第18話 戻りません、父上
「今度は、私が封を開く番です」
そう告げた時、自分の声が思ったより静かだったことに、私は少し驚いた。
玄関ホールの向こうでは、父が声を荒げているらしい。
ロウエル男爵。
私の父。
昨日の夜会で、私を公衆の面前で除籍すると宣言した人。
その隣には、義妹のミリアもいるという。
胸の奥が、まったく痛まないわけではなかった。
父の顔を思い浮かべると、幼い頃の自分がまだ少しだけ震える。
怒らせてはいけない。
逆らってはいけない。
ミリアを泣かせてはいけない。
ロウエル家のために我慢しなければならない。
そんな古い癖が、心の奥から顔を出そうとする。
けれど私は、白手袋の指先をそっと握った。
今の私は、あの家の中で俯いていた娘ではない。
ヴァイス公爵家の臨時文書監査人。
そして、封蝋を読む者だ。
「応接室へ」
レオンハルト様が低く命じた。
オルデン様が深く頭を下げる。
「承知いたしました。ただし、男爵はかなり興奮しておられます」
「武器は」
「お持ちではありません。ですが、ミリア嬢の侍女が小箱を抱えております」
「小箱?」
私が尋ねると、オルデン様は少し表情を硬くした。
「封蝋付きの書類箱です。ロウエル家の家門封が押されております」
書類箱。
胸の奥に、小さな警鐘が鳴った。
彼らは、ただ私を連れ戻しに来たのではない。
何かを持ってきている。
証拠か。
偽証か。
それとも、新しい罠か。
「確認します」
私が言うと、レオンハルト様が横から見た。
「一人で触るな」
「はい」
「父親相手でも、遠慮はするな」
父親相手でも。
その言葉に、少しだけ息が詰まる。
「……はい」
「君が言いづらいなら、私が追い返す」
「いいえ」
私は首を振った。
「これは、私が言わなければいけません」
レオンハルト様は数秒、私を見つめた。
それから静かに頷く。
「分かった。だが、私も同席する」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
彼はいつものように淡々と言った。
「君を一人であの家へ戻す気はない」
その言葉は、思った以上に胸へ響いた。
戻す気はない。
誰かがそう言ってくれるだけで、足元が少し固くなる気がした。
応接室は、玄関ホールに近い一室が選ばれた。
公爵家の正式な客を迎える部屋ではあるが、奥の私的な部屋ではない。
つまり、距離を置いた扱いだ。
レオンハルト様が上座に座り、私はその斜め横に座った。
オルデン様が後ろに控える。
私の前には、筆記用の羊皮紙とインク、封蝋台。
これは会話ではなく、記録に残す場だ。
それだけで、少し心が落ち着いた。
ほどなくして、扉が開いた。
父が入ってくる。
グレゴール・ロウエル男爵。
昨夜よりも顔色が悪い。目の下には疲れがあり、顎には剃り残しがあった。
けれど、その目にある怒りだけは変わらない。
その後ろから、ミリアが入ってきた。
白いドレスに淡い桃色のリボン。
か弱い令嬢を演じるには完璧な装いだった。
彼女は目元を赤くし、胸元に手を当てている。
体調を崩したと手紙にあったが、少なくとも歩けないほどではなさそうだった。
父は私を見るなり、声を荒げた。
「セラフィナ! お前、何をしている! すぐに帰るぞ!」
応接室の空気が凍った。
レオンハルト様の目が、静かに冷える。
私は膝の上で手を重ね、父を見た。
「おはようございます、ロウエル男爵閣下」
父の顔が強張った。
「何だ、その呼び方は」
「現在、正式な場におりますので」
「父に向かって、ふざけた口を利くな!」
「この場はヴァイス公爵家の応接室です。私的な親子の会話ではなく、正式な面会として記録いたします」
父の頬が赤くなる。
「記録だと?」
「はい」
私は筆を取り、羊皮紙の上に日付を書いた。
