第3章:白い花びらの裏側に隠れた迷宮
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夕陽が諏訪湖の上に低く懸かり、静かな黄金色で水面を染め上げている。六渡野林檎園での今日の仕事は終わった。湿った土の香りと、散り始めた林檎の花の香りが強く漂っていた。
僕はいつものように、園主に丁寧にお辞儀をして別れの挨拶をした。「また明日」その声は力強く、長年通い慣れた園の門を出る足取りも確かだった。渋崎は小さな地区だ。僕はこれまで、この道を何千回と通ってきた。
しかし、古い神社の近くにある小さな交差点に差し掛かったとき、僕の足は止まった。
左を見る。丘へと続く上り坂。
右を見る。市街地へと続く下り坂。
突然、世界が回り始めた。足の下のアスファルトが、まるで見知らぬ土地のように感じられる。いつもは道標だったはずの木々が、今は僕を包囲する異国の兵士のように見えた。
——僕は、どこへ行けばいいんだ?
家の番地を思い出そうとした。空白。
玄関のドアの色を思い出そうとした。暗闇。
ズボンのポケットを探り、携帯電話を取り出そうとしたが、手があまりにも激しく震え、機械は道端の小さな側溝へと落ちてしまった。
足元から頭のてっぺんまで,冷たい、異常なほどの恐怖が這い上がってきた。インドネシアには、「森の守り神に隠されて」家に帰れなくなるという言い伝えがある。けれど、これは違う。ここに幽霊なんていない。あるのは、僕の帰り道を飲み込んでしまったばかりの、脳内にある真っ暗な穴だけだ。
「僕の名前は古戸波エドだ」僕は自分に言い聞かせるように、掠れた声で囁いた。「妻の名前はあかり。娘はしおり。僕は……僕はどこに住んでいるんだ……?」
僕はあてもなく走り出した。息が切れる。農家の人たちの畑を通り過ぎ、どれも同じに見える木造住宅の前を駆け抜けたが、一歩進むごとに、ますます自分が迷子になっていくのが分かった。騒がしい夜市の中で、母親の手を離してしまった子供のような気分だった。
ついに足に力が入らなくなり、僕は人通りのない道端にある野生の林檎の木の下に座り込んだ。仕事で荒れた手で顔を覆い、僕は声を上げて泣いた。大人の男が、父親が、自分の帰る場所を忘れてしまったという情けなさに泣き崩れた。
その時、柔らかな声が静寂を破った。
「パパ?」
顔を上げると、数メートル先に、あかりの手を握ったしおりが立っていた。二人はスーパーからの帰り道のようだった。あかりは、これまで見たこともないような眼差しで僕を見つめていた。深い困惑と、底知れぬ恐怖が混ざり合ったような目だ。
「エドくん? どうしてここにいるの? 林檎園からの帰り道じゃないじゃない」あかりが震える声で尋ねた。
僕は黙り込んだ。心臓が激しく脈打つ。言い訳を探さなければならない。もう一度だけ、この「完璧な男」という仮面を被らなければ。
「ああ……、ただ……。ここに綺麗な野花が咲いているのが見えてね」僕は泥を払いながら立ち上がり、腫れた目を隠すように無理やり笑顔を作った。「君に摘んでいこうと思ったんだけど、つい考え込んでしまって」
あかりは答えなかった。ただ、僕の瞳をじっと見つめていた。まるで、僕の虚ろな眼差しの奥に消えてしまった夫を探しているかのようだった。彼女は愚かではない。何かが、ゆっくりと夫を奪い去ろうとしていることに気づいているのだ。
その夜、二人の後ろを歩いて帰りながら、僕はあかりとしおりの背中を見つめていた。そして、一つの残酷な真実に気づかされた。
僕にとって、家はもう住所のことではない。家とは、彼女たちのことなのだ。そして僕の最大の恐怖は、諏訪の道で迷子になることではない。自分の「家」の中で迷子になること——彼女たちの隣にいながら、彼女たちが誰なのか分からなくなることなのだ。
今夜も、手紙を書かなければならない。彼女たちの心へと続く道まで、僕の頭から消えてしまう前に。




