第11話 冷たい雨と公爵の外套
鞄の中で、封蝋が割れる音がした。
小さな音だった。
けれど私には、硝子の杯が床に落ちたように大きく聞こえた。
「セラフィナ」
レオンハルト様の声が鋭くなる。
私は返事をするより先に、鞄を開いた。
中に入れていた孤児院の受領証。
死者の名でパンと毛布を受け取ったことにされていた、あの偽造書類。
その封蝋の端に、細い亀裂が走っていた。
自然に割れたのではない。
蝋の内側から、何かに押し潰されたような割れ方だった。
「封蝋が……壊されかけています」
指先が、急に冷えた。
触れていないのに分かる。
これは、書類そのものを壊そうとしているのではない。
書類に残った痕跡を消そうとしている。
孤児院の受領証。
教会印。
クラウス商会。
死者名義の横領。
そして、王宮保管遺言の再封手続き。
離れているはずの二つの書類が、同じ力で繋がっている。
「触るな」
レオンハルト様が私の手首を掴んだ。
強い声だった。
けれど私は、割れた封蝋から目を離せなかった。
「今なら、痕跡が読めます」
「触るなと言った」
「でも、消えてしまいます」
「君が壊れる方が先だ」
その言葉に、息が止まった。
怒っているのだと思った。
けれど見上げたレオンハルト様の顔には、怒りよりも焦りがあった。
氷青の瞳が、私の指先を見ている。
昨日から何度も封蝋を読み、赤い痕が残った指。
自分ではまだ大丈夫だと思っていた。
でも、馬車を降りる時から足元が少しふらついていたことを、私は知っていた。
「……少しだけです」
「駄目だ」
「レオンハルト様」
「駄目だ、セラフィナ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が妙に揺れた。
厳しい言葉なのに、突き放されている気がしない。
むしろ、引き戻されている。
私は唇を噛み、手を止めた。
オルデン様がすぐに保全箱を用意する。
封蝋に触れないよう、受領証を薄い硝子板の間に挟み、公爵家の仮封で封じる。
「これで、しばらくは持ちます」
オルデン様が言った。
「ですが、王宮保管封で再封手続きが始まれば、こちらの痕跡もさらに崩れる可能性がございます」
「なぜ、孤児院の受領証と王宮保管遺言が繋がるのですか」
私が尋ねると、オルデン様は苦い顔をした。
「同じ偽造陣を使っているのかもしれません。教会印、商会印、王宮保管封。それぞれの封を別々に偽造したのではなく、一つの術式で管理している可能性があります」
「つまり、王宮側が封を消そうとすれば、関連する偽造書類の痕跡も消える」
「はい」
それは、敵が証拠隠滅に入ったということだ。
王宮保管遺言を再封する。
その名目で、本物の封蝋を剥がす。
同時に、教会や商会に残る不正の痕跡も薄める。
なんて用意周到な。
なんて、書類を馬鹿にしたやり方だろう。
「すぐに王宮へ異議申立てを出す」
レオンハルト様が言った。
「オルデン。封蝋保全異議申立書を作れ。王宮保管遺言の再封手続きを停止させる」
「承知いたしました。ただ、王宮文書局が素直に止めるかどうか」
「止めさせる」
冷たい声だった。
けれど私は首を振った。
「ただの異議申立てでは弱いです。相手はおそらく、形式上の保存措置として再封するつもりです。こちらが感情的に止めても、手続き不備として流されます」
「では、どうする」
「再封禁止ではなく、第三者立会い要求を出してください」
レオンハルト様がこちらを見る。
私は頭の中で、協会で整理させられていた古い失敗例を思い出す。
王宮保管封の再封。
破損。
劣化。
異議。
立会い。
手続き停止。
「封蝋の劣化を理由に再封する場合、利害関係者が異議を出せば、再封前に立会い確認を要求できます。公爵家当主、遺言執行人、王宮文書局、教会証人、この四者の立会いが必要です」
「君はまだ正式な遺言執行人ではない」
「はい。ですから、臨時文書監査人としてではなく、先代公爵の開封条件に記された指定確認者として私の名を入れてください」
「それは通るのか」
「先代公爵様が私を名指しした覚書があります。正式な遺言本文ではなくても、保全異議には使えます」
オルデン様が目を見開いた。
「なるほど。再封そのものは止められなくとも、立会いなしでは進められなくなる」
「はい。時間を稼げます」
時間。
今、必要なのはそれだった。
王宮保管封が完全に消される前に、北壁の書庫を開ける。
黒い帳簿を探す。
ノアの名の真実を確かめる。
