第20話 王宮へ行く支度
――来られるものなら来い。
王宮文書局の青い封蝋は、そう嘲っているように見えた。
明後日、王宮文書局第七封庫。
先代ヴァイス公爵遺言保管封の状態確認。
立会人は、ヴァイス公爵レオンハルト様。
そして、指定確認者セラフィナ・ロウエル。
第七封庫。
そこには、レオンハルト様を縛る相続調査制限契約の原本があるはずだった。
王宮保管遺言。
契約原本。
イザーク・メルヴィン。
全てが、同じ場所へ集まり始めている。
応接室は、しばらく誰も動けないほど静まり返っていた。
その沈黙を破ったのは、エリアス様だった。
「……王宮文書局が、セラフィナを指定確認者に?」
彼は信じられないという顔で私を見た。
「なぜだ。そんなはずがない。お前はただの――」
「グレン子爵令息」
レオンハルト様の声が、彼の言葉を切った。
「これ以上、私の文書監査人を侮辱するなら、君の発言記録をそのまま王宮へ提出する」
エリアス様は口を閉じた。
顔にはまだ怒りが残っていたが、それ以上言えないと分かったらしい。
ミリアは涙を浮かべたまま、父の袖を握っている。
父は、先ほどからずっと机の上の遺言書を見ていた。
偽造された遺言書。
本来なら、私に残されていたはずのもの。
叔父様の気持ちを削り取り、ミリアの名へ書き換えられた書類。
父はそれを見て、何を思っているのだろう。
申し訳ないと思っているのか。
騙されたと思っているのか。
それとも、まだ家の体面をどう守るかだけを考えているのか。
私は、もうその答えを期待しないことにした。
「ロウエル男爵閣下、グレン子爵令息」
レオンハルト様が言った。
「本日の面会はここまでだ」
父が顔を上げる。
「公爵閣下、しかし娘の件はまだ」
「娘?」
レオンハルト様の目が冷えた。
「昨夜、公衆の面前で除籍すると宣言した相手を、都合のよい時だけ娘と呼ぶのか」
父の顔が強張った。
「それは……誤解があったのです」
「誤解で除籍を宣言し、誤解で遺言書偽造の罪を着せ、誤解で公爵家へ引き渡しを要求したと?」
「……」
「便利な言葉だな」
静かな声だった。
けれど、その一言で父は完全に黙った。
私は不思議な気持ちでその様子を見ていた。
父が誰かに言い返せず、立ち尽くしている。
私にとって父は、ずっと大きな壁だった。
でも今、その壁にはひびが入っている。
いえ、もしかすると、最初から壁ではなかったのかもしれない。
私がそう思い込まされていただけで。
「本日提出されたロウエル家の遺言書、グレン家の婚約破棄確認書、ならびに面会記録は、ヴァイス公爵家にて保全する」
レオンハルト様は続けた。
「異議があるなら、正式書面で申し立てろ。口頭での抗議は受け付けない」
エリアス様が悔しげに拳を握る。
「公爵閣下は、セラフィナの言葉だけを信じるのですか」
「違う」
レオンハルト様は机上の書類を見た。
「私は書類を信じる。封蝋を信じる。記録を信じる。そして、それらを読み解く彼女の職能を信じている」
胸の奥が、静かに熱くなった。
私を信じる。
そう言われるよりも、もっと深い言葉だった。
私の感情だけに寄りかかるのではない。
私が積み上げた確認と記録を信じてくれている。
それが、何より嬉しかった。
「お帰りください」
私は父へ向き直った。
「父上」
父の目が揺れる。
私は静かに続けた。
「次に私へ連絡をされる場合は、正式書面でお願いいたします。ミリア様のご体調については、医師にご相談ください。エリアス様との婚約破棄については、こちらから異議申立てを行う可能性があります」
「異議申立てだと?」
エリアス様が声を荒げる。
「お前の方から婚約破棄に異議を出すつもりか!」
「はい」
「恥を知れ!」
「恥を知るべきなのは、罪を確かめずに断罪した方ではありませんか」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど胸が静かだった。
エリアス様は顔を真っ赤にして私を睨んだ。
でも、もう怖くない。
彼の怒りは、私を動かす力を持っていない。
「退室を」
レオンハルト様が命じると、護衛が静かに扉の前へ立った。
父は何か言いたげに私を見た。
ミリアは泣きながら父の腕にすがっている。
エリアス様は最後までこちらを睨んでいた。
けれど、三人は何も取り返せないまま応接室を出ていった。
扉が閉まる。
その音が響いた瞬間、肩から力が抜けた。
