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第14話 開かずの書庫

 ――ノアの出生証明は、私室の暖炉の灰の中に隠した。


 その一文を読んだ瞬間、夜食の温かさが胸から消えた。


 ノアの出生証明。


 なぜ、ただの書庫番見習いの少年の出生証明を、先代公爵が私室の暖炉の灰に隠す必要があったのか。


 しかも、黒い帳簿が消えた時に読むよう記されている。


 黒い帳簿。


 孤児院の名簿。


 消えた帳簿係リック。


 教会に渡すなと警告されたノア。


 それらが、一本の細い糸で結ばれていく。


「今すぐ確認します」


 私が立ち上がろうとすると、レオンハルト様が即座に言った。


「明日だ」


「ですが」


「夜食を食べた直後に、灰を掘り返すつもりか」


「必要なら」


「必要でも、今夜は休め」


 冷たい声。


 けれど、今の私はその声の奥にあるものを知っている。


 叱責ではなく、制止。


 怒りではなく、心配。


 だからこそ、余計にもどかしい。


「レオンハルト様。出生証明は、燃やされているかもしれません。灰の中に隠したということは、完全な形では残っていない可能性があります。時間が経てば、さらに失われるかもしれません」


「先代の私室は封鎖している。誰も入れない」


「北壁の書庫も、封鎖されていたはずです」


 言ってしまってから、少しだけ後悔した。


 レオンハルト様の表情が静かに固まったからだ。


 けれど彼は怒らなかった。


 ただ、しばらく私を見ていた。


「……君は、本当に厄介だ」


「敵にとっては、ですよね」


「ああ」


 彼は短く息を吐いた。


「敵にとってはな。マーサ、外套を」


「承知いたしました」


「旦那様」


 オルデン様がわずかに眉を寄せる。


「先代様の私室は、旦那様ご自身にも負担が」


「分かっている」


 レオンハルト様の声が低くなる。


「だが、私が行かない理由にはならない」


 先代公爵の私室へ向かう廊下は、屋敷の中でもひときわ静かだった。


 黒い大理石の床に、燭台の光が長く伸びている。


 壁には歴代ヴァイス公爵の肖像画が並び、その視線が私たちを見下ろしているようだった。


 レオンハルト様は無言だった。


 その横顔はいつも通り冷たい。


 けれど、先代公爵の私室が近づくにつれ、彼の左手が少しずつ強張っていくのが分かった。


 呪い。


 真実へ近づくほど、彼を締めつける契約呪詛。


「お辛いなら、私とオルデン様だけで」


「駄目だ」


 即答だった。


「父の部屋だ。私が立ち会う」


「ですが」


「君は私を一人で行かせるなと言った」


 私は言葉を失った。


 先代公爵の封蝋に残っていた言葉。


 レオンハルトを一人にするな。


 私が彼に伝えた言葉だ。


 レオンハルト様は、それを覚えていた。


「……分かりました」


 私は小さく頷いた。


「では、私も無理に読まないようにします」


「その約束は信用が薄い」


「努力します」


「さらに薄くなったな」


 マーサさんが後ろで小さく咳払いをした。


 笑いをこらえたのだと思う。


 先代公爵の私室の扉は、重い黒檀で作られていた。


 扉には白銀の狼の紋章。


 その上に、古い封蝋が一つ。


 すでに封鎖済みであることを示す、公爵家の保全封だ。


 オルデン様が鍵を差し込み、封蝋を確認する。


「破られた形跡はありません」


「中は」


「先代様が亡くなられた日のまま、最低限の清掃のみで保っております」


 扉が開く。


 中から、古い紙とインク、乾いた木の匂いが流れてきた。


 先代公爵の私室は、想像していたより質素だった。


 大きな机。


 壁一面の本棚。


 北壁の書庫へ続く小さな扉。


 古びた地図。


 領民からの手紙をまとめた箱。


 そして、冷えた暖炉。


 部屋の中央に、誰かの不在だけが静かに残っている。


 レオンハルト様は、入口で一瞬だけ足を止めた。


 その横顔を見て、私は胸が痛んだ。


 ここは、彼にとってただの調査場所ではない。


 父親が最後にいた場所なのだ。


「無理をなさらないでください」


「君に言われる日が来るとはな」


「私も学習しています」


「そうか」


 その声は少しだけ柔らかかった。


 けれど次の瞬間、彼はいつもの公爵の顔に戻る。


「暖炉を調べる」


「はい」


