第9話 孤児院に届かなかったパン
――これは、帳簿の中だけの横領ではありません。
私がそう告げると、レオンハルト様はすぐに立ち上がった。
「馬車を用意しろ」
声は静かだった。
けれど書斎にいた誰も、その静けさを穏やかだとは思わなかったはずだ。
机の上には、死亡者の名で受領済みになっている支援物資の控えが広げられている。
パン、小麦、薬草茶、毛布。
冬前の孤児院に届けられるはずだったもの。
その受領者欄には、教会記録で死亡者を示す黒い線が引かれていた。
死んだ人の名前で、物資が受け取られている。
つまり、その人は受け取っていない。
では、パンはどこへ消えたのか。
小麦は。
薬草茶は。
毛布は。
私は受領証を握る指に力を込めた。
「私も同行します」
「そのつもりだ」
レオンハルト様は即答した。
少し意外だった。
危険だ、休め、と言われると思っていたから。
私の顔に出ていたのか、彼は淡々と続ける。
「封蝋を読む者がいなければ、現地の書類を確認できない。ただし、無理はさせない」
「はい」
「護衛を四名つける。オルデンも同行しろ。ノアは屋敷で待機だ」
「僕も行きます!」
ノアが声を上げた。
小さな拳を握りしめ、必死にレオンハルト様を見上げている。
「兄さんの手がかりがあるかもしれません。僕も――」
「駄目だ」
レオンハルト様の返答は短かった。
ノアの顔が歪む。
「でも!」
「君は昨夜、命を狙われていた可能性がある。外に出せない」
「僕、もう黙ってるだけは嫌です!」
その声には、昨夜までの怯えだけではなく、怒りが混じっていた。
兄を犯人にされた怒り。
自分が何もできなかった悔しさ。
それは、痛いほど分かる。
けれどレオンハルト様は揺れなかった。
「ならば、生きていろ」
ノアが息を呑む。
「証言できる者が死ねば、リックを救う道も狭まる。君はここで、自分が見たことを忘れずにいろ。それが今の役目だ」
冷たい言い方だった。
でも、突き放す言葉ではなかった。
ノアは唇を噛んだあと、小さく頷いた。
「……分かりました」
「マーサのそばを離れるな」
「はい」
私はノアの前にしゃがんだ。
「ノアさん。孤児院で何か分かったら、必ず伝えます」
「約束ですか」
「はい。約束です」
ノアは私を見つめ、それから深く頷いた。
「お願いします。兄さんを、見つけてください」
「探します」
見つけます、と言い切ることはできなかった。
でも、探すことはできる。
嘘を追うことはできる。
封蝋が覚えているなら、私は読む。
公爵家の馬車は、ほどなくして屋敷を出た。
空は相変わらず灰色だったが、雨は降っていない。
北方の公爵領へ向かう道は、王都の石畳とは違い、湿った土と枯れ葉の匂いがした。
馬車の中で、私はレオンハルト様の向かいに座っていた。
彼は窓の外を見ている。
膝の上には、孤児院への支援記録をまとめた薄い帳簿。
昨夜からほとんど休んでいないはずなのに、背筋はまっすぐ伸びている。
けれど、顔色はまだ少し悪い。
「レオンハルト様」
「何だ」
「お体は、本当に大丈夫ですか」
彼は私を見た。
まるで、その質問をされること自体が不思議だと言いたげな顔だった。
「問題ない」
「問題がない方は、そういう顔色をしていません」
「君に言われたくはない」
「私は蜂蜜湯を飲みました」
「それで全て解決するなら、医者はいらない」
淡々とした返答に、思わず小さく笑いそうになる。
けれど、彼の手袋をはめた左手が膝の上で固く握られていることに気づいた。
先代公爵の遺言。
孤児院支援金。
クラウス商会。
死者の名で受領された物資。
真実に近づくほど、彼の呪いは反応する。
「無理をなさっているなら」
「君にだけは言われたくない」
「……それは否定できません」
少し悔しい。
レオンハルト様は帳簿へ視線を落とした。
「孤児院への支援は、父の時代から続いていた。冬前のパンと小麦、薬、毛布。春には靴。夏には薬草茶。細かな支出だが、切らしてはならないものだった」
「大切にされていたのですね」
「ああ」
短い返事。
その奥に、悔しさが滲んでいた。
「私は当主になってから、同じように支援を続けたつもりだった。書類上は、滞りなく出している。だが礼状が減り、院長からの面会願いも途絶えた」
「確認はされたのですか」
