第10話 封蝋は死者の名を許さない
『ノアを、教会に渡すな』
その一文を読んだ瞬間、孤児院の執務室から音が消えた。
窓の外では、子どもたちが久しぶりの温かいパンにはしゃいでいる。食堂からは、スープをよそう音と、小さな笑い声が聞こえていた。
けれど私たちのいる部屋だけは、冬の地下室のように冷えていた。
リックを助けたければ、北壁の書庫を開けてはならない。
黒い帳簿の裏には、孤児院の名簿だけではない。
公爵家の本当の相続人の名がある。
ノアを、教会に渡すな。
その言葉の意味を、すぐに理解できたわけではない。
けれど、胸の奥が嫌な音を立てている。
先代公爵の封蝋が守ろうとしていた名前。
消えた帳簿係リックの弟。
十三歳の書庫番見習い。
ノア。
彼はただの使用人見習いではないのかもしれない。
「レオンハルト様」
私は手紙を差し出した。
「これは、すぐに保全すべき証拠です」
「ああ」
レオンハルト様は手紙に直接触れず、オルデン様へ視線を向けた。
「公爵家の保全封で封じろ。写しを二部作る。原本は私の管理下に置く」
「承知いたしました」
オルデン様が慎重に手紙を受け取る。
その顔も、いつになく険しい。
院長のエレナ様は、青ざめたまま椅子に手をついていた。
「ノアという子は……教会が探している子なのですか?」
「心当たりがあるのですか」
私が尋ねると、院長は震える息を吐いた。
「半月ほど前、ベルナール司祭が孤児院の古い名簿を見せろと言ってきました。退所した子どもや、亡くなった子どもの記録まで、すべてです」
「理由は」
「教会本部の監査だと。ですが、奇妙でした。司祭は名簿そのものより、赤子の頃に預けられた子の記録ばかり探していたのです」
「赤子の頃に……」
ノアのことだろうか。
でも、ノアはリックの弟のはずだ。
いや、血の繋がった弟とは、まだ誰も証明していない。
私が考え込んだ時、レオンハルト様が静かに言った。
「相続の話は後だ。今ここで片づけるべきものがある」
その声には、冷たい怒りがあった。
彼の視線の先には、机の上に並べられた受領証、名簿、孤児院の実記録がある。
死者の名で受け取られたパン。
存在しない納品。
子どもたちから奪われた毛布と薬。
まず暴くべきは、目の前の横領だ。
私は頷いた。
「はい。死者名義の受領記録を照合します」
院長がすぐに名簿を開いた。
私は孤児院の実記録と、公爵家側から持参した受領証を並べる。
マルタ・ベル。
五年前死亡。
先月、パン二十籠を受領したことになっている。
エド・ラウ。
三年前死亡。
薬草茶五箱を受領したことになっている。
リナ・フォース。
二年前死亡。
毛布三十枚を受領したことになっている。
ページをめくるたび、胸の奥が重くなる。
死者の名前を使うだけでも許しがたい。
それが子どもたちの名なら、なおさらだ。
「これだけで、八件」
私は記録を押さえながら言った。
「すべて死亡者名義です。しかも品目は食料、薬、毛布に集中しています」
「換金しやすいものか」
レオンハルト様が低く言う。
「はい。食料は市場へ流せます。薬草茶や毛布も、冬前なら高く売れます」
院長が唇を震わせた。
「その間、子どもたちは……」
言葉は最後まで続かなかった。
私は何も言えなかった。
その時、孤児院の玄関側が騒がしくなった。
怒鳴り声。
馬車の車輪の音。
複数の足音。
院長が顔を強張らせる。
「ベルナール司祭です」
レオンハルト様の目が氷のように冷えた。
「ちょうどいい」
扉の向こうから、尊大な男の声が響く。
「エレナ院長! 公爵家の馬車が来ているとはどういうことです。教会を通さず勝手な接触は困りますな」
執務室の扉が開き、丸い腹をした中年の司祭が入ってきた。
白い司祭服には金糸の刺繍。指にはいくつもの指輪。孤児院の質素な空気から、ひどく浮いている。
彼の後ろには、クラウス商会の使いと思われる男が二人。
司祭はレオンハルト様を見るなり、表情を作った。
「これはこれは、ヴァイス公爵様。事前にご連絡いただければ、お迎えの準備をいたしましたものを」
「不要だ」
レオンハルト様は一歩も動かず答えた。
「ベルナール司祭。孤児院への支援物資について確認する」
「支援物資? それでしたら、すべて滞りなく納入されております。記録もございます」
「その記録が偽造されている」
司祭の目が、一瞬だけ動いた。
けれどすぐに、彼は大げさに眉を下げる。
