二本の角が伸びている。
そこから全身が出てくるまで、かなりの時間がかかった。
さっきのベビーモスとは比較にならない。
80メートルを超える巨体が、壁を破壊して21階へ直接侵入してきた。
初めて見た感想は、強そうとか怖いとかではなかった。
「⋯⋯デカすぎんだろ」
本当にそれしか出てこなかった。
『全部隊、ベヒーモスから距離を取ってください!』
協会の指示が響き、探索者たちが一斉に下がる。
ベヒーモスは追わなかった。
巨大な頭をゆっくり動かし、周囲を確認している。
それだけなのに、近くにいるだけで身体が緊張した。
レッドドラゴンの時には感じなかった感覚だ。
あの時の俺は相手の強さすら分かっていなかったというのもある。
でも、今回は違う。
何体ものA級を見た。
神崎さんの戦いも見た。
VIVIDがA級上位のアラクネを倒すところも見た。
自分でもベビーモスと戦った。
だから分かる。
目の前のやつは、それまでのモンスターとは⋯⋯圧倒的に、明らかに、強さの次元が違う。
「田中さん、もっと下がりますよ!」
神崎さんに言われ、俺も一緒に距離を取った。
「神崎さんでも厳しいですか?」
「厳しいどころじゃありません!」
神崎さんはベヒーモスから目を離さない。
「ベビーモスなら、俺の攻撃でも場所を選べば多少は通りました。でも、あれは無理です」
「そんなに違うんですね」
「S級は、A級の延長で考えない方がいいです」
いつも落ち着いている神崎さんが、はっきりそう言った。
協会も戦うか撤退するか判断できていないらしい。
本来ならS級探索者を待つべきなのだろう。ただ、残念ながら福岡にS級探索者は居ない。日本に4人しか居ないS級は、東京に2人、大阪に1人、北海道に1人だ。大阪から来てもらうにしても、数時間は必ずかかる。
しかも他の階では、今も大量のモンスターとの戦闘が続いている。
このままベヒーモスを放置して、さらに上へ移動された方が危険だ。
実際、ダンジョンの床や壁を破壊して階層移動できる規格外の強さだ。もしベヒーモスが地上に出てしまったら————。
『A級探索者はベヒーモス周辺へ集結!ただし攻撃指示があるまで仕掛けないでください!』
神崎さんが前へ出る。
水野さんたちも向かおうとした。
「皆さんも行くんですか?」
「一応A級だからね、私」
「夏希一人じゃ行かせられないわ」
「そうそう。美月達もほとんどA級みたいなもんだしね」
「VIVIDは四人で一つです!」
水野さんが苦笑する。
黒川さんたち三人もB級ではあるが、全員がA級目前の実力者だ。
「無茶しないでくださいよ」
「田中さんに言われたくない!」
「俺、今日はほとんど何もしてませんよ」
「ベビーモス殴り殺した人が言う?」
言い返せなかった。
「田中さんはちゃんと後ろにいてね」
「分かってます」
「本当に?」
「神崎さんにも同じこと聞かれましたよ」
「だって信用ないもん」
酷い話だ。
水野さんは笑うと、三人と一緒に前線へ向かった。
俺は協会職員とともに後方へ残る。
少しして、ベヒーモスを囲むように上位探索者たちが配置された。
ベビーモスよりも更に大規模な討伐。まるで、ゲームのレイドボスのような大きさと規模感だ。
『攻撃開始!』
指示が出た。
魔法スキル持ちから、一斉に魔法が飛ぶ。
炎がベヒーモスの側面へ直撃し、雷が頭部へ落ちる。氷の槍や岩の塊まで、様々な攻撃がほぼ同時に巨体へ叩き込まれた。
爆発で姿が見えなくなる。
少しは効いただろう。そう思った。
しかし、煙が晴れた結果は————。
「⋯⋯嘘だろ」
そこに居たベヒーモスには、傷がなかった。鱗の表面が僅かに汚れている程度だ。
大きさだけじゃない。耐久力もベビーモスとは比べ物にならない。
ベヒーモスが大きく前脚を持ち上げた。
『離れろ!』
探索者たちが散る。
前脚が床へ落ち、衝撃が広がる。
離れていた俺の身体まで揺れた。
地面に亀裂が走り、何人もの探索者が体勢を崩す。
そこへベヒーモスが身体を回した。
巨大な尾が横薙ぎに振られる。
「危ない!」
俺が叫ぶ。
数人は避けた。しかし、全員ではない。
すかさず黒川さんの瞳が金色に輝いた。
「『固定』!」
尾そのものを止めようとしたらしい。
ほんの一瞬だけ、速度が鈍る。
だが止まらない。
「っ⋯⋯無理!」
それでも、その僅かな遅れで何人かが回避できた。
小宮川さんも念力を重ねて軌道をずらそうと試みる。
水野さんが橘さんを抱えて跳んだ。
各人の検討虚しく巨大な尾が通過し、何人かの探索者が吹き飛ばされた。
『負傷者を後方へ!』
それでも探索者たちは逃げなかった。
神崎さんがベヒーモスの前脚へ接近する。
鱗の継ぎ目へ剣を突き込んだ。
火花が散り、刃が僅かに入った。
——でも、それだけだった。
ベヒーモスが神崎さんを踏み潰そうとする。
しかし、神崎さんは既に動いていた。巨大な脚が落ちるより早く安全な場所へ抜ける。
やっぱり凄い。回避に関してはS級にも劣らないのだろう。
でも、倒せない。
攻撃を避けられても、相手へまともな傷を与えられない。
他の探索者も同じだった。
数十人の上位探索者が攻撃を続けている。
それでもベヒーモスはほとんど傷付かない。
「これがS級⋯⋯」
ようやく、その意味が分かった気がした。
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