第12話 病院の薬瓶に残った嘘
――黒い帳簿は、もうここにはない。
報告書の最後の一文を読んだ瞬間、眠気は完全に消えた。
雨音が窓を叩いている。
客室の暖炉は赤く燃えているのに、背筋だけが冷たかった。
「北壁の書庫は、封鎖されていたのではありませんか」
「ああ」
レオンハルト様の声は低い。
「鍵はオルデンが保管していた。扉の前には護衛も置いた。だが、内側から開いていた」
「内側から……」
その言葉が嫌だった。
誰かが外から鍵を使ったのではない。
中に、最初から誰かがいたかもしれない。
あるいは、書庫そのものに抜け道がある。
「今すぐ確認します」
私は毛布を外そうとした。
その瞬間、レオンハルト様の手が毛布の端を押さえた。
「君は動くな」
「ですが、黒い帳簿が」
「ない」
「だからこそ、残った痕跡を」
「君はさっき倒れかけた」
「倒れてはいません」
「その言い訳も聞き飽きた」
ぴしゃりと言われ、私は言葉に詰まった。
レオンハルト様は怒っているように見える。
けれど、目は怒りだけではなかった。
心配。
その言葉を当てはめるのは、少し自惚れかもしれない。
でも、彼の視線は私の顔色と指先を何度も確認している。
「私が確認に行く。君はここで休め」
「レオンハルト様が行けば、呪いが反応するかもしれません」
今度は彼が黙った。
私は毛布を握りしめる。
「先代公爵様は、あなた一人で見せるなと残していました。北壁の書庫は、おそらく遺言と呪いに直結しています。あなたが一人で行く方が危険です」
「ならばオルデンを行かせる」
「封蝋や書類の痕跡があっても、オルデン様では読めません」
「君を連れて行けば、また読むだろう」
「読みません」
「信用できない」
「見ます」
「もっと信用できない」
あまりに即答されて、私は一瞬だけ口を閉じた。
窓辺に立つレオンハルト様の外套には、まだ雨の湿り気が残っている。
彼も休んでいない。
それなのに、私だけ休めと言われても納得できなかった。
「では、条件をつけてください」
「条件?」
「封蝋に直接触れません。読まなければ判断できない時は、必ずレオンハルト様の許可を取ります。体調が悪化したら、その場で退きます」
「守れるのか」
「守ります」
レオンハルト様は長く私を見た。
その視線に、私は背筋を伸ばす。
やがて彼は、重く息を吐いた。
「マーサを呼ぶ。外套を着ろ。歩けなくなったら、今度は問答無用で運ぶ」
「……はい」
「不満そうだな」
「不満ではありません。ただ、廊下で使用人の方々に見られるのは少し」
「慣れろ」
「慣れる予定はありません」
レオンハルト様の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
けれど次の瞬間には、いつもの冷たい顔に戻っていた。
マーサさんに支度を整えられ、私は厚手の外套を羽織った。
指先には新しい白手袋。
痛みは引いているが、封蝋を読むにはまだ不安がある。
それでも、北壁の書庫へ向かわない選択はできなかった。
書庫の前には、護衛が二人立っていた。
彼らの顔には、明らかな動揺がある。
扉は開いていた。
古い木の扉。
そこから、冷えた紙と埃の匂いが流れてくる。
扉の内側には、報告通り一枚の紙が貼られていた。
黒い帳簿は、もうここにはない。
文字は震えている。
脅迫というより、警告に近い。
「誰が書いたと思う」
レオンハルト様が問う。
「敵が残したにしては、不自然です」
「なぜ」
「敵なら、黒い帳簿がないことをわざわざ教えません。こちらを焦らせる目的なら別ですが、この文字には恐怖が強すぎます」
「味方か」
「少なくとも、敵に従いきっている人の文字ではありません」
私は紙に触れず、文字の乱れを見た。
急いでいる。
見つかることを恐れている。
でも、こちらに伝えずにはいられなかった。
「リックさんの字では?」
オルデン様が持ってきた筆跡写しと見比べる。
似ていない。
リックの字は几帳面で、最後まで整っている。
この文字はもっと細く、怯えている。