「なんと。公爵様は、この善良な教会を疑われるのですか? ああ、嘆かわしい。呪われた公爵家とはいえ、神の家にそのような――」
「神の名を使うな」
レオンハルト様の声が落ちた。
司祭が言葉を止める。
「死んだ子どもの名でパンを受け取った者が、神を語るな」
部屋の空気が凍った。
私は机の上の受領証を一枚手に取った。
「ベルナール司祭。こちらの受領証をご存じですね」
「さあ。教会では多くの書類を扱っておりますので」
「マルタ・ベル様。五年前に亡くなった孤児院の子です。その名で、先月パン二十籠が受領されています」
「単なる記載ミスでしょう」
「こちらはエド・ラウ様。三年前に死亡。薬草茶五箱を受領済み」
「古い名簿の転記違いでは?」
「リナ・フォース様。二年前に死亡。毛布三十枚を受領済み」
「ですから、手違いと」
「八件あります」
司祭の口元が引きつった。
「八件すべて、死亡者名義です。そしてすべてに、教会の確認印があります」
「確認印など、下級司祭でも押せます。私が把握しているとは限りません」
逃げ道を用意している。
この人は、最初から責任を下へ押しつけるつもりだ。
私は静かに白手袋を整えた。
「では、封蝋を確認します」
司祭の顔色が変わった。
「封蝋?」
「はい。この受領証に押された教会印です」
「触れる必要はありません! 神聖な教会印を、得体の知れない令嬢が――」
「得体の知れない令嬢ではない」
レオンハルト様が遮った。
「私が正式に招いた文書監査人だ」
司祭がレオンハルト様を見た。
それから私を見て、唇を歪める。
「ああ、噂の。婚約破棄された紙くず令嬢ですか」
部屋の温度が、さらに下がった気がした。
レオンハルト様の目が、完全に冷える。
けれど、私は先に口を開いた。
「はい。紙に残ったものを読むのが仕事です」
私は受領証の封蝋に指を添えた。
冷たい。
けれど、今回は逃げない。
死者の名前で押された封。
その奥に残っていたのは、侮りと欲だった。
どうせ分からない。
死んだ子の名なら、誰も取りに来ない。
公爵家は呪いで動けない。
院長は黙らせればいい。
クラウスへ半分。
教会へ三割。
残りは、王都へ。
私は指を離した。
吐き気がした。
けれど、声は震えなかった。
「この封蝋を押した時、あなたはマルタ様が亡くなっていることを知っていました」
司祭の頬が引きつる。
「妄言です」
「『死んだ子の名なら、誰も取りに来ない』。そう思いながら押しています」
「黙りなさい!」
「クラウス商会へ半分。教会へ三割。残りは王都へ」
司祭の顔から血の気が引いた。
クラウス商会の使いの男たちも、明らかに動揺している。
「証拠にならん! その女が勝手に言っているだけだ!」
「そうですね」
私は頷いた。
「ですから、封蝋読みだけに頼るつもりはありません」
机の上に、孤児院の実記録を広げる。
「孤児院側の受領簿には、該当日の納品がありません。院長の抗議文控えも残っています。さらに、公爵家の倉庫出納記録では、銀貨二百枚は未出庫。つまり、書類上だけで支援が動いたことにされています」
オルデン様が続ける。
「加えて、クラウス商会の受領控えは温め直された封蝋で押印されております。公爵家内通者ダリオが、すでに商会から指示を受けたと証言しました」
ベルナール司祭が一歩後ずさる。
「ダリオが……?」
その名を知っている。
彼自身が、それを証明してしまった。
レオンハルト様が静かに言った。
「拘束しろ」
護衛が動いた。
司祭が叫ぶ。
「私は教会の司祭ですぞ! 公爵家といえど、教会の許可なく――」
「ここはヴァイス公爵領だ。領民への支援金横領、死亡者名義の偽造受領、教会印の不正使用。十分だ」
「誤解です! 私はただ確認印を――」
「続きは審問で聞く」
護衛が司祭の腕を取る。
クラウス商会の使い二人も逃げようとしたが、すでに外で護衛に押さえられていた。
そのうちの一人が、恐怖で口を滑らせる。
「司祭様がやれと言ったんだ! 俺たちは運んだだけだ!」
「どこへ」
レオンハルト様が問う。
「王都の倉庫だ! クラウス商会の第三倉庫! 毛布も薬草茶も、そこで売り直して――」
「黙れ!」
司祭が怒鳴る。
けれどもう遅い。
孤児院の廊下には、院長だけでなく、年長の子どもたちも集まっていた。
彼らは、司祭が連れていかれる姿を見ている。
自分たちのパンを奪った男。