「何度も。だが、クラウス商会も教会も『問題なく届いている』と答えた。孤児院からの礼状も届いた。院長の署名もあった」
「その礼状は」
「屋敷に戻ったら見せる」
私は頷いた。
礼状。
受領証。
名簿。
そのどれかに、必ず嘘の痕跡がある。
馬車はやがて、低い石塀に囲まれた古い建物の前で止まった。
孤児院。
門は錆びていて、庭の木々は手入れが行き届いていない。
窓には薄い布がかけられているが、いくつかは破れたまま。壁には風雨にさらされた跡が残っている。
帳簿上、ここには十分な支援物資が届いているはずだった。
冬支度の銀貨二百枚。
パン。
小麦。
薬草茶。
毛布。
けれど、目の前の建物は寒々しく、豊かな支援を受けている場所には見えなかった。
馬車を降りた瞬間、胸が重くなる。
玄関の扉が開き、一人の女性が出てきた。
四十代ほどだろうか。質素な修道服に、疲れた顔。けれど背筋はまっすぐ伸びている。
彼女はレオンハルト様を見ると、一瞬だけ表情を硬くした。
「ヴァイス公爵様」
「突然の訪問を詫びる、エレナ院長」
「……いえ。公爵様がこのような場所へお越しになるとは、思っておりませんでした」
言葉は礼儀正しい。
けれど、そこには明らかな棘があった。
レオンハルト様は、その棘を避けなかった。
「確認したいことがある」
「支援金のことでしょうか」
院長の声が冷えた。
「でしたら、もう結構です。何度お願いしても、帳簿上は支払済みの一点張りでした。子どもたちに食べさせるパンがないと訴えても、教会からは『公爵家に感謝しなさい』と言われました」
私は息を呑んだ。
レオンハルト様の横顔は変わらない。
けれど、左手がまた固く握られている。
「パンが、ないのですか」
私が尋ねると、院長は初めて私を見た。
「あなたは?」
「セラフィナと申します。ヴァイス公爵家の臨時文書監査人です」
「文書監査人……」
院長の目に、疲れた警戒が浮かぶ。
「また書類ですか。書類なら、いくらでもあります。届いていない物資を、受け取ったことにされた書類が」
その声には、怒りよりも諦めがあった。
何度訴えても、書類で黙らされてきた人の声。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「見せてください」
「何をですか」
「その書類を。そして、実際に届いていないものを」
院長は私をしばらく見つめた。
たぶん、信じるかどうか迷っている。
私は白手袋を胸の前で重ね、頭を下げた。
「私は、封蝋と書類に残った嘘を読む職能を持っています。信じていただけないかもしれません。ですが、死者の名で受け取られたことになっている支援物資の控えを、すでに見つけています」
院長の顔色が変わった。
「死者の名で……?」
「はい。受領者欄に、亡くなった方の名前がありました」
院長は口元を押さえた。
そして、苦しそうに目を伏せる。
「中へ」
案内された孤児院の食堂は、ひどく寒かった。
暖炉には火が入っているが、薪は少ない。
長い木の机には、薄いスープの入った器が並んでいた。パンは小さく割られ、一人分は指二本ほどしかない。
子どもたちは、私たちを見ると一斉に黙った。
痩せた頬。
大きすぎる服。
不安そうな目。
私は言葉を失った。
帳簿の数字では分からない現実が、そこにあった。
「帳簿上では、先週パンと小麦が納入されているはずです」
院長が静かに言った。
「ですが実際に届いたのは、黒ずんだ小麦袋が一つだけでした。半分は虫が湧いていて、とても子どもたちに食べさせられませんでした」
「薬草茶は」
「届いていません。施療院と分けるはずの薬草も、ここ半年で三度しか来ていません」
「毛布は」
「去年のものを繕って使っています」
レオンハルト様は何も言わない。
ただ、食堂の子どもたちを見ていた。
冷徹公爵。
感情のない男。
そんな噂を思い出す。
けれど今、彼の横顔には、痛みを押し殺したような影があった。
その時、小さな女の子が院長の袖を引いた。
「院長先生。今日のパン、もうないの?」
院長の表情が凍る。
「ごめんなさいね。夜の分に残しておかないと」
女の子は何も言わず、こくりと頷いた。
聞き分けのいい子どもだった。
聞き分けがよくならざるを得なかった子どもだった。
レオンハルト様が、低く言った。
「オルデン」
「はい」
