プロローグ:渋崎の園、静かなる証人
【作品についてのご注意】
本作は若年性認知症という重い病をテーマに扱っております。描写に切ない表現が含まれますので、ご自身の体調や心の状態に合わせてお読みいただけますようお願い申し上げます。家族の絆と愛を真っ直ぐに描いた物語です。
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僕の名前はエド。この街で、壮大な信州の山々の影に抱かれながら、僕はもう「よそ者」ではなくなった。僕の名は、古戸波エド。その名は、十年前、諏訪にある小さな教会であかりの手を握った時に交わした約束の証だ。
2008年、5月。本来なら、一年で最も幸せな季節であるはずだった。
毎日僕が汗を流す「六渡野林檎園」では、林檎の花が真っ白に咲き誇っていた。穏やかな諏訪湖から吹く風に乗って、柔らかな香りが漂う。僕はいつものように林檎の木々の間に立ち、剪定バサミを握っていた。……だが突然、手から感覚が消えた。
ハサミが地面に落ちる。古い木の根に当たり、乾いた金属音が小さく響いた。
僕は自分の手を見つめた。いつも器用に実を摘み、毎朝あかりの黒髪を撫で、小さなしおりの指に固く握られていた、この手。今、その手は震えていた。寒さのせいじゃない。僕の頭の中の何かが、僕の記憶という名の糸を、一本ずつ、ゆっくりと断ち切ろうとしているせいだ。
「エドさん、大丈夫かい?」遠くから園主の声が聞こえた。
僕は微笑んだ。いつものように「完璧な僕」に見えるよう、無理に作った笑顔だ。「少し疲れただけですよ」と僕は答えた。この誠実な街で、僕がついた初めての嘘だった。
夕方、家へ帰ると、しおりが僕の足に駆け寄って抱きついてきた。彼女の笑い声が、温かなリビングを満たす。台所にはあかりがいて、味噌汁と炊きたてのご飯の香りが僕を迎え入れてくれた。これが僕のすべてだ。僕が息をする理由だ。
けれど、僕に微笑みかけるあかりの顔を見つめた瞬間、冷たい恐怖の閃光が胸を突き刺した。医者は言った。近い将来、僕の頭の中に暗い霧が降りてくるだろうと。ある朝、目が覚めたとき、僕は目の前にいるこの美しい女性を「見知らぬ誰か」として見るようになる。実の娘であるしおりを見て、「君の名前は何だい?」と尋ねるようになるのだ。
その夜、僕は二人を力いっぱい抱きしめた。あまりに強く抱きしめるものだから、あかりが「エドくん、どうしたの?」と小さく囁いた。
僕は答えなかった。ただ、二人の肌の質感、髪の香り、そして笑い声を、病魔でさえ消し去ることのできない魂の最も深い場所に、深く刻み込みたかった。
六渡野の林檎が秋になって赤く染まる前に、僕はもう僕自身を失っているかもしれない。だから、その時が来る前に、この物語を綴らせてほしい。僕が覚えているためじゃない——僕はどうせ忘れてしまうのだから。そうではなく、かつて遠い国から来た一人の男が、諏訪の街で二人の天使を命より深く愛していたということを、世界に知ってもらうために。
これは、僕が遺す最後の手紙だ。




