第17話 ロウエル家からの召喚状
――ミリアの偽造封が、解けかけている。
ロウエル家の封蝋に残ったその気配は、かすかだった。
けれど、確かにあった。
赤い蝋の奥に、焦げた糸のような感情が絡んでいる。
焦り。
苛立ち。
恐れ。
そして、誰かに知られる前に連れ戻せ、という乱暴な意思。
父の手紙は、謝罪ではなかった。
命令でもあり、脅しでもあり、そして何より、証拠隠しのための呼び出しだった。
『至急、ロウエル男爵家へ戻ること』
その一文が、いつかの私なら胸に突き刺さっていたかもしれない。
けれど今は違う。
私はもう、父の声を聞いただけで膝を折る娘ではない。
この手紙も、ただの父からの命令ではない。
証拠だ。
「戻りません」
私がそう言うと、レオンハルト様は静かに頷いた。
「分かった」
たったそれだけだった。
戻るべきではないと命じるわけでも、戻るなと囲い込むわけでもない。
私の答えを、ただ受け取る。
それが不思議だった。
ロウエル家では、私の意思はいつも最後だった。
父の決定。
継母の不機嫌。
ミリアの涙。
エリアス様の都合。
その後に、ようやく私が従う番が来る。
でも、ここでは違う。
私が決めたことを、レオンハルト様は一つの判断として扱ってくれる。
それだけで、胸の奥が少し熱くなった。
「ですが、返事は出します」
「正式な文書で、か」
「はい」
私はロウエル家からの手紙を机に置いた。
マーサさんが温かい茶を用意してくれ、オルデン様が記録用の羊皮紙を並べる。
北壁の書庫から戻ったばかりだというのに、また書類の前にいる。
けれど不思議と、今度は疲労よりも頭が冴えていた。
父の封蝋に残った感情は、私にとってあまりにも馴染み深いものだったから。
「まず、この手紙の問題点を確認します」
私がそう言うと、レオンハルト様が向かいの椅子に腰を下ろした。
「続けろ」
「一つ目。私にロウエル家へ戻る義務はありません。除籍すると夜会で宣言されたものの、正式な王宮文書局への除籍届はまだ出ていないはずです」
「確認させる」
「二つ目。遺言書偽造の件について家として再確認するとありますが、これはおかしいです」
「なぜだ」
「夜会では、父は私の罪を断定しました。エリアス様とミリアの証言を信じ、公衆の面前で私を追放した。それなのに今さら『再確認』という言葉を使っている」
私は手紙の該当箇所を指で示した。
「これは、ロウエル家側で証言または書類に矛盾が出たということです」
「ミリアか」
「おそらく」
ミリアは嘘をつくのが上手い。
でも、書類を作るのは上手くない。
彼女は人の感情を読むことには長けているが、日付、証人、封蝋、契約条件といった細部には弱い。
私を陥れた偽造遺言書にも、それは表れていた。
「三つ目。『ヴァイス公爵家に迷惑をかける前に』という表現」
私は少しだけ笑いそうになった。
「これは、もう私がヴァイス公爵家にいることを知っているという意味です」
「当然だろうな。あの夜会場から、私の馬車に乗った」
「はい。ですが、父は私を罪人として追放したはずです。それなら、私がどこへ行こうと男爵家が関与する必要はありません。なのに、今になって公爵家への迷惑を気にしている」
「公爵家から照会されることを恐れているのか」
「はい」
ロウエル家は下級貴族だ。
ヴァイス公爵家から正式な文書照会を受ければ、無視はできない。
私がただの追放された娘なら捨て置けばいい。
けれど、私が公爵家の文書監査人となったなら話は別だ。
彼らは、私が口を開くことを恐れている。
「四つ目。ミリアが体調を崩している、という一文」
私はそこで、少し息を整えた。
昔の私は、この一文だけで戻っていただろう。
ミリアが泣いている。
ミリアが怖がっている。
ミリアが体調を崩した。
だから姉である私が我慢しなければならない。
その形に、何度も押し込められてきた。
でも今、その言葉は違って見える。
「これは、感情による拘束です」