そして、レオンハルト様を縛る呪いの根を見つける。
「書けるか」
レオンハルト様が問う。
「はい」
そう答えて立ち上がった瞬間、視界が揺れた。
床が遠くなる。
いえ、違う。
私の体が傾いている。
「セラフィナ!」
倒れる前に、強い腕に支えられた。
レオンハルト様の外套が頬に触れる。
冷たい雨の匂いと、微かな墨の香りがした。
「申し訳、ありません……」
「謝るな。しゃべるな」
「でも、異議申立書を」
「私が書く。君は口で言え」
「文字の配置が……重要です」
「では、君は座って指示しろ。立つな」
有無を言わせない声。
私は書斎の長椅子に座らされ、マーサさんに毛布をかけられ、蜂蜜湯を持たされた。
まるで、昨日から同じことを繰り返している。
でも、今度は反論できなかった。
体が、本当に冷えていた。
指先だけではない。
足先も、背中も、胸の奥までも。
封蝋読みの代償が、遅れて押し寄せてきている。
「セラフィナ様。全部飲んでくださいませ」
マーサさんが厳しく言う。
「はい……」
「返事だけではなく、飲むのです」
「はい」
温かい蜂蜜湯を口にすると、喉の奥がじんわり緩んだ。
その間に、レオンハルト様は机につき、羽根ペンを取った。
「言え」
「表題は、王宮保管封再封手続きに関する立会い要求および封蝋保全異議申立書、です」
「長いな」
「長い方が、王宮文官は嫌がります」
レオンハルト様が一瞬だけこちらを見た。
ほんのわずかに、口元が動く。
「君は王宮文官に恨みでもあるのか」
「書類を軽んじる方は苦手です」
「だろうな」
そのやり取りに、マーサさんが小さく笑った気配がした。
私は毛布を握り、文面を続けた。
先代ヴァイス公爵の家門封に疑義があること。
指定確認者としてセラフィナ・ロウエルの名が覚書に残されていること。
孤児院支援物資の受領証に、同系列の封蝋劣化が発生していること。
関係書類の痕跡保全のため、再封手続きは公爵家当主および指定確認者立会いのもとで行うべきこと。
教会印および商会印に偽造疑義があるため、単独再封は証拠破壊に当たる可能性があること。
レオンハルト様の筆は速かった。
文字は鋭く、整っている。
感情を表に出さない人らしい、隙のない文字だった。
でも、その一行一行には、怒りが込められている。
孤児たちのパンを奪った者。
死者の名を使った者。
父の遺言を歪めた者。
そして、彼を呪いに縛った者。
そのすべてに向けた、静かな怒り。
「最後に、公爵家家門封を」
私が言うと、レオンハルト様は白銀の狼の封印具を取り出した。
溶かした赤い蝋に、印が押される。
白銀の狼。
それは昨夜見た遺言書の封蝋と同じ紋章なのに、まるで違うものに見えた。
これは偽りではない。
誰かを黙らせる封ではなく、真実を守るための封だ。
「セラフィナ」
「はい」
「君の封も必要か」
「本来なら、指定確認者の仮封があると強いです」
「できるか」
「……はい」
レオンハルト様の眉が寄る。
「無理なら」
「封を押すだけです。読みません」
私は鞄から、母の遺した小さな封印具を取り出した。
蔦と小鳥の印。
赤い蝋の横に、薄い琥珀色の蝋を垂らす。
手が少し震えた。
その手を、レオンハルト様が横から支える。
「急がなくていい」
黒い手袋越しの手。
触れているのは指先だけなのに、なぜか胸の奥まで熱が戻る気がした。
「ありがとうございます」
「礼は後でいい。今は押せ」
「はい」
二つ目の封が押される。
狼と、小鳥。
公爵家の封と、紙くず令嬢と呼ばれた私の封。
並んだ二つの封蝋を見て、私は少しだけ不思議な気持ちになった。
昨日まで、私の封など誰も必要としなかった。
でも今、この小さな封が、王宮の再封手続きを止める一手になるかもしれない。
「急使を出せ」
レオンハルト様が命じた。
「王宮文書局へ最短で届けろ。途中で止められた場合に備え、写しを二通、別経路で送る」
「承知いたしました」
オルデン様が文書を受け取り、足早に出ていく。
書斎に残された私は、ようやく大きく息を吐いた。
その瞬間、体から力が抜けた。
「セラフィナ様!」
マーサさんが慌てて支える。
レオンハルト様がすぐに近づいた。
「今日はここまでだ」
「でも、北壁の書庫が」
「ここまでだ」
低い声。
逆らえない。
私は毛布の中で小さく頷いた。
「……はい」
「マーサ。客室へ」
「承知いたしました」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
少し恥ずかしくて、私は笑ってごまかそうとした。
