第15話 呪いは血ではなく契約だった
北壁の向こうから、かすかな物音が聞こえた。
紙が擦れるような音。
木が軋むような音。
そして、誰かが息を殺した気配。
レオンハルト様が即座に燭台の火を片手で覆った。
部屋の明かりが少し落ちる。
先代公爵の私室は、急に夜の底へ沈んだようになった。
「誰だ」
低い声が、静かに響いた。
返事はない。
ただ、北壁の書庫へ続く小さな扉の向こうで、もう一度だけ物音がした。
今度は、何かが床へ落ちたような硬い音。
オルデン様が短剣に手をかける。
マーサさんは私の前に半歩出ようとした。
けれど、それより早くレオンハルト様が私の腕を引き、自分の背後へ下げた。
「私の後ろにいろ」
「ですが」
「今は反論するな」
その声は冷たかった。
けれど、私を遠ざけるためではなく、守るための冷たさだった。
私は頷き、白手袋の指先を握った。
北壁の書庫。
黒い帳簿が消えた場所。
エリシア様の肖像画が隠されている場所。
そして今、誰かがいる。
敵か。
味方か。
それとも、ずっとこの屋敷に隠れていた誰かなのか。
レオンハルト様が扉へ近づく。
その瞬間、彼の肩がわずかに揺れた。
「レオンハルト様?」
「問題ない」
短い返事。
でも、問題がないはずがなかった。
顔色が、さっきよりも白い。
左手が胸元を押さえている。
真実に近づくほど、彼を苦しめる呪い。
北壁の書庫に近づいただけで、反応しているのだ。
「待ってください」
私は思わず声を上げた。
「あなたが開けてはいけません」
レオンハルト様が振り返る。
「理由は」
「呪いが反応しています。先代公爵様は、あなた一人で見せるなと残しました。これは、遺言そのものだけではなく、この書庫にもかかっているのかもしれません」
「では誰が開ける」
「私が」
「却下だ」
即答だった。
分かっていた。
けれど、私も引けない。
「レオンハルト様が開ければ、呪いが強まります。私なら、封の痕跡を避けて開けられる可能性があります」
「君も危険だ」
「はい」
「分かっていて言うのか」
「分かっているから、言っています」
私たちは短く見つめ合った。
燭台の火が揺れる。
マーサさんもオルデン様も、何も言わなかった。
やがてレオンハルト様は、苦々しく息を吐いた。
「……私が扉の前に立つ。君は鍵と封だけを見る。触れる前に言え」
「はい」
「少しでも異常があれば止める」
「はい」
「返事はいい」
「実行します」
「それも信用が薄い」
こんな時なのに、少しだけ胸が緩んだ。
私は扉の前に立った。
北壁の書庫へ続く小扉には、古い鉄の取っ手と、公爵家の保全封がある。
ただし、その封の下に、別の細い封蝋の跡が重なっていた。
黒に近い紫。
契約封だ。
遺言や家門封ではない。
誰かと誰かを縛るための封。
「……これは、呪いではありません」
私の声に、レオンハルト様が反応した。
「どういう意味だ」
「少なくとも、血にかかった呪いではありません。これは契約です」
「契約?」
「はい。扉に残っているのは、血筋を呪う魔法ではなく、条件を満たした時に発動する契約封の痕跡です」
私は直接触れず、扉の封蝋の周囲を見た。
線がある。
目には見えにくいほど細い、契約陣の残り。
それは扉から床へ、床から机へ、そして日記帳が置かれていた場所へ向かって伸びている。
まるで、書類と部屋と人を同時に縛る蜘蛛の糸のようだった。
「条件は、おそらく」
私は息を整えた。
「レオンハルト様が、先代公爵様の遺言、北壁の書庫、あるいは相続の真実へ近づくこと」
レオンハルト様の目が冷たく細められた。
「私が調べるほど、発動する契約か」
「はい」
「誰がそんな契約を結んだ」
「まだ分かりません。ただ、あなた自身が望んで結んだものではないはずです。契約封の向きが、本人同意の形ではありません」
契約には向きがある。
互いに合意して交わす封は、力が循環する。
けれどこれは違う。
一方から一方へ、細い針のように刺さる形。
つまり、誰かがレオンハルト様を契約の対象として縛った。
当人の意思ではなく。
書類のどこかで。
封蝋のどこかで。
「呪われた公爵家、ではなかったのですね」
私は呟いた。
「呪いの血筋ではなく、契約で呪われた公爵家」
マーサさんが小さく息を呑む。
オルデン様の顔にも、怒りが滲んでいた。