「本日、ロウエル男爵グレゴール様およびミリア・ロウエル嬢が、事前の正式な面会申請なくヴァイス公爵家を訪問。セラフィナ・ロウエルに対し、帰宅を要求」
「やめろ!」
父が机を叩いた。
その瞬間、レオンハルト様が低く言う。
「男爵」
たった一言。
それだけで、父の動きが止まった。
「ここは私の屋敷だ。机を叩く許可を出した覚えはない」
「……失礼いたしました、公爵閣下」
父は不承不承、頭を下げた。
その姿を見て、私は初めて知った。
父は、絶対的な人ではなかった。
ただ、ロウエル家の中でだけ、私にとって大きく見えていたのだ。
公爵家の応接室では、父も一人の下級貴族にすぎない。
その事実が、私の胸の中で何かを静かにほどいた。
ミリアが一歩前に出る。
「お姉様……どうしてそんなに冷たいの?」
柔らかな声。
潤んだ瞳。
昔から、彼女はこの顔が得意だった。
「わたし、昨夜からずっと具合が悪くて……お姉様が怖いことを言って出ていったから、眠れなかったの」
以前の私なら、まず謝っていた。
私のせいで怖い思いをさせてごめんなさい、と。
けれど今は、彼女の言葉より、その背後にいる侍女の持つ書類箱が気になった。
ロウエル家の家門封。
赤い蝋。
表面は綺麗だが、封蝋の縁がわずかに不自然だった。
「ミリア様。ご体調が悪いのであれば、医師をお呼びください」
私が静かに言うと、ミリアは目を見開いた。
「え……?」
「私は医師ではありませんので」
「お姉様、そんな言い方」
「それから、昨夜の件について怖いとおっしゃいましたが、私が怖いことを言ったのではありません。私は、提示された遺言書の封蝋が偽造である可能性を述べました」
ミリアの表情が、一瞬だけ崩れた。
ほんの一瞬。
けれど、私は見逃さなかった。
父が低く唸る。
「その件で来たのだ。お前が余計なことを言ったせいで、グレン家が再確認を求めてきた」
「再確認ですか」
「そうだ。まったく、最後まで迷惑をかけおって」
「再確認を求めたのは、グレン家なのですね」
私は記録に書き込む。
父がしまったという顔をした。
「いや、違う。そうではなく」
「では、ロウエル家が自発的に?」
「細かいことを聞くな!」
「書類に関する確認ですので、細かいことが重要です」
父は唇を歪めた。
ミリアが慌てたように袖を握る。
「お父様、もういいです。お姉様は混乱しているだけですもの。早く家に帰って、落ち着いて話せば」
「戻りません」
私は即座に言った。
ミリアが固まる。
父の目が吊り上がる。
「何だと」
「戻りません、父上」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに切れた。
家族を捨てる音ではない。
鎖が外れる音に近かった。
「私は現在、ヴァイス公爵家と正式な契約を結び、臨時文書監査人として職務に就いています。ロウエル家へ戻る義務はありません」
「親が帰れと言っている!」
「昨夜、父上は私をロウエル家から除籍すると公衆の面前で宣言されました」
「それは、お前が罪を犯したからだ!」
「では、その罪を証明する正式書類をご提示ください」
父は言葉に詰まった。
ミリアがすぐに侍女へ目配せする。
侍女が小箱を差し出した。
「こちらに、証拠があります」
ミリアの声は少し震えていた。
けれど、それは怯えではない。
焦りだ。
「お姉様が書き換えようとした遺言書です。お父様が持ってきてくださいました」
私は小箱を見た。
赤い封蝋。
ロウエル家の印。
縁が、わずかに二重になっている。
夜会場で見た偽造遺言書と、同じ気配。
「開封しても?」
私が尋ねると、父は鼻で笑った。
「自分の罪の証拠を見て、まだ言い逃れするつもりか」
「開封の前に確認します。この箱の封蝋は、いつ、誰が押しましたか」
「私だ」
父が言う。
けれど、封蝋は小さく震えた。
嘘。
触れなくても分かる。
父の嘘は、いつも大きい。けれど細部が雑だ。
