29話 清掃おじさん、ドギマギする
途中で見つけた海沿いの駐車場に車を停めた。
せっかくだから少しくらい外へ出ようとしたのだが、ドアを開けた瞬間に熱気が入り込んできた。
「暑っ!無理!」
水野さんがすぐにドアを閉める。
「だから言ったでしょう」
「9月なのに何でこんな暑いの?」
「俺に聞かれても分かりませんよ」
結局、エアコンの効いた車内から海を見ることになった。
少し前にコンビニで買ったアイスコーヒーを飲みながら、二人でぼんやり海を眺める。
「田中さんって、私といて疲れない?」
突然聞かれた。
「何でです?」
「私、結構うるさいじゃん」
「まあ、静かな方ではないですね」
「そこは否定してよ!」
「でも、別に疲れませんよ」
水野さんは確かによく喋るし、距離も近い。正直、うるさいのは否定できない。
最初に会った時から遠慮なく話しかけてくるし、最近では休日に突然電話までしてくる。
普通なら疲れてもおかしくないのかもしれない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「むしろ最近、家に一人でいると前より静かだなと思うことは増えましたね。この前、皆さんが帰った後もそうでしたし」
「えー、そうなんだ!じゃあ、また遊びに行っていい?」
「いいですよ。この前もいいって言ったでしょう」
「私一人でも?」
なぜわざわざ一人なのかと思ったが、断る理由もない。
「別に構いませんよ」
「ほんと?じゃあ今度ゲームしようよ。この前由香里さんと話してたやつ、私もやってみたい!」
「結構難しいですよ。水野さん、ああいうゲームやったことあります?」
「ないから田中さんが教えてよ」
「良いですけど⋯⋯それならもっと簡単な——」
「田中さんがいい」
さらっと言われた一言に、心臓が少し跳ねた。
こういうところだ。
本人は何も考えていないのだろうが、こんな若い美人からそんな言い方をされると、こちらは多少なりとも意識してしまう。
「田中さん、どうしたの?」
「いや、何でもないですよ」
「何か顔赤くない?」
「暑いんじゃないですかね」
「エアコンめっちゃ効いてるけど?」
「じゃあ気のせいです」
「怪しいなぁ」
水野さんが助手席側へ身を乗り出し、俺の顔を覗き込んできた。
大きな目がすぐ近くにある。
さすがにこれは近い。近い近い!
「水野さん——!」
「なに?」
「近いです!」
「⋯⋯⋯⋯。え?もしかして照れてる?」
そんな分かりきった事を聞かないでほしい。
火照る顔を隠し、さっきまでセクハラがなんだとか考えていた頭もどっかに行ってしまった。
「そりゃ照れますよ。水野さんみたいな綺麗な人に、こんな近くまで来られたら普通に緊張します」
「え⋯⋯」
今度は水野さんが慌てて離れた。
頬が少し赤くなっている。
「だから、何で水野さんが照れるんですか!」
「田中さんが急に変なこと言うからでしょ!」
「聞かれたから答えただけじゃないですか!」
「普通そんな真っ直ぐ言わないって!」
また怒られた。
どうやら女性との会話というものは、41歳になっても難しいらしい。
◆
夕方になり、水野さんの仕事の時間が近づいてきたので家まで送ってもらった。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「ほんと?」
「はい。ラーメンも美味しかったですし」
「よかった!じゃあ今度はゲームしようね!」
「分かりました」
「約束だからね。また連絡する!」
「はい。撮影頑張ってください」
「ありがと!またね!」
車が走り去るのを見送ってから家に入った。
昼飯を食べて、ドライブして、海を眺めながら話をしただけだ。
特別なことは何もしていない。それでも随分楽しかった。
冷蔵庫から麦茶を取り出したところで、スーパーへ行く予定だったことを思い出した。
今からでも行けないことはないが、明日の仕事帰りでも困らない。
今日はもう家でゆっくりしよう。
そう思っていると、スマートフォンが鳴った。
水野さんからメッセージが届いている。
《今日はありがと!めっちゃ楽しかった!》
続けて、今日撮ったらしい海の写真が送られてきた。
《また二人で遊ぼうね!》
俺は少し笑ってから返信する。
《こちらこそありがとうございました。また予定が合えば行きましょう》
すぐに水野さんから嬉しそうなスタンプが返ってきた。スタンプまで元気な人だ。
スマートフォンを置き、俺は朝やり残していた買い物の代わりに、夕飯を何にするか考えることにした。
◆
夕方。撮影現場での待機中、水野夏希はVIVIDのグループチャットを眺めていた。
玲奈から《今日休みだったよね。何してたの?》とメッセージが届いたので、夏希は特に隠すこともなく《田中さんと遊んでた!》と返信した。
すぐに美月から《二人で?》と聞かれ、《うん!ラーメン食べて、そのあと海までドライブしてきた!》と返す。
すると、今度は由香里から《夏希ちゃん、今日は田中さんとお二人だったんですね》とメッセージが届いた。
《そうだよ!めっちゃ楽しかった!》
そこまで送ったところで、なぜか三人からの返信が途絶えた。
既読は3。つまり、全員既読にはなっている。
夏希が不思議に思っていると、少しして玲奈から新しいメッセージが届いた。
《夏希、それって普通にデートじゃない?》
「え?」
思わず声が出た。
今日は自分から田中を誘い、家まで迎えに行った。
二人でラーメンを食べ、そのまま海までドライブした。
言われてみれば、確かにやっていることだけならデートにしか見えない。
「⋯⋯いや、待って。全然そんなつもりじゃなかったんだけど」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、夏希は慌ててグループチャットへ返信した。
《違うって!普通に田中さんと遊びたかっただけだから!》
すぐに美月から返事が来る。
《なっちゃん、それ田中さんにもちゃんと伝わってる?》
《え?》
《向こうはデートだと思ってたかもよ?》
《ええ!?》
そこまでは考えていなかった。
今日の田中を思い返してみる。
家まで迎えに行っても普通だった。ラーメンを食べている時も普通だった。ドライブ中も、いつもの田中だった。
ただ、海を見ながら顔を近づけた時だけは、綺麗な女性に近づかれたら緊張すると言われた。
あれはもしかすると、田中も今日のことを多少は意識していたのだろうか。
「⋯⋯どうしよう。次会う時ちょっと気まずいんだけど」
それまで何とも思っていなかったのに、デートという言葉を意識した途端、今日一日の出来事が妙に恥ずかしく思えてきた。
そんな夏希を面白がるように、美月から《なっちゃん可愛い》とメッセージが届く。
《美月さんのせいでしょ!》
《最初に言ったの玲奈さんだけど?》
《玲奈さんも!》
続けて玲奈から笑っているスタンプが送られてきた。
夏希はスマートフォンを閉じると、熱くなった頬を手で扇いだ。
田中と二人で出かけたこと自体は、普通に楽しかった。
それなのに余計なことを言われたせいで、次に顔を合わせた時だけは少し意識してしまいそうだった。
「もう⋯⋯変なこと言わないでよ」
そう呟きながらも、今日が楽しかったという気持ちだけは変わらなかった。
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