「先代様の死後、旦那様が相続手続きに入られた頃から、体調を崩されるようになりました。もしそれが、相続契約や遺言保管手続きに仕込まれていたものなら……」
「王宮文書局が関わっている可能性が高いです」
私が言うと、レオンハルト様は静かに目を伏せた。
「イザーク・メルヴィン」
先代公爵の封蝋に残っていた名。
王宮保管遺言に照会記録を残した文官。
王宮の青いインク。
銀の指輪。
書記官のような声。
あまりにも線が繋がりすぎている。
その時、扉の向こうで、か細い声がした。
「……旦那様」
私たちは一斉に動きを止めた。
敵の声ではなかった。
震えている。
怯えている。
けれど、確かに誰かがそこにいる。
「誰だ」
レオンハルト様が問う。
少しの沈黙のあと、扉の向こうから返事があった。
「書庫係の、ミーナです」
オルデン様が眉を寄せる。
「ミーナ? 先月から姿を見せていなかった侍女見習いか」
「はい……申し訳、ありません」
声は今にも消えそうだった。
「開けます」
私が言うと、レオンハルト様が首を横に振りかけた。
けれど、中にいるのが怯えた使用人だと分かった以上、時間はかけられない。
「封を壊さず開けます」
私は扉の古い取っ手に、手袋越しで触れる寸前まで指を近づけた。
直接読まない。
契約陣の線を避ける。
封蝋の下ではなく、木枠の継ぎ目にある小さな金具へ小刀を差し込む。
先代公爵の私室は、きっとこういう時の逃げ道を残している。
封を破らず、扉を開ける方法。
あるはずだ。
木枠の下に、わずかな溝があった。
「オルデン様、ここを押してください」
「ここですな」
オルデン様が溝を押すと、かちり、と小さな音がした。
扉が内側へわずかに開く。
封蝋は破れていない。
契約陣も反応しない。
「開きました」
扉の隙間から、冷たい空気が流れた。
中は暗い。
本棚の影の奥に、痩せた少女がうずくまっていた。
ミーナと呼ばれた侍女見習いは、まだ十六歳くらいだろうか。
頬は痩せ、髪は乱れ、手には古い布包みを抱えている。
彼女はレオンハルト様を見ると、泣き出しそうな顔で頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様……私、逃げていたんです」
「なぜここにいる」
「リックさんに、言われました。もし自分が戻らなかったら、北壁の書庫の裏に隠れろって。帳簿を動かす者を見たら、これを旦那様に渡せって」
ミーナは震える手で、布包みを差し出した。
オルデン様が受け取り、慎重に開く。
中から出てきたのは、エリシア様の肖像画だった。
小さな額縁に収められた、若い女性の絵。
淡い金髪。
優しげな灰青色の瞳。
その顔立ちは、どこかレオンハルト様に似ていた。
だが、肖像画の裏には、さらに紙が挟まれていた。
古い契約書の写し。
黒紫の封蝋跡。
私は息を詰めた。
扉に残っていたものと同じ色だ。
「触るな」
レオンハルト様が言う前に、私は頷いた。
「分かっています。ですが、これは……」
私は紙面を見ただけで、背筋が冷えた。
契約書の表題は、こうだった。
相続調査制限契約。
「相続調査を、制限する契約?」
マーサさんが震える声で読む。
契約者欄は、一部が塗り潰されている。
けれど対象者欄には、はっきりと名があった。
レオンハルト・ヴァイス。
調査対象が先代公爵の遺言、エリシア・ヴァイスの出生記録、孤児院名簿、または王宮保管封に及んだ場合、対象者の身体に拘束反応を発生させる。
私は言葉を失った。
これが、呪いの正体。
血ではない。
罪でもない。
契約書だ。
誰かが文書によって、レオンハルト様の身体を縛っていた。
彼が父の遺言を調べようとすればするほど。
公爵家を守ろうとすればするほど。
痛みで止めるように。
「……くだらない」
レオンハルト様が低く呟いた。
その声は静かだった。
けれど、私は初めて彼の怒りが本当に底を突き破ったのを感じた。
「私の血が呪われているなどと、好き勝手に噂を流しておきながら、実際は紙切れ一枚か」
「紙切れではありません」
私は震える声で言った。
「でも、紙だからこそ、破れます」
レオンハルト様が私を見る。
「破れるのか」
「はい。ただし、原本が必要です。これは写しです。原本の封蝋を見つけて、契約の発動条件と契約者を特定しなければなりません」
「原本はどこだ」