「ミリア様」
私は視線を向けた。
「この小箱に、触れましたか」
「触れていません」
封蝋の奥が、かすかに熱を帯びる。
また、嘘。
ミリアの目が潤む。
「お姉様、どうしてわたしを疑うの? わたしはただ、お姉様に戻ってきてほしくて」
「戻ってきてほしいのではなく、封を読ませたくないのではありませんか」
彼女の顔から、血の気が引いた。
レオンハルト様が静かに言った。
「セラフィナ。読むか」
「はい。ただし、公爵家の立会い記録を残します」
オルデン様がすぐに準備を整える。
父が慌てる。
「待て! これはロウエル家の書類だ。公爵家に勝手に読ませるわけには」
「では、なぜ公爵家へ持ち込んだのですか」
私は尋ねた。
父が黙る。
答えは簡単だ。
私を脅すため。
家へ連れ戻すため。
でも、公爵家の応接室へ持ち込んだ時点で、それはもう私的な脅しでは済まない。
私は白手袋を整えた。
レオンハルト様が横から低く言う。
「無理はするな」
「はい」
「深く読むな」
「今回は表面だけです」
「君の表面は深い」
「……気をつけます」
小箱の封蝋に、そっと触れる。
瞬間、ミリアの感情が流れ込んできた。
焦り。
怒り。
悔しさ。
どうして消えないの。
封蝋が戻ってしまう。
姉さえいなければ。
エリアス様に嫌われたくない。
あの文官は大丈夫だと言ったのに。
文官。
私は息を整えた。
やはり、ロウエル家の偽造にも王宮文官が関わっている。
ただし、今はそこまで言わない。
まずは目の前の嘘を暴く。
「この封蝋を押したのは、父上ではありません」
応接室が静まった。
父が顔を真っ赤にする。
「何を馬鹿な」
「押したのはミリア様です」
「お姉様!」
ミリアが悲鳴のような声を上げる。
「ひどい……わたし、そんなこと」
「封蝋には、あなたの感情が残っています」
「そんな薄気味悪い力で!」
そこで、彼女は口を閉じた。
言ってしまった。
昨夜までなら、周囲はミリアの怯えを信じたかもしれない。
けれどここは、ヴァイス公爵家の応接室。
封蝋読みを正式な職能として雇った場所。
ミリアの言葉は、明確な職能侮辱だった。
レオンハルト様の声が落ちる。
「ミリア嬢。今の発言は、私が雇用する文書監査人への侮辱として記録する」
ミリアの唇が震えた。
「そ、そんなつもりでは」
「記録しろ」
オルデン様が淡々と筆を走らせる。
父が慌てて言う。
「公爵閣下、娘は体調が悪く」
「医師を呼べ」
レオンハルト様の返答は短かった。
私は危うく反応しそうになり、唇を引き結んだ。
ミリアは青ざめたまま、小箱を見ている。
私は封蝋から手を離し、言った。
「この箱の中にある遺言書は、昨夜夜会場で提示されたものと同じ偽造封の気配があります。ただし、封蝋が解けかけています」
「解けかけている?」
レオンハルト様が問う。
「はい。偽造封に使われた魔力が安定していません。おそらく、元の封蝋が拒絶しているのです」
「つまり、偽物が自壊し始めている」
「はい」
父の顔色が変わった。
ミリアは完全に黙り込む。
「開けます」
私は小刀で封を切った。
中には、羊皮紙が一枚。
ロウエル家の親族の遺言書。
そこには、財産の一部をミリアに譲る旨が記されていた。
けれど、文字の下に別の筆跡の痕が見える。
私は目を凝らした。
本来の文面は、薄く削られている。
そして削り跡の端に、古い封蝋の粉が残っていた。
「元の文面は違います」
私は言った。
「この遺言書は、財産をミリア様へ譲る内容に書き換えられています」
「嘘よ!」
ミリアが叫ぶ。
その声は、もう可憐な令嬢のものではなかった。
「お姉様がやったんでしょう!? お姉様が、わたしを妬んで!」
「いいえ」
私は羊皮紙を見つめた。
削られた文字の奥。
封蝋の粉。
そこに残る本来の感情。
この子に、残す。
セラフィナに。
あの子は、誰にも守られていないから。
胸が詰まった。
