第13話 老侍女マーサの夜食
「教会からの指示だ! 昨日届けた薬瓶を回収する!」
施療院の外から響いた声に、室内の空気が凍った。
机の上には、黒い蝋の粒が付いた薬瓶。
底に貼られた紙片には、こう書かれている。
――北壁の帳簿を読んだ者に使え。
リックさんを殺すための薬。
そう考えた瞬間、指先が冷えた。
けれど、今度は封蝋読みの代償ではない。
怒りだ。
「渡してはなりません」
私が言うより早く、レオンハルト様は窓の外へ視線を向けていた。
「ハンス医師長。その薬瓶は、施療院の記録上どう扱われている」
「教会からの預かり薬です。正式な納入記録はありません」
「つまり、存在しない薬だな」
「はい」
レオンハルト様は短く頷いた。
「ならば、今から存在させる」
彼はオルデン様へ視線を向けた。
「保全記録を作れ。発見場所、発見者、瓶の状態、貼付文書、封蝋の色、黒蝋の付着。すべて書く。ハンス医師長、証人署名を」
「承知いたしました」
「セラフィナ。君は瓶に触るな」
「……はい」
先に釘を刺された。
反論しかけたけれど、言葉を飲み込む。
ここで私が倒れれば、証拠の保全そのものが遅れる。
今必要なのは、読むことではなく、残すことだ。
書類として。
証拠として。
逃げ道を塞ぐために。
外では、商会の男が扉を叩いている。
「早くしろ! 教会の印がある薬だぞ! 勝手に保管すれば施療院ごと処罰される!」
ハンス医師長の肩がわずかに震えた。
長い間、こうして脅されてきたのだろう。
教会の名で。
商会の名で。
書類の名で。
私はそっと声をかけた。
「大丈夫です。今ここには、ヴァイス公爵家の正式な当主がいます」
ハンス医師長は、はっとしたようにレオンハルト様を見た。
レオンハルト様は表情を変えず、扉へ向かう。
護衛が扉を開けた瞬間、商会の男が勢いよく入ってきた。
「薬瓶を返してもらおうか。こちらは教会から正式に――」
言葉はそこで止まった。
室内にレオンハルト様がいることに、ようやく気づいたのだ。
「ヴァ、ヴァイス公爵様……」
「続けろ」
「は?」
「教会から正式に、何を命じられた」
男の喉が動く。
「い、いえ、その、昨日届けた薬に不備があった可能性がありまして、回収を」
「不備とは」
「それは……商会で確認を」
「ここで言え」
低い声。
それだけで、男の顔色が悪くなる。
背後のもう一人の商会員が、じりじりと後ずさった。
けれど護衛が扉を塞いでいる。
「そこの薬瓶は、公爵家の証拠保全下に置いた」
レオンハルト様は告げた。
「支援薬の横流し、粗悪薬の納入、殺害目的の毒物疑義。クラウス商会には説明してもらう」
「毒物など、滅相もない!」
「では、なぜ納入記録のない薬を回収に来た」
「そ、それは教会の指示で」
「ベルナール司祭は、すでに拘束した」
男の顔から、血の気が引いた。
その変化だけで十分だった。
彼は知らなかったのだ。
孤児院で司祭が捕まったことを。
つまり、回収命令はその前に出されていた。
証拠隠滅の段取りは、すでに組まれていたということ。
「オルデン」
「はい」
「この者たちも拘束しろ。馬車の積荷を確認する」
「承知いたしました」
商会員たちは抵抗しようとしたが、護衛に押さえられるとすぐに力を失った。
外に停められていた馬車からは、空の薬箱と、偽の回収記録が見つかった。
そこにはこう書かれていた。
施療院側の保管不備により薬瓶破損。
クラウス商会、善意により回収。
「善意、ですか」
私は思わず呟いた。
紙の上では、彼らはいつも善人になる。
孤児院にパンを届けたことにして。
病人に薬を届けたことにして。
死者の名に受領印を押して。
最後は、証拠を回収したことすら善意に変える。
「セラフィナ」
レオンハルト様が私を見た。
「怒るのはいいが、顔色を悪くするな」
「顔色は、自分では調整できません」
「では座れ」
「今は平気です」
「君の平気は信用しない」
その会話に、ハンス医師長が小さく目を瞬いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「公爵様が、そこまで人を気にされるとは」