 暖炉の灰は、表面だけきれいに均されていた。


 だが奥の方に、崩れた炭と古い灰の層が残っている。


 オルデン様が銀の火掻き棒で慎重に灰を寄せる。


 私は膝をつこうとして、レオンハルト様に視線で止められた。


「触りません」


「近い」


「灰を見るだけです」


「君の見るだけは危険だ」


「では、少し離れて見ます」


 私は一歩だけ下がった。


 灰の中から、黒く焦げた紙片がいくつか出てきた。


 普通なら、ただの燃え残りに見える。


 けれどそのうち一枚に、薄く封蝋の跡が残っていた。


 赤ではない。


 白に近い淡い金。


 出生証明に使われる、教会登録封。


「ありました」


 私の声に、全員の動きが止まる。


 オルデン様が硝子板の上へ紙片を移した。


 焦げている。


 文字はほとんど読めない。


 けれど、端に残った数文字だけがかろうじて見えた。


 出生登録。


 男児。


 母、エリシア。


 父――


 肝心の父親の名は焼け落ちていた。


 レオンハルト様の表情が険しくなる。


「エリシア……」


「ご存じですか」


 私が尋ねると、オルデン様が答えた。


「先代様の妹君です」


「妹君?」


「はい。エリシア様は二十年ほど前、病により亡くなられたと記録されています。ご婚姻はされておりませんでした」


 未婚の公爵妹。


 出生登録。


 男児。


 ノア。


 私は息を呑んだ。


 もしノアが、先代公爵の妹の子なら。


 彼は公爵家の血を引く。


 少なくとも、完全な孤児ではない。


「でも、ノアさんは十三歳です」


 私は言った。


「二十年前に亡くなった方の子では、年が合いません」


「その通りだ」


 レオンハルト様が低く呟く。


「エリシア叔母は、私が幼い頃に亡くなった」


「では、この出生証明の男児は、ノアさんではない?」


「分からない」


 レオンハルト様の声には、苦さがあった。


「エリシア叔母の死には、不明な点が多かった。父はその話をほとんどしなかった」


「不明な点?」


「病死とされた。だが、葬儀は急だった。遺品も少ない。肖像画も、この屋敷には残っていない」


 消された人。


 消された記録。


 消された出生証明。


 この公爵家には、死者だけでなく、生きていたはずの人の痕跡まで消されている。


「この紙片、読めますか」


 オルデン様が慎重に尋ねた。


 レオンハルト様が私を見た。


 その目は止めたいと言っていた。


 けれど、止めきれないことも分かっている目だった。


「一度だけだ」


 彼は言った。


「深く読むな。燃え残った封蝋の表面だけだ」


「はい」


 私は白手袋を整え、硝子板越しに紙片へ指を近づけた。


 直接は触れない。


 それでも、封蝋の残りは反応した。


 淡い金の封。


 教会の出生登録。


 そこに残る感情は、祝福ではなかった。


 恐怖。


 急げ。


 隠せ。


 この子を、記録から消すな。


 エリシアを死んだことにするな。


 兄上、どうか――


 視界に、断片が浮かぶ。


 若い女性の手。


 淡い金髪。


 白い布に包まれた赤子。


 夜の馬車。


 教会の裏口。


 泣き声。


 そして、書類に押される封蝋。


 名前。


 男児の名前。


 でも、その名は黒い影に塗り潰される。


 ノアではない。


 いや、ノアという名ではなかった。


 本当の名は、別にある。


 私は息を詰めた。


 もう少し。


 あと少しで読める。


 その時、横から手首を掴まれた。


「そこまでだ」


 レオンハルト様だった。


 私はすぐに手を離す。


 胸が少し苦しい。


 けれど今回は、倒れるほどではない。


「読めたか」


「少しだけ」


 私は深く息を整えた。


「エリシア様は、死んだことにされた可能性があります」


 オルデン様が息を呑む。


「なんと……」


「出生証明に残っていた感情は、赤子を隠すためではなく、記録から消されないようにするためのものでした。誰かが、エリシア様と赤子の存在を消そうとしていた」


「その赤子がノアか」


 レオンハルト様が問う。


 私は首を振った。


「分かりません。ただ、出生時の名前はノアではありませんでした。黒く塗り潰されていて読めませんでしたが……ノアという名は、後から与えられた可能性があります」