「申し訳ありません。少し、足が」
言い終える前に、体がふわりと浮いた。
何が起きたのか分からず、私は固まった。
レオンハルト様が、私を抱き上げていた。
「れ、レオンハルト様」
「歩けないのだろう」
「歩けないほどでは」
「今、倒れかけた」
「ですが」
「黙って運ばれろ」
書斎の空気が止まった。
マーサさんが、なぜか満足げに目を細めている。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「重くありませんか」
「軽すぎる」
「そういう意味では」
「では、どういう意味だ」
「……何でもありません」
言い返せない。
レオンハルト様は本当にそのまま、私を客室まで運んだ。
廊下ですれ違う使用人たちが、驚いて頭を下げる。
昨日は私を疑っていた者たちも、今は何も言わない。
むしろ、気まずそうに目を逸らしている。
紙くず令嬢。
そう陰で笑っていた彼らに、私は公爵に抱き上げられて運ばれているところを見られている。
状況が奇妙すぎて、もうどう反応すればいいのか分からない。
客室に着くと、レオンハルト様は私を慎重に長椅子へ下ろした。
マーサさんがすぐに毛布を整え、薬湯を持ってくる。
「蜂蜜湯では足りません。今度は薬湯です」
「……やはり苦いのですか」
「よく効きます」
答えになっていない。
レオンハルト様が横で淡々と言う。
「心が折れる味だ」
「旦那様」
「事実だ」
私は思わず小さく笑ってしまった。
薬湯は、本当に苦かった。
でも不思議と、体の冷えは少しずつ和らいでいく。
マーサさんが部屋を整えるために少し離れると、レオンハルト様は窓辺に立った。
外では、また雨が降り始めていた。
細い雨粒が、硝子窓を静かに叩いている。
「すみません」
私は小さく言った。
「何に対してだ」
「ご迷惑をおかけして」
「迷惑なら、最初から雇わない」
「でも、私は倒れかけました」
「倒れかけるほど働いた」
彼は窓の外を見たまま言った。
「私は、君を使い潰すために契約したのではない」
胸が、静かに鳴った。
「……仕事道具だからですか」
いつものように軽く返すつもりだった。
けれど、声は思ったより弱かった。
レオンハルト様は、ゆっくりこちらを向いた。
「最初は、そうだった」
最初は。
その言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。
雨音だけが、部屋に満ちる。
レオンハルト様は少しだけ目を伏せた。
「今は、まだ言葉にするべきではないのだろうな」
「レオンハルト様?」
「休め」
それだけ言って、彼は私の肩にかかっていた毛布を直した。
黒い手袋の指が、私の手袋の上に一瞬だけ触れる。
白と黒。
ほんの短い接触。
それだけなのに、薬湯よりもずっと体が熱くなった気がした。
「君が眠るまで、ここにいる」
「そんな、そこまでしていただくわけには」
「倒れた文書監査人を放置する趣味はない」
「倒れてはいません」
「倒れる前に止めた」
また、淡々と。
私は反論を諦めた。
窓の外の雨音を聞きながら、長椅子にもたれる。
眠るつもりはなかった。
でも体は正直で、まぶたが重くなっていく。
最後に見えたのは、窓辺に立つレオンハルト様の横顔だった。
冷たく見えるのに、なぜか寂しそうな横顔。
私は眠りに落ちる寸前、先代公爵の封蝋に残っていた言葉を思い出した。
レオンハルトを一人にするな。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
どれほど時間が経ったのか。
次に目を覚ました時、部屋は薄暗かった。
雨はまだ降っている。
レオンハルト様は、約束通り窓辺にいた。
けれどその手には、オルデン様から届いたらしい一通の報告書が握られている。
彼の表情は、ひどく険しかった。
「……何か、ありましたか」
私が声を出すと、彼はすぐにこちらを見た。
「起きたのか」
「はい。少し眠ったら楽になりました」
「なら聞け」
彼は報告書を私の前に置いた。
王宮文書局への異議申立書は、無事に第一経路で発送された。
だが、その直後。
北壁の書庫の前に置いていた護衛から、報告が入った。
封鎖されていたはずの扉が、内側から開いていた。
そして扉の内側に、一枚の紙が貼られていたという。
私は報告書の最後の行を読んだ。
そこには、震えるような筆跡でこう書かれていた。
――黒い帳簿は、もうここにはない。