死んだ仲間の名前を使った男。
その男が、今ようやく捕まった。
小さな男の子が、ぽつりと言った。
「マルタ姉ちゃんの名前、使ったの?」
司祭は答えなかった。
答えられるはずがなかった。
男の子の目に涙が浮かぶ。
「マルタ姉ちゃん、優しかったのに」
その一言が、どんな断罪の言葉より重かった。
司祭は護衛に連れられ、外へ出される。
その背中に向かって、誰も罵声を浴びせなかった。
ただ、沈黙していた。
死者の名を踏みにじられた人々の沈黙。
私は胸の前で手を握った。
「マルタ様たちの名は、必ず記録から正します」
院長が私を見る。
「できますか」
「はい。死亡者名義の受領はすべて無効化します。奪われた支援金と物資は、クラウス商会と教会から回収請求できます」
レオンハルト様が頷く。
「公爵家として正式に請求する。今日中に、孤児院への直接支援体制へ切り替える」
「ありがとうございます……」
院長の声が震えた。
食堂では、子どもたちがまだパンを食べている。
温かいスープに干し肉が入り、薬草茶の香りが廊下まで届いていた。
大きな悪は、まだ残っている。
クラウス商会。
王宮文官。
改ざんされた遺言。
ノアの名。
でも今日、少なくともこの孤児院には、パンが届いた。
死者の名で奪われたものが、少しだけ取り戻された。
私はそれを、胸に刻んだ。
帰り際、先ほどの少年が私の前に立った。
「お姉ちゃんが、封蝋を読んだの?」
「はい」
「マルタ姉ちゃん、怒ってた?」
私は少し考えた。
封蝋から流れてきたのは、司祭の欲だった。
マルタという子自身の声ではない。
けれど、私は膝を折って少年と目を合わせた。
「マルタさんの名前は、もう悪いことには使わせません」
少年は唇を結んだ。
それから、小さく頷いた。
「ありがとう」
その一言で、指先の痛みが少しだけ薄れた気がした。
馬車に戻ると、私はようやく息を吐いた。
レオンハルト様が、無言で蜂蜜湯の入った小瓶を差し出してくる。
「飲め」
「用意していたのですか」
「君は一つだけと言って三つ読む」
「今日は一つです」
「封蝋は一つだが、感情は深く読んだ」
「……分かるのですか」
「顔色を見ればな」
私は素直に小瓶を受け取った。
甘い蜂蜜湯が喉を通る。
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外で、孤児院の子どもたちが手を振っていた。
レオンハルト様はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。
「レオンハルト様」
「何だ」
「今日のことは、あなたが謝るだけで終わらせてはいけません」
「分かっている」
「支援の経路を変えましょう。商会と教会を通すのではなく、公爵家から直接孤児院と施療院へ。受領記録は二重ではなく三重にして、現地、屋敷、第三者監査で保管します」
「第三者監査は誰がする」
「私が、最初の仕組みを作ります。その後は信頼できる書記官を育てるべきです」
「君は、屋敷を出ていく前提で話すのだな」
低い声だった。
私は少しだけ言葉に詰まる。
「契約ですので」
「そうだったな」
彼は窓の外へ視線を戻した。
なぜか、その横顔が少しだけ不機嫌に見えた。
馬車が公爵邸へ戻る頃には、空に夕暮れの光が差していた。
屋敷に着くなり、オルデン様が駆け寄ってくる。
「旦那様、セラフィナ様。王都から急報です」
「何だ」
「王宮文書局に確認していた件ですが……先代公爵様の王宮保管遺言に、昨夜、照会記録が出ております」
昨夜。
私が公爵家へ来た夜。
襲撃を受けた夜。
レオンハルト様の目が鋭くなる。
「誰が照会した」
「担当文官、イザーク・メルヴィンの名で」
先代公爵の封蝋に残っていた名前。
王宮文官イザークは、遺言を歪めた。
背筋が冷えた。
オルデン様はさらに続ける。
「それだけではありません。王宮保管封の状態欄に、本日付で追記があります」
「何と」
「封蝋劣化のため、再封手続き予定、と」
私は息を呑んだ。
再封。
それは、古い封蝋を一度剥がし、新しい封を押し直す手続き。
形式上は保存措置。
けれど今行われれば、本物の痕跡が消える。
「レオンハルト様」
私は震える声を抑えた。
「王宮保管の遺言も、触られています」
その瞬間、持ち帰った孤児院の受領証の封蝋が、鞄の中で小さく割れる音を立てた。