「別人です」
私は視線を扉の中へ向けた。
北壁の書庫は、思っていたより狭かった。
高い本棚が壁を覆い、古い帳簿や契約書、先代公爵時代の記録が並んでいる。
中央には小さな机。
その上には埃が積もっていたが、一か所だけ丸く拭われている。
何かが置かれていた跡。
おそらく、黒い帳簿だ。
「ここにありました」
私は机を指した。
「読んだのか」と言われる前に続ける。
「埃の形です。最近まで厚い帳簿が置かれていたはずです」
レオンハルト様は何も言わず、机に近づいた。
私はその横で、床を見る。
黒い帳簿が持ち出されたなら、運んだ痕跡があるはずだ。
机から扉へ。
いいえ。
足跡は、扉ではなく本棚の奥へ続いている。
「レオンハルト様。こちらに」
本棚の一番奥。
北壁に接する古い棚の下に、床板の色が違う部分があった。
オルデン様が膝をつき、慎重に確認する。
「隠し戸ですな」
「開けられるか」
「少々お待ちを」
細い金具を差し込み、床板を持ち上げる。
ぎい、と鈍い音がして、床下に小さな空間が現れた。
だが、中は空だった。
黒い帳簿はない。
代わりに残っていたのは、割れた薬瓶の欠片と、薄い青色の紙片。
「薬瓶……?」
私はしゃがみ込みそうになり、レオンハルト様に視線だけで止められた。
仕方なく、オルデン様が硝子の欠片を拾い上げる。
瓶の口には、封蝋の残りが付着していた。
薄緑色の封蝋。
薬を封じるためのものだ。
「施療院の印です」
マーサさんが小さく言った。
「ヴァイス領施療院で使われる薬瓶の封蝋に似ております」
「施療院……」
孤児院と同じく、支援が届いていない場所。
薬草茶。
薬代。
粗悪薬。
帳簿上は納入済み。
でも、実際には?
私は青い紙片を見た。
そこには、わずかに文字が残っている。
薬草抽出液。
鎮痛用。
施療院納入分。
ただし、隅には黒い線でこう書かれていた。
――水で三倍に薄めること。
胸が悪くなった。
「薬を、薄めていたのですか」
私の声に、レオンハルト様の表情が消えた。
「オルデン」
「すぐに施療院へ確認を」
「私も行きます」
レオンハルト様がこちらを見る。
「君は」
「行きます」
今度は譲れなかった。
「孤児院のパンは、今日届けることができました。でも薬は違います。今、必要な人がいるかもしれません」
レオンハルト様の目が、少しだけ揺れた。
私は続ける。
「この薬瓶の封蝋に、嘘が残っているなら、早く確認しないといけません」
「触れないと言った」
「現地で必要なら、許可を取ります」
「……本当に、厄介だな」
「敵にとっては、ですよね」
「ああ」
彼は外套を翻した。
「敵にとってはな」
施療院は、孤児院からそう遠くない場所にあった。
本来なら公爵家の支援を受け、領民の治療にあたる施設だという。
けれど、そこもまた寒かった。
薬草の香りはする。
だが薄い。
清潔ではあるが、棚に並ぶ薬瓶の数は少なく、空瓶ばかりが目立つ。
医師長のハンスという老人が、私たちを迎えた。
彼はレオンハルト様を見るなり、深く頭を下げた。
「公爵様。ようやく、来てくださいましたか」
責める声ではなかった。
疲れ切った声だった。
「遅れた」
レオンハルト様は、また言い訳をしなかった。
ハンス医師長は首を振る。
「こちらからの請願書は、何度も教会と商会へ出しました。公爵家へ届いていなかったのですね」
「届いていない」
「そうでしょうな。届いていたなら、先代様も、あなた様も放っておかれるはずがない」
その言葉に、レオンハルト様の瞳がわずかに揺れた。
孤児院とは違う。
この医師長は、まだ彼を信じていた。
「薬を見せてください」
私は言った。
ハンス医師長は棚から一本の薬瓶を取り出した。
薄緑の封蝋。
瓶の中には、淡い茶色の液体が半分ほど入っている。
「鎮痛用の薬草抽出液です。ですが、効きが悪い。以前の三分の一ほどしか効果がありません」
「いつからですか」
「半年ほど前からです。納入元はクラウス商会。確認印は教会。書類上は最高等級の薬草となっています」
