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第16話 消えた侍女の証言

 ――封蝋読みを、王宮へ入れるな。


 黒い封蝋の欠片から漏れた感情に、私は指先を握りしめた。


 触れていないのに、冷たい悪意だけがこちらへ這い寄ってくる。


 王宮文書局。


 第七封庫。


 契約原本。


 教会に渡された鍵。


 そして、私を王宮へ入れるなという命令。


 敵は、私の存在に気づいている。


 それも、ただの邪魔者としてではない。


 封蝋を読む者として。


 書類に残った嘘を暴く者として。


「セラフィナ」


 レオンハルト様の声で、私は我に返った。


 彼はまだ顔色が悪い。契約書の写しに反応したせいで、胸元に置いた手の指先がわずかに震えている。


 それでも、私の方を見ていた。


「無理に読もうとするな」


「読んでいません」


「顔が、読みたそうだった」


「……そんな顔をしていましたか」


「ああ」


 即答だった。


 少し悔しい。


 けれど否定はできなかった。


 私は黒い封蝋の欠片から視線を外し、書庫の奥にうずくまっていた侍女見習い、ミーナへ向き直った。


 彼女は布包みを抱えたまま、小さく震えている。


 痩せた頬。荒れた指先。薄い唇。


 先月から姿を消していたという彼女は、逃げたのではない。


 この北壁の書庫の裏に隠れていたのだ。


「ミーナさん」


 私が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。


「はい……」


「今、話せる範囲で構いません。何があったのか、教えてください」


 ミーナは一度レオンハルト様を見た。


 怯えた目だった。


 けれど、レオンハルト様は低く言う。


「責めるつもりはない。リックに言われて隠れていたのだな」


「はい……リックさんが、私にここへ逃げろと。旦那様に直接話そうとすれば、私も消されるからって」


「誰に」


 レオンハルト様の声が少し冷える。


 ミーナは手を握りしめた。


「クラウス商会の人たちです。でも、それだけじゃありません。屋敷の中にも……その、商会に通じている人がいました」


「ダリオか」


「はい。でも、ダリオさんだけではありません」


 部屋の空気が張り詰める。


 オルデン様の表情も硬くなった。


「他にもいるのか」


「名前は分かりません。でも、使用人棟で何度も見ました。夜中に帳簿を運ぶ人。封筒を暖炉で燃やす人。クラウス商会の馬車を裏門から入れる人」


「なぜ今まで言わなかった」


 レオンハルト様の声は静かだった。


 だが、ミーナはその声に耐えられなかったように涙を浮かべた。


「言えませんでした! 言ったら、家族に何をするか分からないって……!」


 彼女は震える手で、胸元から小さな封筒を出した。


 封は破られている。


 だが、封蝋の欠けた跡が残っていた。


「私の弟が、王都の下町にいます。商会の人が、その住所を書いた紙を見せてきました。『黙っていれば弟には何もしない』って」


 マーサさんが息を呑む。


「そんな……」


「私だけじゃありません。辞めたことになっている侍女のラナも、馬丁のベンも、書庫係のトマも。みんな、盗んだとか、仕事を投げ出したとか言われました。でも違います。脅されて追い出されたんです。何人かは、商会の馬車に乗せられて……それきり」