私が言うと、レオンハルト様の目がわずかに細くなった。
「契約ではなく?」
「はい。書類上の拘束力はありません。でも、家族内ではよく使われます。責任、姉妹、親子、恩、体面。そういう言葉で、相手を動かす」
「君はそれで動かされてきたのか」
低い声だった。
怒っているようにも聞こえた。
私のために、怒ってくれているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、もう動きません」
レオンハルト様は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
むしろ、私の言葉が消えないように、そっと場を空けてくれているようだった。
「返書を書きます」
私は新しい羊皮紙を取り、羽根ペンを持った。
手は震えなかった。
不思議なくらい、震えなかった。
『ロウエル男爵閣下。
ご書状、確かに拝受いたしました。
まず、先日の夜会にて閣下は、私セラフィナ・ロウエルを公衆の面前で除籍すると宣言されました。
つきましては、現時点における私の身分上の扱いについて、王宮文書局へ提出済みの正式書面の写しをご提示ください。
また、遺言書偽造の件について再確認が必要とのことですが、当該遺言書、証人記録、封蝋印、提出経路、保管記録の写しを添えて、正式な文書照会としてお送りください。
口頭での呼び出し、家族関係を理由とした帰宅要請には応じかねます。
なお、私は現在、ヴァイス公爵家の正式な臨時文書監査人として契約下にあります。
今後、私個人への連絡は、ヴァイス公爵家家令オルデン殿を通じ、正式書面にてお願いいたします』
そこまで書いて、私は一度筆を止めた。
胸の奥に、小さな痛みがあった。
父に対して、こんな文書を書く日が来るとは思わなかった。
けれど、これは反抗ではない。
私が私を守るための、正しい線引きだ。
「最後に、ミリア様のご体調について」
私はまた筆を動かした。
『ミリア嬢のご体調については、お見舞い申し上げます。
ただし、私が負うべき法的責任または看護義務はございません。
必要であれば、医師をお呼びください。
以上、正式な書面として回答いたします』
書き終えた瞬間、胸の奥が静かになった。
私は父を罵らなかった。
ミリアを責めなかった。
でも、戻らないと明確に書いた。
それで十分だった。
レオンハルト様が、私の書いた文面を読む。
読み終えたあと、ほんのわずかに口元を上げた。
「容赦がないな」
「そうでしょうか」
「医師を呼べ、はなかなかだ」
「体調が悪いなら医師を呼ぶべきです」
「正論は時に刃物より鋭い」
「書類は刃物ではありません」
「君が持つと似たようなものだ」
私は返答に困った。
マーサさんが横で肩を震わせている。
笑っているのだ。
オルデン様は咳払いをして、真面目な顔を保っている。
「封はどうする」
レオンハルト様が問う。
「私の封で出します」
「公爵家の封は添えるか」
「添えていただけるなら、父は無視できません」
「では添える」
「よろしいのですか」
「君は私の契約下にある文書監査人だ。身元照会に公爵家が関与するのは当然だ」
当然。
また、その言葉。
私にとって当然ではなかったものが、この屋敷では一つずつ当然になっていく。
私は自分の蔦と小鳥の封を押した。
隣に、レオンハルト様が白銀の狼の封を押す。
小さな鳥と、狼。
ロウエル家の封蝋の前ではいつも小さく見えた私の印が、今は不思議と頼もしく見えた。
「急使を出す」
オルデン様が手紙を受け取る。
「写しを保管しますか」
「はい。原本写し、公爵家控え、私の控えをそれぞれ」
私は言った。
「今後、ロウエル家が『そんな手紙は受け取っていない』と言う可能性があります」
「言いそうだな」
レオンハルト様が淡々と言う。
「では、受領証付きで届けさせる」
「ありがとうございます」
手紙が封じられ、急使へ渡される。
それを見届けた時、私はようやく大きく息を吐いた。