私は手袋の上から、自分の指をぎゅっと握った。
「セラフィナ」
レオンハルト様が私の名を呼ぶ。
「はい」
「よく耐えた」
その一言で、胸の奥に残っていた緊張が崩れそうになった。
泣くほどではない。
けれど、息が少し震えた。
「……耐えられたのは、ここがロウエル家ではなかったからです」
「違うな」
レオンハルト様は静かに言った。
「君が、戻らないと決めたからだ」
私は何も返せなかった。
戻らない。
昨日書いた一文。
今日口にした一言。
それは、思っていた以上に大きかった。
マーサさんがそっと温かい茶を差し出してくれる。
「セラフィナ様。まず一口どうぞ」
「ありがとうございます」
茶を飲むと、ようやく喉の奥が温まった。
オルデン様はすでに机上の書類を分類している。
「旦那様。本日の保全対象を確認いたします」
「ああ」
「一つ、ロウエル家偽造疑義遺言書。二つ、グレン家婚約破棄確認書。三つ、グレン子爵令息の筆跡確認記録。四つ、面会発言記録。五つ、王宮文書局第七封庫立会い通知」
「写しを三部ずつ作れ。原本は保全箱へ。王宮へ持参するものと、屋敷に残すものを分ける」
「承知いたしました」
私は茶器を置き、机に向き直った。
「王宮へ持っていくべきものを整理します」
レオンハルト様がすぐにこちらを見る。
「休んでからだ」
「座ったまま整理します」
「それは休みではない」
「ですが、時間がありません。明後日です」
私がそう言うと、彼はわずかに眉を寄せた。
止めたい。
でも止めきれない。
そんな顔だった。
「十五分だけだ」
「せめて三十分」
「二十分」
「二十五分」
「……二十分だ」
「分かりました」
マーサさんが横で小さく笑った。
「お二人とも、交渉がお上手になってきましたね」
レオンハルト様は聞こえないふりをした。
私は少しだけ頬が熱くなる。
けれど、すぐに気持ちを切り替えた。
王宮へ持参すべき証拠。
まず、先代公爵の覚書。
私を指定確認者として名指しした封書。
次に、王宮保管遺言の再封手続きに対する異議申立書の写し。
孤児院の死者名義受領証。
施療院の薄められた薬瓶記録。
クラウス商会の偽回収記録。
ミーナの証言記録。
相続調査制限契約の写し。
エリシア様の肖像画目録。
そして、グレン家婚約破棄確認書。
「持ち込みすぎると、逆に警戒されます」
私は言った。
「全て見せるのではなく、必要なものを段階的に出すべきです」
「王宮文書局が相手なら、先に見せた証拠を逆に使われる可能性があるな」
レオンハルト様が言う。
「はい。特にイザークが立会いの場にいるなら、どの証拠をこちらが持っているか悟らせない方がいいです」
「ならば、表向きは遺言保管封の確認に絞る」
「はい。契約原本については、こちらから先に切り出さない方がいいです。第七封庫に入った後、保管目録を確認し、原本の存在を見つけた形にする方が自然です」
オルデン様が頷く。
「つまり、目的は二つ。表向きは遺言保管封の状態確認。裏の目的は、相続調査制限契約の原本探索」
「はい」
私は王宮文書局からの通知を見た。
「ただし、こちらの本当の目的は読まれていると思います。封蝋にも挑発のような感情が残っています」
「罠だな」
レオンハルト様の声が冷える。
「はい。ですが、行かなければ王宮保管遺言を消されます」
「行くしかない」
「行くしかありません」
言葉が重なる。
私は思わずレオンハルト様を見た。
彼もこちらを見ていた。
たった一瞬なのに、胸の奥が少しだけ落ち着く。
一人で向かうのではない。
そのことが、こんなにも心強い。
「君を王宮に一人で行かせない」
レオンハルト様が言った。
それは宣言のようだった。
「ありがとうございます」
「礼ではない。必要な判断だ」
「仕事のため、ですか」
少しだけ、意地悪な質問だったかもしれない。
レオンハルト様は黙った。
以前なら、即座に「そうだ」と返したはずだ。
でも今回は違った。
彼は私から視線を逸らさず、静かに答えた。
「それだけでは、ない」
胸が、音を立てた。
応接室の空気が急に近くなる。
マーサさんが何かを察したように、そっと茶器を片づけ始める。
オルデン様も書類を整理するふりをして、視線を外した。
私は何か答えなければと思った。
でも、うまく言葉が出ない。
「レオンハルト様」
「今は、言葉にする時ではない」
彼は低く言った。
「王宮へ行く前に、余計な揺らぎを増やすべきではない」