レオンハルト様の表情が固まる。
「必要な人材だ」
「なるほど。必要な方ですか」
ハンス医師長の声には、どこか温かい含みがあった。
私はなぜか顔が熱くなり、慌てて薬瓶の保全記録へ視線を落とした。
保全記録には、ハンス医師長、オルデン様、レオンハルト様、そして私が署名した。
私はさらに、薬瓶の封蝋を公爵家の仮封で包み、上から自分の蔦と小鳥の封を小さく添えた。
触れて読まない。
けれど、守るために封じる。
封蝋読みの力は、暴くだけではない。
封じられた願いを、守ることもできる。
そう初めて思った。
施療院を出る頃には、夕暮れが近づいていた。
公爵家の薬庫から本物の薬草抽出液が届き、熱を出していた子どもにも正しい薬が与えられた。
ハンス医師長は、深く頭を下げた。
「これで、今夜は越せるでしょう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
まだ全ては解決していない。
けれど、今日救えた命がある。
それは確かだった。
帰りの馬車の中で、私は黙っていた。
疲れていたのだと思う。
窓の外には、雨上がりの湿った道が続いている。
孤児院。
施療院。
教会。
クラウス商会。
王宮文書局。
北壁の書庫。
黒い帳簿。
ノア。
リック。
頭の中で、書類と名前が何度も重なる。
「眠れ」
向かいから、レオンハルト様の声がした。
「眠っていません」
「眠そうな顔をしている」
「考えている顔です」
「君は考えながら倒れる」
「倒れません」
「信用しないと言った」
私は返す言葉を探したが、見つからなかった。
すると、レオンハルト様が自分の外套を外し、私の膝にかけた。
「冷える」
「レオンハルト様は」
「私はいい」
「よくありません」
「君よりはましだ」
淡々とした言い方なのに、外套は温かかった。
私はそれ以上言えなくなり、小さく礼を言う。
「ありがとうございます」
「寝ろ」
「命令ですか」
「契約上の休息指示だ」
「便利ですね、契約」
「君が作った」
それはそうだった。
思わず小さく笑うと、レオンハルト様は一瞬だけ目を細めた。
その表情を見たところで、私は眠気に負けた。
目を覚ましたのは、公爵邸へ戻ってからだった。
馬車の扉が開き、冷たい夜気が入ってくる。
外套をかけられたまま眠っていたことに気づき、私は慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません、眠ってしまって」
「休息指示は守ったな」
「……はい」
レオンハルト様は何も言わず、先に馬車を降りて手を差し出した。
黒い手袋の手。
私は少しだけ迷ってから、その手を取った。
玄関ホールには、マーサさんが待っていた。
「お帰りなさいませ。お二人とも、ひどいお顔です」
開口一番、それだった。
「マーサ」
レオンハルト様がわずかに眉を寄せる。
「事実でございます。旦那様もセラフィナ様も、仕事を止める方がいなければ倒れるまで続けるお顔です」
「私は倒れない」
「昔からそうおっしゃって倒れかけます」
レオンハルト様が黙った。
どうやら、マーサさんには勝てないらしい。
私は思わず目を伏せた。
笑ってはいけない。
でも少し笑ってしまった。
マーサさんは私を見て、にっこりと微笑んだ。
「セラフィナ様には、夜食をご用意しております」
「夜食、ですか」
「はい。温かい野菜のスープと、焼きたての小さなパン、それから蜂蜜入りの温かいミルクです」
その言葉を聞いた途端、急にお腹が空いた。
そういえば、昼からまともに食べていない。
孤児院でパンを配り、施療院で薬瓶を調べ、商会員を拘束し、馬車の中で眠ってしまった。
自分の食事のことなど、すっかり忘れていた。
「ありがとうございます」
「お礼は完食してからで結構です」
客室ではなく、小さな居間へ案内された。
そこは広すぎず、暖炉の火がよく届く部屋だった。
丸いテーブルに、湯気の立つスープとパンが並んでいる。
豪華な料理ではない。
けれど、野菜の甘い匂いと焼きたてのパンの香りが、冷え切った体に染みる。
「旦那様もお召し上がりください」
「私は」
「旦那様も、です」
