第1章:炬燵の下で折られた枝
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5月の諏訪の夜は、時折まだ山からの冷気が残っている。僕たちの古い木造住宅の広間には、まだ炬燵が出されていた。その木目のテーブルの上には、六渡野林檎園で採れた林檎の切り身が、陶器の皿に並べられている。
僕は背を預け、温かい炬燵の布団に夢中で足を突っ込んでいるしおりを眺めていた。台所ではあかりが、緑茶を淹れながら小さく鼻歌を歌っている。この家の香りはいつも同じだ。日本の茶の香りと、僕が毎晩しおりの首筋に塗ってあげる、故郷インドネシアの「ミニャック・テロン(カユプテ油)」の香りが混ざり合っている。僕が守り続けている、故郷の小さな習慣だ。
「パパ、何かお話して」
しおりが丸い瞳で僕を期待に満ちて見つめ、ねだった。
僕は微笑んだ。テーブルの下で、震えを悟られないよう静かに膝を掴みながら。「しおりは『姥捨て山』のお話、知ってるかい?」
しおりは首を振った。僕は故郷の人々が寝る前に子供たちに読み聞かせるような、低く穏やかな声で話し始めた。
「昔々、ある息子が、とても年老いたお母さんを山に捨てるために、山頂へと連れて行ったんだ。それはとても辛い時代だったんだよ、しおり。でも、暗い山道を進む間、お母さんはずっと木の枝を折り続けて、地面に落としていったんだ」
「どうして、パパ? 手が痛くなっちゃうじゃない」
僕は少し沈黙した。台所の入り口で、いつの間にか立ち止まって話を聞いているあかりに目をやった。
「お母さんはね、暗い山から一人で帰る息子が、道に迷わないようにしたかったんだよ」僕はか細い声で答えた。「自分が捨てられると分かっていても、恐怖よりも愛の方が大きかったんだ。その折られた枝は、愛する人が家へ帰るための『愛の印』だったんだよ」
しおりは深く頷くと、林檎を一切れ取って僕の口に運んでくれた。「じゃあ、もしパパが山で迷子になったら、しおりがいっぱい林檎を落としてあげる。パパがちゃんとおうちに帰って来られるようにね」
ドクン、と。
心臓が止まるかと思った。僕は林檎を飲み込んだが、喉が締め付けられてうまく通りそうになかった。神様に叫びたかった。こんな小さな天使がそばにいるのに、なぜ僕にこんな病を与えたのかと。
「エドくん、泣いてるの?」
あかりの声は優しく、けれど深い不安に満ちていた。
僕は慌てて目尻を拭った。「ああ、違うよ。お茶の湯気が熱すぎただけさ」また、嘘をついた。
その夜、炬燵の温もりの中で、僕は一つのことを悟った。僕こそが、あの姥捨て山の物語の「お母さん」なのだ。僕は今、自分自身の病という名の山を登っている。そして、これらの記憶はもうすぐ消えてしまう。
だから、明日から「枝」を折り始めよう。手紙、ビデオ、そして小さなメモ。僕がいつか「忘却」という名の山頂で本当に迷子になってしまったとき、あかりとしおりが悲しみに迷わず、幸せに生きていけるための道しるべを遺さなければならない。
古戸波家の一員となったインドネシア人の男にとって、愛するとは単に寄り添うことではない。たとえ僕が二人の名前を忘れてしまったとしても、二人が大丈夫でいられるようにすることなのだから。




