第19話 元婚約者の署名
「次は、元婚約者の封を開きます」
そう言った直後、応接室の扉が開いた。
入ってきたのは、昨夜の夜会場で私に婚約破棄を突きつけた人。
エリアス・グレン子爵令息。
淡い金髪を整え、紺色の上着を着ている。夜会の時と同じように、自信に満ちた顔をしていた。
ただし、その自信は部屋の空気に触れた瞬間、わずかに揺らいだ。
父が青ざめて椅子に座っている。
ミリアは涙を浮かべたまま黙り込んでいる。
机の上には、封を切られた遺言書。
そして、ヴァイス公爵家の家令が記録を取っている。
彼が想定していた場ではなかったのだろう。
「これは……どういう状況ですか」
エリアス様は一瞬だけ言葉を探し、それから私を見た。
すぐに、いつもの見下すような表情に戻る。
「セラフィナ。やはりここにいたのか」
「おはようございます、グレン子爵令息」
私は椅子から立たずに答えた。
エリアス様の眉が動く。
「何だ、その他人行儀な呼び方は」
「婚約は破棄されたと伺っておりますので」
「それはお前のせいだろう。遺言書を偽造し、妹を陥れようとしたから」
昨夜と同じ言葉。
同じ断罪。
けれど、不思議なほど胸は痛まなかった。
もうその言葉は、私を縛る力を失っている。
「その件については、現在確認中です」
「確認中?」
エリアス様は鼻で笑った。
「まだ言い逃れをするつもりか。紙くず令嬢らしいな。公爵家に拾われたからといって、自分が価値ある人間になったとでも――」
「グレン子爵令息」
レオンハルト様の声が落ちた。
応接室の空気が、一瞬で冷える。
エリアス様がようやく、上座に座るレオンハルト様へ向き直った。
そして慌てて頭を下げる。
「ヴァイス公爵閣下。失礼いたしました」
「今の発言は、私が正式に契約した文書監査人への侮辱だ」
「いえ、私はただ、以前の婚約者として」
「以前の婚約者なら、なおさら礼を欠く理由にはならない」
エリアス様の顔が引きつった。
彼は私を見下していた。
だから、私への侮辱が公爵家への侮辱になるとは考えていなかったのだろう。
私は静かに筆を取り、記録に書き加えた。
グレン子爵令息、セラフィナ・ロウエルに対し「紙くず令嬢」と発言。
ヴァイス公爵、職能侮辱として制止。
エリアス様がその筆の動きに気づき、顔をしかめる。
「何を書いている」
「面会記録です」
「勝手に記録するな」
「ここはヴァイス公爵家の応接室です。正式面会として記録しております」
「正式面会? 私はセラフィナを引き取りに来ただけだ」
「引き取り?」
レオンハルト様の目が細くなった。
父もミリアも、ぎょっとした顔でエリアス様を見る。
どうやら、そこまでは聞いていなかったらしい。
エリアス様は咳払いをした。
「言葉の綾です。婚約破棄の正式確認と、今後の処理のために来ました」
「今後の処理とは」
「こちらです」
エリアス様は従者に合図した。
差し出されたのは、青い紐で束ねられた書類。
封蝋はグレン家のもの。
ただし、端に薄い青色のインクが滲んでいる。
王宮文書局でよく使われる青いインク。
私はそれを見た瞬間、胸の奥が冷えた。
まただ。
この事件のどこを開いても、王宮文書局の気配がある。
「婚約破棄確認書です」
エリアス様は言った。
「昨夜の件を正式に文書化するためのものだ。セラフィナ、お前はこれに署名しろ」
「内容を確認しても?」
「読むまでもない。お前が自分の非を認め、グレン家とロウエル家に今後一切異議を申し立てないと誓うだけだ」
「読む必要があります」
「相変わらず面倒な女だな」
エリアス様が吐き捨てる。
私はその言葉も記録した。
父が小さくうめく。
ミリアは青ざめたまま俯いている。
エリアス様だけが、自分がどれほど危うい場所に立っているのか分かっていないようだった。
オルデン様が書類を受け取り、私の前へ置く。
私は封蝋に直接触れず、まず表面を確認した。
婚約破棄確認書。
その表題は整っている。
形式も王宮標準書式に近い。
だが、本文を読み進めるほど、奇妙な条項が目についた。
第一条。セラフィナ・ロウエルは、自身の不適切行為により婚約破棄に至ったことを認める。