 使用人が消えた。


 逃げたのではない。


 連れ去られた。


 あるいは、家族を人質にされ、屋敷から切り離された。


 公爵家の中で、真実を知りそうな者だけが。


「リックさんは、私たちを助けようとしてくれました」


 ミーナは涙をこぼしながら続けた。


「黒い帳簿を見つけたから、旦那様に直接渡すって。でも、その前に連れていかれて……。私、怖くて、隠れることしかできませんでした」


「よく隠れていてくれました」


 私がそう言うと、ミーナは驚いたように顔を上げた。


「え……?」


「あなたが隠れて、リックさんの預けたものを守ってくれたから、契約書の写しも、エリシア様の肖像画も、原本の保管先も分かりました」


「でも、私は逃げただけで」


「逃げることが、必要な時もあります」


 私は静かに言った。


「生きて証言することは、書類を残すことと同じくらい大切です」


 ミーナの顔がくしゃりと歪んだ。


 泣き声をこらえるように、彼女は両手で口元を押さえた。


 マーサさんがそっと近づき、肩に毛布をかける。


「もう大丈夫ですよ。よく一人で耐えましたね」


「マーサさん……」


 ミーナはついに泣き出した。


 書庫の暗がりで、ずっと息を殺していた少女の涙だった。


 私はその姿を見ながら、胸の奥に静かな怒りが広がっていくのを感じた。


 紙の上では、彼女たちは逃げたことにされていた。


 盗人にされていた。


 裏切り者にされていた。


 けれど本当は、誰かを守るために黙らされ、消されていた。


 ここにも、嘘の書類がある。


 人の人生を塗り潰す書類が。


「ミーナさん。脅迫に使われた封筒を、確認してもいいですか」


 レオンハルト様がすぐに私を見る。


「セラフィナ」


「深くは読みません。封蝋の状態を見るだけです」


「その言い方は危険だ」


「では、封蝋には触れず、紙と筆跡を見ます」


 少しの沈黙のあと、レオンハルト様は頷いた。


「オルデン、硝子板を」


「はい」


 封筒は硝子板の上に置かれた。


 私は距離を取り、まず紙質を見る。


 安い紙ではない。


 王都の文書局周辺で使われる、薄く丈夫な灰色紙。


 封筒の内側には、青いインクのかすれが残っている。


 王宮の青いインク。


 まただ。


 「ミーナさん。この封筒は、商会の人から?」


「はい。でも、手紙を書いたのは商会の人じゃないと思います」


「なぜですか」


「言葉が、商人っぽくなかったんです。もっと……貴族か、役人みたいな」


 私は封筒の宛名を見た。


 ミーナへ。


 ただそれだけ。


 けれど「ミ」の終筆が、わずかに跳ねている。


 この癖を、私は見たことがある。


 王宮標準書式の余白。


 契約書の写し。


 イザーク・メルヴィンの可能性がある筆跡。


「レオンハルト様」


「ああ」


「この封筒も、おそらく王宮文書局の者が関わっています」


 ミーナが青ざめる。


「王宮が……私たちみたいな使用人まで?」


「王宮そのものではなく、文書局の一部です」


 そう言いながらも、胸の中は重かった。


 王宮文書局の文官が、貴族家の相続だけでなく、使用人の脅迫や支援金横領にまで関わっている。


 これは、ただの公爵家内の不正ではない。


 制度そのものを悪用した犯罪だ。


「ミーナ」


 レオンハルト様が低く呼んだ。


 彼女は涙を拭い、姿勢を正そうとした。


「はい、旦那様」


「君の弟は、公爵家の保護下に置く。王都へ護衛を出す」


 ミーナの目が大きく開いた。


「弟を……?」


「連絡先を書け。すぐに動かす」


「でも、私なんかのために」


「私の使用人だ」


 レオンハルト様は、当然のように言った。


「脅されたのなら、守る」


 ミーナの顔が崩れた。


 彼女は深く頭を下げ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。


 その場にいた使用人たちの空気が変わったのが分かった。


 北壁の書庫に集まっていた数名の護衛と書記官。


 彼らは昨日まで、消えた使用人たちを疑っていたかもしれない。


 逃げたのだと。


 裏切ったのだと。


 だが今、そうではなかったと知った。


 その視線が、レオンハルト様へ向く。


 冷徹公爵。


 使用人を追い出した男。


 そう噂されていた人が、実際には脅された使用人の家族まで守ろうとしている。


 誤解が、少しずつ剥がれていく音がした。


「レオンハルト様」


 私は小さく言った。


「屋敷内の使用人名簿を確認したいです」


「理由は」