マーサさんの声は穏やかだったが、逆らう余地はなかった。
レオンハルト様は少しだけ沈黙し、それから私の向かいに座った。
冷徹公爵が、老侍女に夜食を出されて黙って座る。
その光景がどこか不思議で、私はスプーンを持ったまま見つめてしまった。
「何だ」
「いえ。少し、意外で」
「私も食事はする」
「そういう意味ではありません」
マーサさんが、くすりと笑った。
「旦那様は昔から、お忙しいと食事を抜かれます。先代様によく叱られておいででした」
「マーサ」
「事実でございます」
レオンハルト様は諦めたようにスープを口にした。
私も一口飲む。
温かい。
ただそれだけで、胸が緩みそうになる。
孤児院の子どもたちが食べていたパンを思い出す。
施療院の子どもが薬を飲めたことを思い出す。
今日一日で、少しだけ救えたものがある。
そう思うと、目の奥が熱くなった。
「お口に合いませんでしたか」
マーサさんが心配そうに尋ねる。
「いえ、とても美味しいです」
「では、なぜ泣きそうなお顔を」
「……温かいものを、誰かに用意していただくのが久しぶりで」
言ってから、少しだけ後悔した。
重いことを言うつもりではなかった。
けれどマーサさんの表情は、悲しげに柔らかくなった。
「この屋敷では、働いた方には温かいものをお出しします」
それから、静かに付け加える。
「それが、先代様のお考えでした」
レオンハルト様の手が止まる。
マーサさんは暖炉の火を見つめながら続けた。
「先代様はよく、夜更けまで書庫にこもっておられました。帳簿や遺言や、領民からの手紙を広げて。旦那様もお若い頃は、その隣でお勉強を」
「昔の話だ」
レオンハルト様の声は低い。
けれど、拒絶ではなかった。
「先代様の私室は、今もそのままですか」
私は尋ねた。
マーサさんの顔が少し曇る。
「ええ。亡くなられてから、ほとんど手をつけておりません。北壁の書庫に続く部屋でもあります」
「先代公爵様は、そこで黒い帳簿を?」
「おそらくは」
レオンハルト様が答えた。
「父の私室は、明日確認する」
「明日……」
私の言葉に、彼はすぐ釘を刺した。
「今夜ではない」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいですか」
「かなり」
私は少しだけ唇を尖らせた。
マーサさんがまた笑う。
不思議だった。
昨日、この屋敷に来たばかりの時は、あんなに寒く感じたのに。
今は、暖炉と夜食と、ほんの少しの会話がある。
屋敷はまだ呪われている。
使用人も消えている。
帳簿も合わない。
でも、ここには確かに、温かさが残っている。
私はその温かさを、守りたいと思った。
夜食を終える頃、オルデン様が居間へ入ってきた。
「旦那様。施療院の薬瓶および商会馬車の保全記録、完了いたしました」
「ご苦労」
「それと、先代様の私室についてですが」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
レオンハルト様がこちらを見る。
「セラフィナ」
「聞くだけです」
「……聞くだけだ」
オルデン様は小さく咳払いした。
「先代様の私室の机から、封のされた日記帳が見つかりました」
「日記帳?」
「はい。鍵付きの日記帳です。表紙に、先代様ご自身の封蝋が押されています」
先代公爵の封蝋。
日記帳。
北壁の書庫。
黒い帳簿。
すべてが、また一つ近づいてきた。
「封蝋の状態は」
レオンハルト様が問う。
「劣化はありますが、まだ保っています。ただし、表紙の内側に短い書き付けが」
「何と」
オルデン様は一枚の写しを差し出した。
そこには、先代公爵のものと思われる筆跡で、こう書かれていた。
――レオンハルトを疑うな。
――黒い帳簿が消えた時は、日記の最後を読め。
――ただし、封蝋読みの令嬢が来るまでは開くな。
私は息を止めた。
封蝋読みの令嬢。
つまり、私。
先代公爵は、やはり私が来ることを想定していた。
レオンハルト様の顔にも、かすかな緊張が走る。
そして、写しの最後には、もう一行あった。
――ノアの出生証明は、私室の暖炉の灰の中に隠した。