「馬車に積んできた食料を全て降ろせ。屋敷へ伝令を出し、今日中に追加の小麦、パン、干し肉、薬草茶、毛布を運ばせろ。倉庫から直接出す。商会は通すな」
「直ちに」
院長が目を見開いた。
「公爵様……?」
「遅くなった」
レオンハルト様は、深く頭を下げた。
公爵が、孤児院の食堂で。
子どもたちと院長の前で。
「私の名で出したはずの支援が届いていなかった。気づくのが遅れた。すまない」
食堂が静まり返った。
院長は驚いたように彼を見つめている。
子どもたちも、何が起きたのか分からない顔をしていた。
私は胸が締めつけられた。
彼は言い訳をしなかった。
商会のせいだとも、教会のせいだとも、書類が偽造されていたとも言わなかった。
ただ、自分の名で届くはずだったものが届かなかったことを、謝った。
冷徹公爵。
それは、感情がないからではない。
たぶん、感情を出してしまえば崩れてしまうほど、背負っているからだ。
ほどなくして、馬車から運ばれたパンと干し肉、蜂蜜、薬草茶が食堂に並べられた。
子どもたちの目が、ぱっと明るくなる。
「今日は、食べていいの?」
先ほどの女の子が院長に聞いた。
院長は涙をこらえるように微笑んだ。
「ええ。温かいうちにいただきましょう」
小さな歓声が上がった。
パンが配られる。
スープに干し肉が足される。
薬草茶の湯気が立つ。
それは、大きな奇跡ではない。
でも、今日ここにいる子どもたちにとっては、確かな救いだった。
私はその光景を見ながら、指先を握った。
このパンは、本当ならもっと前に届いているはずだった。
誰かが書類の上で奪ったせいで、子どもたちは薄いスープで耐えていた。
許せない。
静かに、そう思った。
「セラフィナ」
レオンハルト様が私を呼んだ。
私は頷く。
「書類を確認します」
院長に案内された小さな執務室には、古い受領簿と礼状の控えが保管されていた。
院長は棚から一冊の帳面を取り出す。
「これが、こちらで実際に受け取った物資の記録です」
私は帳面を開いた。
日付、品目、数量、状態。
丁寧な字だった。
そこには、帳簿上の納入記録とはまるで違う現実が書かれていた。
パン二十籠のはずが、三籠。
小麦十袋のはずが、一袋。
毛布三十枚のはずが、なし。
薬草茶五箱のはずが、なし。
「この記録は、院長先生が?」
「はい。届いたものと届かなかったものは、すべて書いています。ですが、教会へ出した抗議文は返されました。正式な受領印がある以上、孤児院側の管理不備だと」
「受領印は、どなたが押していますか」
「それが……」
院長は別の封筒を取り出した。
「こちらには、確かに私の名で受領したことになっている控えがあります。でも、この封蝋は私のものではありません」
私は封筒を受け取った。
封蝋は薄い茶色。
孤児院の簡素な印。
けれど、触れる前から違和感があった。
レオンハルト様が横から言う。
「無理はするな」
「一つだけです」
「一つだけ、が増えていく」
「今回は本当に一つです」
彼は疑わしそうに見たが、止めなかった。
私は封蝋に触れた。
冷たい。
けれど、薄い。
これは本人の強い意志が込められた封ではない。
誰かが印だけを借り、形式として押したもの。
流れ込んできた感情は、院長のものではなかった。
面倒だ。
早く済ませろ。
死んだ者の名で構わない。
教会印を押せば通る。
クラウスへ回せ。
私は手を離した。
「院長先生の封ではありません」
院長の目が揺れた。
「やはり……」
「印の形だけを使われています。封じた人物は別です。そして、この封蝋には『死んだ者の名で構わない』という感情が残っていました」
レオンハルト様の目が鋭くなる。
「死者名義の受領か」
「はい。受領簿を見せてください。亡くなった方の名前と、帳簿上の受領者を照合します」
院長が棚から古い名簿を取り出した。
孤児院にいた子どもたち、職員、退所者、死亡者の記録。
私は慎重に頁をめくる。
そして、すぐに見つけた。
受領証にあった名前。
マルタ・ベル。
五年前に病で死亡。
その名で、先月のパンと毛布を受け取ったことになっている。
さらに、もう一人。
エド。
三年前に死亡。
薬草茶を受領済み。
さらに。
さらに。
死者の名が、支援物資の受領者欄に何度も現れる。
私は吐き気をこらえた。
死んだ子どもたちの名前を使って、パンを盗んでいる。