「年齢が合わない問題は」


「出生証明そのものの日付が改ざんされている可能性があります。あるいは、これはノアさん本人ではなく、ノアさんに繋がる別の人物の記録かもしれません」


 言いながら、私はある可能性に気づく。


 リック。


 ノアの兄とされる青年。


 もし、リックが本当に兄ではなく、護衛役や保護者として近くに置かれた人物なら。


 そしてノアの出生を隠すため、孤児院の名簿が改ざんされたのなら。


 支援金横領と相続改ざんは、別々の事件ではない。


 孤児院の名簿を操作できる者が、ノアの出生を隠した。


 死者の名で金を抜くだけでなく、生者の名も消した。


「孤児院の名簿を守れ」


 私は呟いた。


 先代公爵の封蝋に残っていた言葉。


「ノアさんの本当の記録は、孤児院の名簿に残っているかもしれません」


「だが、教会が名簿を探していた」


「はい。だから先代公爵様は、名簿を守れと残したのだと思います」


 レオンハルト様は黙って出生証明の燃え残りを見つめていた。


 その表情は、読めない。


 でも、彼の中で何かが大きく動いているのは分かった。


「エリシア叔母が生きていた可能性があるなら」


 彼は低く言った。


「父は、そのことを知っていたのか」


「知っていたから、隠したのかもしれません」


「誰から」


 その問いに、すぐ答えは出なかった。


 王宮文官。


 教会。


 クラウス商会。


 そして、公爵家の相続に関わる誰か。


 敵は、思っていたよりずっと深い。


 その時、マーサさんが部屋の隅にある小さな机を見て、眉を寄せた。


「旦那様。日記帳が」


 机の上には、革表紙の日記帳が置かれていた。


 オルデン様が見つけたという、先代公爵の封蝋付きの日記帳。


 表紙には白銀の狼の印。


 その下に、手書きの文字がある。


 黒い帳簿が消えた時は、日記の最後を読め。


 ただし、封蝋読みの令嬢が来るまでは開くな。


 レオンハルト様が日記帳の前に立つ。


 その顔色が、また少し白くなった。


「レオンハルト様」


「問題ない」


「問題がない方は」


「その言い方は覚えた」


「では、休んでください」


「それは聞けない」


 彼は日記帳を見下ろしたまま言った。


「父が、私に何を残したのか知りたい」


 その声を聞いて、私は止められなかった。


 冷徹公爵ではなく、父の言葉を求める息子の声だった。


「開けましょう」


 私は言った。


「ただし、レオンハルト様一人では読みません。私も、オルデン様も、マーサさんも立ち会います」


 レオンハルト様は一瞬だけ私を見た。


 そして、小さく頷く。


「ああ」


 私は日記帳の封蝋へ手をかざした。


 この封は、今までの偽造封とは違う。


 澄んでいる。


 けれど、ひどく悲しい。


「先代公爵様の封です。本物です」


「開けられるか」


「はい」


 小刀で封を切る。


 蝋が割れる音が、部屋に静かに響いた。


 日記帳を開くと、最後の頁には、たった数行だけが記されていた。


『レオンハルトへ。


 もしこの頁を読んでいるなら、私はお前に多くを残せなかったのだろう。


 私はお前を疑っていない。


 公爵家を蝕んでいるのは、お前ではない。


 王宮文書局、教会、クラウス商会、そして――』


 そこで文字が乱れている。


 インクが滲み、次の名だけが黒く塗り潰されていた。


 レオンハルト様の呼吸が止まる。


 私は頁の端を見た。


 そこに、もう一つだけ、かすれた文字が残っている。


『ノアは相続人ではない。だが、相続を覆す証人である』


 全員が息を呑んだ。


 ノアは相続人ではない。


 だが、相続を覆す証人。


 ならば、彼はいったい何を証明する存在なのか。


 その時、日記帳の背表紙から、薄い紙が一枚滑り落ちた。


 私は拾い上げる。


 それは、古い肖像画の目録だった。


 目録の末尾には、先代公爵の筆跡でこう記されている。


 ――エリシアの肖像画は、北壁の書庫の裏扉に隠した。


 北壁の書庫。


 もう黒い帳簿が消えた場所。


 けれど、まだ何かが残っている。


 レオンハルト様が、ゆっくりと顔を上げた。


「裏扉を探す」


 その瞬間、北壁の向こうから、かすかな物音が聞こえた。


 誰かが、書庫の中にいる。

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