半年。
先代公爵の死後。
私は薬瓶を見つめた。
触れる前から、封蝋が薄く濁っているのが分かる。
レオンハルト様の視線を感じた。
「……許可を」
「一度だけだ」
「はい」
「深く読むな」
「分かっています」
私は薬瓶の封蝋に、そっと指先を触れた。
薄い。
軽い。
そして、冷たい嘘。
濃度を落とせ。
色だけ合わせろ。
香りは薬草茶でごまかせる。
本物は王都へ回す。
施療院には薄めたもので十分。
貧しい領民は、薬の違いなど分からない。
胸の奥に怒りが走った。
次の瞬間、別の感情が流れ込む。
苦しい。
効かない。
でも高い薬だと言われた。
公爵様は、もう私たちを見捨てたのか。
これは、患者の感情だ。
薬瓶に触れた、誰かの弱った手。
その絶望まで、瓶の封蝋に染みている。
「もういい」
レオンハルト様の声で、私は手を離した。
指先が冷たい。
でも倒れない。
私は深く息を吸った。
「薄められています」
ハンス医師長が目を閉じた。
「やはり」
「本物の薬草抽出液は王都へ回され、ここには三倍に薄めたものが納入されています。香りだけ薬草茶で整えています」
レオンハルト様の声が低くなる。
「誰の指示だ」
「封蝋には名前までは残っていません。ただ、クラウス商会と教会確認印の感情があります。孤児院の受領証と同じ流れです」
「被害は」
ハンス医師長が苦い顔をした。
「命を落とした者もおります。薬が効けば助かったかもしれない者も」
部屋の空気が重くなる。
パンや毛布だけではない。
薬。
命。
横領は、数字の不正では終わらなかった。
私は唇を噛んだ。
その時、奥の病室から苦しそうな咳が聞こえた。
ハンス医師長が顔を上げる。
「失礼。熱の子が」
「子どもですか」
「孤児院から預かっている子です。薬が足りず、熱が下がりきらない」
私は思わずレオンハルト様を見た。
彼はすでにオルデン様へ命じていた。
「屋敷の薬庫を開けろ。医師を連れてこい。本物の薬草抽出液を全て施療院へ運べ。王都へ売られた薬の流通先も押さえる」
「承知いたしました」
「クラウス商会を通すな。公爵家の護衛が直接運ぶ」
「すぐに」
ハンス医師長が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、薬が届いてからでいい」
レオンハルト様はそう言い、病室の方を見た。
その目は冷たい。
けれど、その奥にある怒りは、孤児院で見た時よりさらに深かった。
私は棚に並ぶ薬瓶を確認していた。
その中に一本だけ、他と違うものがある。
封蝋の色は同じ薄緑。
でも、瓶底に小さな黒い蝋の粒が付いている。
北壁の書庫で見つけた薬瓶の欠片と同じ黒。
「この瓶は?」
ハンス医師長が覗き込む。
「それは、昨日届いたばかりのものです。リックという名の者を治療するために、と教会から」
「リック!?」
私は声を上げた。
レオンハルト様も即座にこちらを見る。
「今、リックと言いましたか」
「はい。ですが、本人はここにはおりません。教会の使いが、名前だけを出して薬を持ってきました。『もし同名の者が運び込まれたら使え』と。妙な話だと思い、保管していました」
私はその薬瓶を見つめた。
封蝋には、触れなくても分かるほど濁った悪意があった。
薬ではない。
これは、口封じのためのものだ。
「レオンハルト様」
「ああ」
「リックさんは、生きている可能性があります」
ハンス医師長が瓶を机に置く。
瓶の底に貼られた小さな紙片には、乱れた文字でこう書かれていた。
――北壁の帳簿を読んだ者に使え。
私の指先が冷えた。
レオンハルト様の声が、氷のように落ちる。
「リックを殺すための薬か」
その時、施療院の外で馬車の音がした。
窓の外に見えたのは、麦と天秤の紋章。
クラウス商会の馬車だった。
御者台に座る男が、施療院へ向かって叫ぶ。
「教会からの指示だ! 昨日届けた薬瓶を回収する!」
私は机の上の瓶を見た。
黒い蝋の粒が、かすかに震えている。
まるで、証拠が消される時を知っているかのように。