私が答える前に、ミーナが震えながら言った。
「リックさんは……原本は、王宮文書局に戻されたって言っていました」
王宮文書局。
やはり、そこに戻る。
「それと、リックさんが最後に言っていました」
ミーナは涙をこぼしながら続けた。
「銀の指輪をした文官に気をつけろって。あの人は、契約書の余白に呪いを書くって」
銀の指輪。
王宮の青いインク。
イザーク・メルヴィン。
私は契約書の写しを見つめた。
余白に、小さな癖のある文字が残っている。
普通なら見落とすほど細い追記。
だが、その末尾に書かれた一文字の払いを、私は知っていた。
王宮標準書式に仕込まれていた拘束陣と同じ癖。
「レオンハルト様」
「何だ」
「この契約書を書いた文官は、おそらく王宮文書局のイザークです」
その瞬間、契約書の黒紫の封蝋跡が、ふっと濁った光を放った。
そして、離れて立っていたレオンハルト様が胸を押さえて膝をつく。
「レオンハルト様!」
私は駆け寄ろうとした。
けれど彼は片手で制した。
「来るな……契約が、反応している」
契約書が見つかったから。
名に近づいたから。
真実を言葉にしたから。
呪いではなく契約だと分かった瞬間、契約そのものが彼を黙らせようとしている。
私は拳を握った。
恐怖より、怒りが勝った。
こんな書類は許さない。
人を守るための契約ではなく、人を苦しめ、真実から遠ざけるための契約など。
絶対に。
「レオンハルト様」
私は彼の前に膝をつき、契約書には触れずに言った。
「少しだけ、耐えてください」
「何をする気だ」
「契約の発動条件を、ずらします」
「できるのか」
「原本ではないので、完全には無理です。でも写しに残った封蝋跡なら、一瞬だけ干渉できます」
「危険なら」
「危険です」
私は正直に言った。
「でも、このままではあなたが危険です」
彼の氷青の瞳が、痛みに揺れながらも私を見る。
「……本当に、厄介な令嬢だ」
「敵にとっては、です」
私は白手袋の指先を、黒紫の封蝋跡の手前で止めた。
触れない。
読むのではなく、封じる。
母の蔦と小鳥の封印具を取り出し、契約書の写しの余白に琥珀色の蝋を一滴落とす。
これは契約の上書きではない。
ただの保全封。
でも、封蝋は意思を覚える。
私はその小さな蝋に、強く願った。
この契約は、まだ終わっていない。
だから、勝手に発動するな。
真実を読むまで、黙っていろ。
封印具を押す。
蔦と小鳥の印が、黒紫の痕跡のそばに刻まれた。
瞬間、部屋に張り詰めていた圧が、ふっと弱まった。
レオンハルト様の呼吸が戻る。
私は大きく息を吐いた。
指先が焼けるように熱い。
けれど、まだ立っていられる。
「止まったのか」
オルデン様が驚いた声を出す。
「一時的にです。写しに残った発動痕を、保全封で押さえただけです。原本が動けば、また反応します」
レオンハルト様はゆっくり立ち上がった。
顔色は悪い。
けれど目は、さっきよりもはっきりしている。
「十分だ」
「十分ではありません。原本を探さないと」
「それもだが」
彼は私の手を見た。
白手袋の指先に、また赤い痕が浮かんでいる。
「君は、また無理をした」
「必要でした」
「そうだな」
意外にも、彼は否定しなかった。
ただ、私の手をそっと取る。
黒い手袋越しに、赤い痕のある指先を支える。
「助かった」
短い言葉だった。
でも、それだけで胸が熱くなった。
私は視線を落とす。
「仕事ですので」
「それだけか」
静かな問いだった。
答えようとして、言葉が出なかった。
その時、ミーナが小さく声を上げた。
「あの……もう一つ、リックさんから預かったものがあります」
彼女は震える手で、肖像画の額縁の裏を外した。
そこには、細長い紙片が隠されていた。
王宮文書局の青いインクで書かれた、短い写し。
『契約原本保管先――王宮文書局、第七封庫。担当、イザーク・メルヴィン』
そして、下に小さく追記があった。
『ただし、第七封庫を開ける鍵は、教会に渡された』
教会。
王宮。
契約原本。
レオンハルト様の呪い。
すべてが、次の場所を指していた。
私は紙片を見つめる。
その端には、黒い封蝋がほんの少しだけ付着していた。
まるで、誰かが慌てて剥がした跡のように。
そしてその封蝋から、触れてもいないのに、冷たい感情が漏れ出していた。
急げ。
女を止めろ。
封蝋読みを、王宮へ入れるな。