第二条。セラフィナ・ロウエルは、ロウエル家親族遺言書に関する一切の権利を放棄する。
第三条。セラフィナ・ロウエルは、グレン家、ロウエル家、および関係商会に対し、今後いかなる文書照会、異議申立て、職能行使も行わない。
関係商会。
その言葉で、私は筆を止めた。
「関係商会とは、どちらの商会ですか」
エリアス様の表情がわずかに動いた。
「一般的な文言だ」
「婚約破棄確認書に、関係商会への職能行使禁止が入るのは一般的ではありません」
「貴族家の取引関係を守るためだ」
「具体名を避ける理由は?」
「お前には関係ない」
「署名を求める書類の対象が不明確である以上、関係あります」
エリアス様が苛立ったように舌打ちした。
「だから嫌だったんだ。お前はいつも紙の細かいところばかり見る」
「書類ですので」
「そんなだから可愛げがないんだ!」
ミリアがびくりと肩を震わせる。
父は顔をしかめたが、何も言わない。
私はその言葉も記録に残した。
可愛げがない。
昔なら傷ついていた。
でも今は、ただの発言記録だ。
「第四条」
私は続けて読み上げた。
「セラフィナ・ロウエルは、婚約期間中に知り得たグレン家および協力者の帳簿、寄付記録、支援金管理記録について、将来にわたり開示、閲覧、証言を行わない」
部屋が静まり返った。
寄付記録。
支援金管理記録。
婚約破棄確認書に、なぜそんな条項があるのか。
エリアス様はすぐに言った。
「グレン家は慈善事業に関わっている。貴族の寄付記録は機密だ」
「慈善事業とは、孤児院や施療院への支援ですか」
「……含まれる」
「クラウス商会を通じたものですか」
エリアス様の目が揺れた。
ほんの一瞬。
けれど、私は見た。
レオンハルト様も見逃さなかった。
「なぜ、そこでクラウス商会の名が出る」
レオンハルト様が問う。
エリアス様は笑おうとした。
だが、声が少し上ずる。
「有名な商会ですからね。公爵閣下もご存じでしょう」
「知っている。孤児院への支援物資横領、施療院への粗悪薬納入、毒物疑義で関係者を拘束したばかりだ」
エリアス様の顔色が変わった。
今度は隠せなかった。
「拘束……?」
ミリアが小さく息を呑む。
父も青ざめる。
エリアス様は明らかに、その情報を知らなかった。
つまり、この婚約破棄確認書は、孤児院と施療院の件が公になる前に作られていた。
それなのに、支援金管理記録への証言禁止条項が入っている。
あまりにも不自然だった。
「グレン子爵令息」
私は静かに言った。
「この書類を作成したのは、あなたですか」
「当然だ。私の署名がある」
「王宮文書局の文官に依頼しましたか」
「貴族間の正式文書だからな。確認程度は頼んだ」
「担当文官は?」
「覚えていない」
嘘。
今度は、書類の封蝋がかすかに濁った。
私は封蝋には触れていない。
けれど、そこに残る焦りは見える。
「覚えていないのに、王宮標準書式の拘束条項が入っているのですか」
「お前は何が言いたい」
「この書類は、婚約破棄確認書ではありません」
私は書類を机に置いた。
「私に不利な自白をさせ、遺言書の権利を放棄させ、さらにグレン家、ロウエル家、クラウス商会周辺の支援金記録について証言させないための口封じ文書です」
「ふざけるな!」
エリアス様が立ち上がる。
レオンハルト様も、ゆっくりと立ち上がった。
ただそれだけで、エリアス様は一歩後ずさる。
「座れ」
レオンハルト様の声は静かだった。
エリアス様は唇を噛み、椅子へ戻った。
私は書類の最後の頁を開く。
署名欄。
そこにはエリアス・グレンの署名があった。
流れるような筆跡。
最後の「s」の払いが、上へ跳ねる癖。
私は、その癖を見たことがある。
つい昨日。
施療院で押収したクラウス商会の馬車から見つかった、偽の回収記録。
そこにあった裏書きの署名。
善意により回収。
施療院側の保管不備。
その下に記された、保証人の署名。
貴族の後援者を示す、略式の署名。
「オルデン様」
「はい」
「施療院で保全した回収記録の写しを、こちらへ」
オルデン様はすぐに別室へ指示を出した。
エリアス様の顔が、目に見えて硬くなる。
「何の話だ」
「確認です」
「私には関係ない」
「では、確認されても問題ありませんね」