「余計、ですか」
「私にとっては、余計ではない」
私は息を止めた。
彼は少しだけ目を伏せる。
「だから、今は言わない」
ずるい。
そう思ってしまった。
言わないと言いながら、ほとんど言っている。
けれど私も、それ以上聞く勇気はなかった。
王宮文書局。
契約原本。
イザーク。
レオンハルト様を縛る契約。
今は、そちらに集中しなければならない。
「分かりました」
私は小さく頷いた。
「私も、今は仕事を優先します」
「今は、か」
「……はい。今は」
言ってから、自分で顔が熱くなった。
レオンハルト様の口元が、ほんのわずかに緩む。
その表情を見て、私はますます視線を落とした。
そこへ、玄関側から戻ってきた護衛が報告に入った。
「旦那様。ロウエル男爵一行、門外へ出ました。ただし、グレン子爵令息が出際に不穏な発言を」
「何と言った」
「『王宮へ行けば、セラフィナは二度と戻れない』と」
応接室の空気が一瞬で変わった。
レオンハルト様の目が冷える。
私は王宮文書局の封筒を見た。
二度と戻れない。
それは脅しなのか。
それとも、エリアス様がイザークから何か聞いているのか。
「王宮内で拘束するつもりでしょうか」
私が言うと、オルデン様が険しい顔をした。
「あり得ます。王宮文書局は、文書偽造疑義や身元不備を理由に、一時的な聴取を行う権限を持っています」
「私の身元不備……」
嫌な予感がした。
私は昨日まで、ロウエル家から除籍されかけた身。
正式な除籍届が出ているかどうかは未確認。
婚約破棄も未確定。
ヴァイス公爵家とは契約関係にあるが、家族ではない。
つまり、王宮文書局が悪意を持って解釈すれば、私の立場は不安定だ。
「指定確認者としての資格を揺さぶるかもしれません」
私は言った。
「ロウエル家所属なのか、除籍されたのか。未婚の令嬢なのか、罪人疑義のある者なのか。そこを突かれれば、第七封庫への入室を拒まれる可能性があります」
「公爵家の契約書がある」
レオンハルト様が言う。
「臨時文書監査人としての契約はあります。ですが、王宮文書局が『家門に属さない若い女性を封庫へ入れるには身元保証が不十分』と言い出せば、時間を稼がれます」
「時間を稼がれれば、再封が進む」
「はい」
部屋に沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、オルデン様だった。
「旦那様。身元保証を強める方法はございます」
レオンハルト様は、すでに分かっているような顔をした。
「言え」
オルデン様は一度だけ私を見た。
その視線に、なぜか胸がざわつく。
「セラフィナ様を、単なる臨時文書監査人ではなく、ヴァイス公爵家の庇護下にある正式な貴賓として登録する方法です」
「すでに客人扱いだ」
「それでは弱いかと」
オルデン様の声は慎重だった。
「王宮文書局が強硬に出た場合、もっと明確な身分保証が必要になります」
マーサさんがそっと目を伏せる。
私は嫌な予感を覚えた。
「もっと明確な、とは」
私が尋ねると、オルデン様は丁寧に答えた。
「親族、後見人、婚約者、または配偶者です」
婚約者。
その言葉だけが、妙にはっきり響いた。
レオンハルト様は黙っている。
私も言葉を失った。
つい先ほど、元婚約者と完全に決別したばかりだ。
それなのに今、別の婚約という言葉が目の前に置かれている。
しかも、王宮へ入るための身元保証として。
「もちろん、すぐに結論を出す必要はございません」
オルデン様が言った。
「後見契約でも、一定の効力はあります。ただし、ロウエル男爵が父権を主張した場合、後見契約は争われる恐れがございます」
「父権……」
父は、私を除籍すると言った。
けれど都合が悪くなれば、娘だと主張する。
今日の応接室で、すでにそれを見せた。
王宮でも同じことをするかもしれない。
「婚約者なら?」
レオンハルト様が問う。
私は思わず彼を見た。
声はいつも通りだった。
でも、その横顔はわずかに硬い。
「公爵家当主の婚約者であれば、王宮文書局が入室を拒むには相応の理由が必要です」
オルデン様は答えた。
「まして、先代公爵の指定確認者であり、現公爵の婚約者であれば、身元保証としては十分かと」
心臓がうるさい。
仕事の話だ。
これは、王宮文書局への対抗策。
分かっている。
それでも、婚約者という言葉が、簡単には流れていかなかった。
レオンハルト様が、ゆっくり私を見る。
「セラフィナ」