薬を盗んでいる。
毛布を盗んでいる。
誰かが、子どもたちの生と死を、帳簿の数字に変えて食い物にしている。
「……許せません」
気づけば、声が震えていた。
レオンハルト様が私を見る。
院長も。
私は名簿に手を置き、深く息を吸った。
「この名簿、証拠として保全します。写しを作り、原本は公爵家の封で保護してください。教会印のある受領証もすべて集めます」
「できますか」
院長が尋ねる。
「できます。いえ、必ずやります」
その時、執務室の扉の向こうで、小さな声がした。
「公爵様は、僕たちを見捨てたんじゃないの?」
見ると、食堂にいた少年が扉の隙間からこちらを覗いていた。
院長が慌てて止めようとする。
けれどレオンハルト様が、手で制した。
少年は痩せていた。
でも、その目にはまっすぐな怒りがあった。
「みんな、そう言ってた。公爵様は怖い人だから、孤児院なんかどうでもいいんだって」
レオンハルト様は、少年の前に膝をついた。
公爵が、子どもと同じ目線になる。
「そう思わせたなら、私の責任だ」
「本当は違うの?」
「違うと言うだけでは足りない。だから、これから届くようにする」
「また、書類だけ?」
「いや。私の倉庫から直接運ばせる。君たちが食べるところまで、確認する」
少年はじっとレオンハルト様を見た。
「今日のパンは、おいしかった」
「そうか」
「明日もある?」
「ああ」
レオンハルト様は迷わず答えた。
「明日も、その次もだ」
少年は少しだけ唇を震わせた。
そして、小さく頷いて走っていった。
院長は涙を拭っている。
私は、レオンハルト様の背中を見つめた。
この人は、不器用だ。
愛想はない。
言葉も足りない。
でも、守ろうとしている。
たぶんずっと、一人で。
「セラフィナ」
彼が立ち上がり、こちらを見る。
「この場で分かることは」
「死者名義の受領が複数あります。教会印とクラウス商会印が同時に使われています。孤児院側の原本記録と、公爵家本帳の納入記録が一致していません」
「つまり」
「クラウス商会だけではできません。教会の管理者が関わっています」
院長が青ざめた。
「まさか、ベルナール司祭が……?」
「その方が、支援金管理を?」
「はい。孤児院と施療院への支援物資は、教会を通じて確認される仕組みです」
ベルナール司祭。
新しい敵の名。
私はその名を心に刻んだ。
その時、院長が思い出したように棚の奥を探り始めた。
「そういえば、一通だけ、おかしな手紙があります」
「おかしな手紙?」
「差出人不明です。ひと月ほど前、孤児院の裏口に置かれていました。怖くて開けられずに保管していました」
差し出された封筒は、古く、灰色だった。
封蝋は黒に近い赤。
印はない。
けれど触れる前から、胸の奥がざわつく。
レオンハルト様が低く言う。
「今日はもう読むな」
「ですが」
「顔色が悪い」
「一瞬だけ」
「却下だ」
きっぱりと言われた。
私は封筒を見つめる。
確かに、指先はすでに冷えている。
けれど、その封蝋からは、今までとは違う感情が漏れていた。
敵意ではない。
恐怖。
懺悔。
そして、誰かを守ろうとする必死な願い。
「レオンハルト様。この封筒は、リックさんに関係しているかもしれません」
彼の表情が変わる。
私は続けた。
「封蝋に、ノアさんの手紙と似た感情があります。兄を守るような……いえ、誰か年下の子を守る感情です」
レオンハルト様はしばらく私を見ていた。
そして、静かに言う。
「開封だけだ。読むのは屋敷に戻ってからにしろ」
「はい」
「封蝋には触れない」
「……はい」
少しだけ間が空いたせいで、彼の目が細くなる。
「セラフィナ」
「触れません」
私は封蝋に触れないよう、封筒の端を小刀で開けた。
中には、一枚の紙が入っている。
文字は乱れていた。
けれど、最初の一文だけで、息が止まった。
『リックを助けたければ、北壁の書庫を開けてはならない』
レオンハルト様も、それを読んだ。
院長が息を呑む。
私は手紙の続きを見た。
『黒い帳簿の裏には、孤児院の名簿だけではない。公爵家の本当の相続人の名がある』
部屋の空気が、凍った。
ノア。
相続人。
先代公爵の封蝋が守ろうとしていた名。
私は紙を持つ手に力を込める。
その最後に、震える筆跡でこう書かれていた。
『ノアを、教会に渡すな』