数分後、オルデン様が保全箱から写しを持ってきた。
施療院の薬瓶を回収するため、クラウス商会が持っていた偽の記録。
その末尾に、保証人として書かれている署名。
E. Gren.
完全な署名ではない。
だが、末尾の払いが同じだった。
文字の傾きも。
インクを置く強さも。
最後だけ少し上へ跳ねる癖も。
私は二つの署名を並べた。
「同じ筆跡です」
エリアス様は鼻で笑った。
「略式署名など、似ることもある」
「では、あなたのものではないと?」
「当然だ」
私は彼を見た。
「では、この場で同じ略式署名を書いてください」
エリアス様の表情が凍った。
「なぜ私がそんなことを」
「あなたの筆跡ではないと証明するためです」
「馬鹿馬鹿しい」
「拒否されますか」
「拒否ではない。無意味だと言っている」
レオンハルト様が低く言った。
「グレン子爵令息。ここで拒むなら、筆跡確認に応じなかったと記録する」
「公爵閣下、これは横暴です」
「横暴?」
レオンハルト様の声がさらに冷える。
「私の領民へ届くはずだった薬を回収しようとした偽記録に、君のものと思われる署名がある。確認を求めるのは当然だ」
エリアス様は追い詰められた顔で、羽根ペンを取った。
私は白紙を差し出す。
「E. Grenとお書きください」
「……くだらない」
彼は吐き捨てるように言い、署名した。
その瞬間、私は見た。
最後の払い。
同じだ。
本人も気づいたのだろう。
書き終えた直後、彼の顔色が変わった。
私は三つの署名を並べた。
婚約破棄確認書。
施療院薬瓶回収記録。
今書いた署名。
「一致します」
オルデン様が静かに言った。
「少なくとも、同一人物の筆跡として極めて近い」
「違う!」
エリアス様が声を荒げる。
「私はそんな薬瓶など知らない!」
「では、なぜクラウス商会の回収記録にあなたの略式署名があるのですか」
「知らないと言っている!」
「誰かに署名だけ渡しましたか」
その問いに、エリアス様は一瞬だけ黙った。
答えが遅れた。
それだけで、部屋の全員が気づいた。
「渡したのですね」
「違う! 私はただ、商会の慈善活動に後援者として名を貸しただけだ!」
自分で言ってから、エリアス様は口を閉じた。
遅い。
もう記録された。
クラウス商会の慈善活動に、後援者として名を貸した。
それはつまり、関係があるということ。
「名を貸した相手は誰ですか」
「クラウス商会だ。だが、横領など知らない!」
「支援金記録への証言禁止条項を入れたのは?」
「それは文官が、念のためと」
「文官の名は」
「……イザークだ」
部屋の空気が変わった。
イザーク・メルヴィン。
王宮文書局の文官。
先代公爵の遺言を歪めた人物。
レオンハルト様の契約呪詛に関わる人物。
そして今、ロウエル家とグレン家の婚約破棄確認書にも、その名が出た。
エリアス様はすぐに言い訳を重ねる。
「王宮文書局のイザーク・メルヴィンだ。正式な文官だぞ。彼が問題ないと言った。私はただ、書類を整えただけだ」
「あなたは、私にその書類へ署名させようとしました」
「お前が余計なことを言わなければ済んだ!」
その声は、今までで一番本音に近かった。
私は静かに尋ねる。
「余計なこととは、何ですか」
「遺言書が偽物だの、封蝋がどうだの……そんなことを言うから、ミリアが疑われる。ロウエル家もグレン家も迷惑する。お前は黙っていればいいんだ!」
ミリアが震える。
父は額を押さえている。
エリアス様は、もう自分の言葉を制御できていなかった。
「お前みたいな外れ職は、家の中で言われた通りに書類を整理していればよかったんだ。婚約してやっただけでもありがたいと思うべきだった!」
応接室が静まり返った。
もう、傷つかなかった。
不思議なほどに。
この人は最初から、私をそう見ていたのだ。
人ではなく、便利な紙係として。
自分より下の、黙って利用できる相手として。
私はその事実を、ようやく真正面から見た。
「分かりました」
私は静かに言った。
「では、記録します」
羽根ペンを取る。