「はい」
「これは、君を利用する提案になる」
その言い方が、彼らしいと思った。
甘い言葉で包まない。
必要だからと言い切る。
でも、決して私の意思を奪わない。
「王宮へ入るため、君の身元を守るため、婚約という形を取る。それは有効だ。だが、君の意思なしにはしない」
胸が詰まった。
元婚約者は、私に署名を強要した。
父は、私を引き渡せと言った。
でもレオンハルト様は、私に選ばせようとしている。
「契約、ですか」
私はようやく声を出した。
「形としてはな」
「期間は」
「王宮文書局の件が片づくまで、で構わない」
構わない。
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
なぜ痛むのか、自分でも分からないふりをした。
「もちろん、後見契約でも」
レオンハルト様が言いかける。
その時、廊下から急いだ足音が聞こえた。
王宮からの急使を受け取っていた書記官が、息を切らして入ってくる。
「旦那様、失礼いたします。王宮文書局からの通知に、追記がございました」
「追記?」
「封筒の内側に、別紙が挟まれておりました。開封時に封蝋の下へ貼りついており、発見が遅れました」
書記官が差し出した小さな紙片を、オルデン様が受け取る。
その表情が、みるみる険しくなった。
「何と書いてある」
レオンハルト様が問う。
オルデン様は、低い声で読み上げた。
「指定確認者セラフィナ・ロウエル嬢については、現在ロウエル男爵家より身元確認未了の照会が出ているため、単独での第七封庫入室を認めない」
やはり。
王宮文書局は、そこを突いてきた。
だが、追記はそれだけではなかった。
オルデン様は続ける。
「ただし、ヴァイス公爵家当主の親族、正式婚約者、または配偶者として身元保証がなされる場合に限り、入室を認める」
応接室に、重い沈黙が落ちた。
王宮文書局は、逃げ道を塞いだつもりなのだろう。
私を入れたくない。
でも、先代公爵の指定確認者という条件を完全には無視できない。
だから、身元保証を盾にした。
親族。
正式婚約者。
配偶者。
私は紙片を見つめた。
青いインクの端に、細い銀色の粉が付いている。
銀の指輪で紙を押さえた時に残る、微かな金属粉。
イザーク。
間違いない。
これは彼の罠だ。
でも同時に、彼が想定していない抜け道でもある。
私は顔を上げた。
レオンハルト様も、私を見ていた。
彼の瞳は静かだった。
けれど、その奥に迷いがある。
私を守りたい。
でも、私を縛りたくない。
その両方が見えた。
だから私は、自分から言った。
「レオンハルト様」
「何だ」
「契約書を作りましょう」
彼の目がわずかに開かれる。
「何の」
私は白手袋の指先を整えた。
鼓動は速い。
でも、声は震えなかった。
「王宮文書局第七封庫への入室および相続調査完了までを期限とする、正式な婚約契約書です」
オルデン様が息を呑む。
マーサさんは口元に手を当てた。
レオンハルト様は、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと問う。
「本気か」
「はい」
「君は、今日婚約破棄されたばかりだ」
「ですから、書類上の婚約には慎重です」
「なら」
「だからこそ、条件を全て書きます」
私はまっすぐ彼を見た。
「私の職能を守るため。王宮文書局へ入るため。ロウエル家の父権干渉を防ぐため。ヴァイス公爵家の相続調査を進めるため。そして、レオンハルト様を縛る契約原本を見つけるため」
一つずつ、言葉にする。
逃げないために。
自分で選ぶために。
「これは、私が選びます」
レオンハルト様の瞳が揺れた。
彼は少しだけ目を伏せ、低く言う。
「君は本当に……」
「厄介ですか」
「ああ」
彼は小さく息を吐いた。
それから、私をまっすぐ見た。
「敵にとってはな」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
レオンハルト様は机の上の空白の羊皮紙を引き寄せた。
「分かった」
彼は羽根ペンを取る。
「契約書を作る」
私は頷いた。
白銀の狼と、小さな鳥。
その二つの封が、また並ぶことになる。
ただし今度は、文書監査人としてではない。
王宮へ乗り込むための、期限付きの正式婚約者として。
王宮文書局の青い封蝋が、机の端でかすかに軋んだ。
まるで、予想外の答えに苛立つように。