この遺言書の主は、亡くなった母方の叔父だった。
幼い頃、一度だけ私に古い羽根ペンをくれた人。
私の【封蝋読み】を気味悪いと言わなかった、数少ない大人。
その人が、私に何かを残してくれていた。
それを、ミリアたちは奪ろうとした。
「本来の遺言では、受取人は私です」
父が目を見開いた。
「何……?」
「叔父様は、私に財産の一部と、古い文書箱を残すつもりでした」
「そんなはずは」
「封蝋に残っています」
声は震えなかった。
でも、胸の奥は痛かった。
奪われた財産よりも、叔父の気持ちを踏みにじられたことが悲しかった。
「父上。あなたはこの遺言書を確認しましたか」
「私は……ミリアが、お前に奪われそうだと」
「確認せずに、私を偽造犯と断じたのですね」
父は黙った。
ミリアが泣き出す。
「違うの……わたし、そんなつもりじゃ……エリアス様が、これでお姉様が家にいられなくなるって」
エリアス。
元婚約者の名が出た。
父がミリアを見る。
「ミリア?」
ミリアははっとして口を押さえた。
もう遅い。
オルデン様の筆が、記録に残している。
エリアス様が、これでお姉様が家にいられなくなるって。
決定的な自白ではない。
でも十分なほころびだ。
レオンハルト様の瞳が、静かに冷える。
「エリアス・グレンも関与しているのか」
ミリアは首を振る。
「違います、今のは、その」
父がよろめくように椅子へ座り込んだ。
彼は初めて、私を見た。
怒りでも、命令でもない。
混乱と、ほんの少しの怯えを帯びた目で。
「セラフィナ……お前、本当にやっていないのか」
その言葉に、私は胸の奥が冷えるのを感じた。
今さら。
本当に、今さら。
私は静かに答えた。
「昨夜から、そう申し上げています」
父の口が動く。
謝罪の言葉が出るのかと思った。
けれど出てきたのは、違った。
「ならば、家に戻って説明しろ。家の中で話せば、まだ間に合う」
私は目を伏せた。
この人は、私を信じたいのではない。
家を守りたいのだ。
自分の判断が間違っていたと、公に認めたくないだけだ。
だから私は、はっきり言った。
「戻りません」
「セラフィナ!」
「ロウエル家の中で話せば、また私の言葉は消されます。ですが、ここでは記録に残ります」
私は封を切った遺言書を、オルデン様へ渡した。
「この遺言書は、公爵家立会いのもと保全してください。偽造疑義ありとして、王宮文書局ではなく、第三者立会いの保管を求めます」
「承知いたしました」
父が立ち上がる。
「それはロウエル家の書類だ!」
「そして、私に偽造の罪を着せた証拠です」
私はまっすぐ父を見た。
「もう、私一人で抱えるつもりはありません」
父は言葉を失った。
ミリアは泣いている。
けれど、その涙はもう誰も動かさなかった。
その時、応接室の外が騒がしくなった。
オルデン様が扉へ向かい、外の使用人から何かを聞く。
そして、険しい顔で戻ってきた。
「旦那様」
「何だ」
「グレン子爵令息、エリアス様が到着されました」
応接室の空気が、再び張り詰める。
ミリアの顔から、血の気が引いた。
父が小さく呻く。
私の元婚約者。
昨夜、私を紙くず令嬢と笑い、婚約破棄を宣言した人。
エリアス・グレン。
オルデン様は続けた。
「セラフィナ様がロウエル家に拘束されている可能性があるため、婚約破棄の正式確認に来た、と主張しております」
私は思わず、遺言書の封蝋を見た。
偽造封の奥で、ミリアの焦りが一気に跳ね上がる。
エリアスが来た。
それは救いではない。
きっと、次の嘘の始まりだ。
レオンハルト様が静かに立ち上がる。
「通せ」
そして、私の方を見た。
「セラフィナ。続けられるか」
私は白手袋を整えた。
もう逃げない。
父にも、ミリアにも、エリアスにも。
「はい」
私は封蝋の残る遺言書を見つめ、静かに答えた。
「次は、元婚約者の封を開きます」