「グレン子爵令息は、クラウス商会の慈善活動に後援者として名を貸したことを認めた。婚約破棄確認書の作成に王宮文書局イザーク・メルヴィンが関与したことを認めた。また、セラフィナ・ロウエルに対し、遺言書偽造疑義について沈黙するよう求めた」
「違う! そういう意味ではない!」
「では訂正を」
エリアス様が口を開く。
しかし、言葉が出ない。
訂正すればするほど、さらに矛盾が出る。
彼にもそれが分かったのだろう。
顔を真っ赤にして、拳を握りしめるだけだった。
レオンハルト様が言った。
「この婚約破棄確認書は、公爵家で保全する」
「それはグレン家の書類です!」
「私の文書監査人に署名を強要しようとした口封じ文書だ。さらに、私の領地支援金横領疑義と関係する条項が含まれている」
レオンハルト様は淡々と続ける。
「十分だ」
エリアス様は唇を震わせた。
「公爵閣下は、その女の言うことを信じるのですか」
「信じる」
即答だった。
胸が、思わず鳴った。
レオンハルト様は私を見ず、エリアス様だけを見ていた。
「少なくとも、君よりはずっと」
エリアス様の顔が歪む。
ミリアが小さく泣き声を漏らした。
父は、もう何も言えなくなっていた。
私は婚約破棄確認書を閉じ、公爵家の保全封を押す準備をした。
「この書類には、私の署名はいたしません」
私ははっきりと言った。
「私は、していない罪を認めません。叔父様の遺言の権利も放棄しません。グレン家、ロウエル家、クラウス商会、王宮文書局に関する文書照会権も、職能行使も放棄しません」
エリアス様が私を睨む。
「後悔するぞ」
その言葉を聞いて、私は初めて少しだけ笑った。
「もう十分しました」
彼が目を見開く。
「あなたと婚約していたことを」
その場にいた誰も、すぐには言葉を発しなかった。
エリアス様の顔が怒りで歪む。
でも、もう怖くなかった。
この応接室には、記録がある。
封蝋がある。
そして、私の言葉を遮らず聞いてくれる人がいる。
それだけで、私は立っていられる。
その時、婚約破棄確認書の封蝋が、ぱきりと小さく割れた。
誰も触れていない。
だが、封の端から青いインクが滲み出す。
王宮文書局の青。
私は息を呑んだ。
封蝋の奥から、声にならない感情が漏れた。
署名させろ。
黙らせろ。
封蝋読みを自由にするな。
そして、最後にひときわ冷たい意志が響いた。
失敗したなら、グレンを切り捨てろ。
私は手を離した。
「この封蝋……エリアス様を守るためのものではありません」
レオンハルト様が問う。
「どういう意味だ」
「この文書には、失敗した時にエリアス様へ責任を押しつける仕掛けがあります」
エリアス様の顔から、血の気が引いた。
「な……何を言って」
「イザークは、あなたを使っただけです」
私は婚約破棄確認書の余白を見た。
そこには、肉眼ではほとんど読めない青いインクの細線がある。
契約陣。
レオンハルト様を縛ったものほど強くはない。
けれど、確かにある。
「この書類が無効化された時、作成責任は署名者に返るようになっています。つまり、表に出れば、あなたが主導したことになる」
「違う! 私はイザークに頼まれて……!」
また、言った。
頼まれて。
エリアス様は自分の失言に気づき、顔を歪める。
その瞬間、外から慌ただしい足音が聞こえた。
オルデン様が扉を開ける。
若い護衛が息を切らしていた。
「旦那様! 王都より急使です!」
「今度は何だ」
「王宮文書局からです。先ほど、ヴァイス公爵家の異議申立てが受理されました」
私とレオンハルト様は顔を見合わせた。
受理された。
つまり、王宮保管遺言の再封手続きは、少なくとも立会いなしには進められない。
だが護衛の顔は明るくなかった。
「それと同時に、王宮文書局より通知が」
護衛は封筒を差し出した。
白い封筒。
青い封蝋。
王宮文書局の印。
オルデン様が読み上げる。
「明後日、王宮文書局第七封庫にて、先代ヴァイス公爵遺言保管封の状態確認を行う。立会人として、ヴァイス公爵レオンハルト殿、および指定確認者セラフィナ・ロウエル嬢の出席を求める」
王宮文書局。
第七封庫。
契約原本の保管先。
私は封筒の青い封蝋を見た。
その奥で、冷たい意志が笑っている。
来られるものなら来い。
そう言っているようだった。