「辞めたことになっている方、失踪扱いの方、盗難や不始末を理由に除籍された方。その記録を洗えば、誰が意図的に消されたか分かります」


「それで内通者も見えるか」


「はい。失踪の処理をした担当者、退職届の証人、荷物の処分記録。そこに同じ名前が何度も出れば、線になります」


 オルデン様が頷いた。


「すぐに名簿を用意いたします」


「今夜はやらない」


 レオンハルト様が言った。


 私は口を開きかける。


 彼は先に釘を刺した。


「君も、ミーナも、私もだ。今夜は保護と証拠封じまで。調査は明日」


「……はい」


「不満そうだな」


「少しだけ」


「正直でよろしい」


 マーサさんが柔らかく言った。


 私は少しだけ肩の力が抜けた。


 北壁の書庫から出る前に、エリシア様の肖像画と契約書の写し、脅迫封筒、王宮文書局第七封庫の紙片をすべて公爵家の保全封で封じた。


 そこに私の蔦と小鳥の仮封も添える。


 今度は読まない。


 守るために封じる。


 封蝋が割られないように。


 痕跡が消されないように。


 ミーナはマーサさんに連れられて、使用人棟ではなく、彼女の部屋の近くで休むことになった。


 扉を出る直前、ミーナは私を振り返った。


「セラフィナ様」


「はい」


「私、証言します。リックさんのことも、商会のことも、見たこと全部」


「怖くありませんか」


「怖いです」


 彼女は正直に言った。


「でも、もう黙っていたくありません。ノアも、リックさんも、他のみんなも……逃げたことにされたままなんて嫌です」


 私は頷いた。


「では、一緒に記録に残しましょう」


「記録に」


「はい。誰かがあなたの人生を勝手に書き換えようとしても、本当の証言を残せば、それは消えません」


 ミーナは涙の残る目で、少しだけ笑った。


「はい」


 その笑顔は弱々しかったけれど、確かな一歩だった。


 先代公爵の私室を出ると、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。


 若い護衛が息を切らして立ち止まる。


「旦那様、王都から急使です」


「異議申立ての返答か」


「いえ、それとは別です」


 護衛は封筒を差し出した。


 白い封筒。


 ロウエル男爵家の封蝋。


 私の実家の印だった。


 胸の奥が、冷たく沈む。


 昨日、私を追放した家。


 私に遺言書偽造の罪を着せた家。


 父と、継母と、義妹ミリアがいる家。


 レオンハルト様が封筒を見て、目を細めた。


「君宛てだ」


「……私に?」


 震えそうになる指を押さえ、私は封筒を受け取った。


 封蝋には、強い焦りと苛立ちが残っている。


 触れなくても分かった。


 これは謝罪ではない。


 命令だ。


 封を開くと、父の硬い文字が目に入った。


『セラフィナ・ロウエルへ。


 至急、ロウエル男爵家へ戻ること。


 お前の婚約破棄および遺言書偽造の件について、家として再確認する必要がある。


 ヴァイス公爵家に迷惑をかける前に、速やかに帰宅せよ。


 なお、ミリアが体調を崩している。


 姉として責任を果たすように』


 私は手紙を読み終え、静かに息を吐いた。


 戻れ。


 責任を果たせ。


 ミリアが体調を崩している。


 あまりにも、あの家らしい文面だった。


 レオンハルト様が尋ねる。


「戻るのか」


 私は手紙を見つめた。


 少し前の私なら、迷っていたかもしれない。


 父に命じられれば従い、ミリアが泣けば自分が悪いと思い、家のために我慢していたかもしれない。


 でも今は違う。


 私はもう、あの夜会場に一人で立っていた私ではない。


 封蝋は嘘を覚えている。


 そして私は、その嘘を読むためにここにいる。


「いいえ」


 私は顔を上げた。


「戻りません」


 レオンハルト様の氷青の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「そうか」


「ですが、返事は出します」


「何と」


「正式な文書で」


 私はロウエル家の封蝋を見つめた。


 そこには焦りがある。


 恐れがある。


 そして、隠したい何かがある。


「父は、私を呼び戻したいのではありません。私の口を塞ぎたいのだと思います」


 その瞬間、封蝋の奥からかすかな感情が漏れた。


 ミリアの偽造封が、解けかけている。


 私は静かに手紙を畳んだ。


「どうやら、あちらでも嘘がほころび始めたようです」

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