これで、戻らないと伝えた。
言葉にした。
書類にした。
封を押した。
もう、なかったことにはできない。
「セラフィナ様」
マーサさんが温かな声で言った。
「お疲れでしょう。お茶を淹れ直しましょうか」
「ありがとうございます。でも、まだ使用人名簿を」
「今夜はそこまで」
レオンハルト様が言った。
早かった。
「ですが」
「今夜は、君自身の件にも決着をつけた。十分だ」
「決着と言えるほどでは」
「戻らないと書いた」
彼はまっすぐ私を見る。
「それは大きい」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
大きい。
そうなのだろうか。
たった一通の返事。
けれど私にとっては、初めて父の命令に従わなかった書類だった。
初めて、自分の意思で押した封だった。
「……はい」
私は小さく頷いた。
「大きかったです」
レオンハルト様の瞳が、ほんの少し柔らかくなる。
「なら休め」
「結局そこに戻るのですね」
「君には必要だ」
反論できなかった。
けれど、休む前に一つだけ確認しておきたいことがある。
「レオンハルト様。ロウエル家の封蝋に、ミリアの偽造封が解けかけている感情がありました」
「ああ」
「おそらく、あの夜会で私に偽造の罪を着せた遺言書に不備が出ています。父が焦っているのも、そのせいです」
「つまり、向こうから動く」
「はい」
私はロウエル家の手紙の写しを見つめた。
「次は、父かエリアス様が直接来るかもしれません」
レオンハルト様の目が冷える。
「来ればいい」
「よろしいのですか」
「公爵家の門前で追い返してもいいが」
彼は少しだけ間を置いた。
「君が望むなら、正式な応接室で迎えてやる」
「私が、ですか」
「君の件だ。君が決めろ」
また、私が決める。
その言葉は、少し怖い。
でも、もう逃げたくはなかった。
「来たら、会います」
私はゆっくりと言った。
「ただし、父の娘としてではなく、ヴァイス公爵家の文書監査人として」
「分かった」
レオンハルト様は頷いた。
「その時は、私も同席する」
「お忙しいのでは」
「君を一人で会わせると思うか」
即答だった。
なぜか胸が跳ねる。
「仕事のため、ですか」
「それもある」
それも。
昨日なら「そうだ」とだけ返されたはずだ。
私は目を伏せた。
それ以上聞く勇気は、まだなかった。
その夜、私は久しぶりに深く眠った。
ロウエル家の夢を見なかった。
父の怒鳴り声も、ミリアの泣き声も、夜会場の笑い声も聞こえなかった。
代わりに、白銀の狼と小さな鳥の封蝋が並んでいる夢を見た。
翌朝。
公爵家の朝は、思ったより慌ただしく始まった。
使用人名簿の確認、ミーナの証言記録、王宮文書局への異議申立ての返答待ち、施療院への追加薬搬送。
そしてロウエル家への返書が届く頃には、向こうも何か動くだろうと思っていた。
けれど、それは予想より早かった。
朝食を終え、私が書斎へ向かおうとした時、玄関ホールが騒がしくなった。
オルデン様が珍しく険しい顔で現れる。
「旦那様、セラフィナ様。ロウエル男爵家から使者が参りました」
「返書が届くには早すぎるな」
レオンハルト様が言う。
「はい。どうやら、昨夜の手紙とは別に出された者のようです」
「誰だ」
オルデン様は少しだけ私を見た。
そして、静かに告げる。
「ロウエル男爵ご本人です。ミリア嬢も同行しております」
胸の奥が、すっと冷えた。
父。
ミリア。
こんなに早く、来るとは。
オルデン様はさらに続ける。
「男爵は、セラフィナ様を今すぐ引き渡せと門前で主張しております」
レオンハルト様の表情が、完全に冷えた。
「引き渡せ、だと」
私は一度だけ目を閉じた。
昨日までなら、震えていたかもしれない。
でも今は、違う。
私は白手袋を整え、顔を上げた。
「応接室へ通してください」
レオンハルト様が私を見る。
「会うのか」
「はい」
私は静かに答えた。
「今度は、私が封を開く番です」




