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第21話 契約婚約の条件

 期限付きの正式婚約者。


 その言葉を口にした瞬間、応接室の空気が少しだけ変わった。


 王宮文書局へ入るため。


 レオンハルト様を縛る契約原本を探すため。


 ロウエル家が父権を振りかざして私を引き戻そうとするのを防ぐため。


 理由はいくつもある。


 これは必要な判断だ。


 仕事だ。


 契約だ。


 そう自分に言い聞かせているのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 婚約。


 つい昨日、私は婚約破棄された。


 紙くず令嬢と笑われ、偽造犯と呼ばれ、家を追い出された。


 それなのに今、目の前の黒髪の公爵が、白い羊皮紙を引き寄せている。


 私と婚約するための契約書を作るために。


 あまりにも現実味がない。


 でも、レオンハルト様の横顔は現実だった。


 冷たく整った顔。


 真剣な目。


 羽根ペンを持つ指。


 そして、ほんの少しだけ硬くなった口元。


 彼も、平然としているわけではないのかもしれない。


「まず、表題だ」


 レオンハルト様が言った。


「正式婚約契約書でよいか」


「それだけでは危険です」


「危険?」


「はい。婚約の効力だけが独り歩きします」


 私は姿勢を正し、羊皮紙の上部を見た。


「表題は、王宮文書局第七封庫立会いおよび相続調査完了までの身元保証を目的とする正式婚約契約書、です」


 レオンハルト様の筆が止まった。


「長い」


「長い方が、悪用されにくいです」


「王宮文官は嫌がるだろうな」


「ぜひ嫌がっていただきたいです」


 マーサさんが後ろで小さく笑った。


 オルデン様は真面目な顔をしているが、目元だけが少し緩んでいる。


 レオンハルト様は一度だけ私を見て、それから淡々と書き始めた。


「君は、書類で敵を殴るのが上手いな」


「殴ってはいません」


「かなり近い」


「守っているだけです」


「守るために殴ることもある」


 否定したかったけれど、少しだけ否定しきれなかった。


 私は咳払いをして、条項へ移る。


「第一条。目的」


「言え」


「本契約は、セラフィナ・ロウエルの王宮文書局第七封庫への入室資格および身元保証を明確化し、先代ヴァイス公爵アルベルト様の遺言保管封確認、相続調査、ならびに関連契約原本の確認を円滑に行うことを目的とする」


 レオンハルト様の筆は迷いなく進む。


 その字は鋭く、整っていた。


 隙がない。


 でも、私の言葉を一つも削らず書いてくれる。


 それが少し嬉しい。


「第二条。期間」


 私は続けた。


「本契約の有効期間は、本日より、王宮文書局第七封庫での立会い確認、先代公爵遺言保管封の保全、相続調査制限契約原本の確認、ならびにヴァイス公爵家相続に関する主要疑義の解消まで」


「曖昧だな」


「敵が調査を長引かせる可能性があります。期限を日付だけにすると、そこを狙われます」


「では、解除条件も必要だ」


「はい。双方合意により解除可能。ただし、調査妨害、身元保証妨害、または一方への脅迫が確認された場合、保護目的が継続する限り解除を延期できる」


 レオンハルト様が私を見る。


「君を守る条項だな」


「私だけではありません。あなたもです」


「私?」


「はい。レオンハルト様が呪い……いえ、契約反応により判断を妨げられた場合、敵がそれを利用して婚約解除を迫る可能性があります」


 言いながら、私は彼の左手を見た。


 まだ少し強張っている。


 相続調査制限契約の写しを見つけた時、彼は膝をついた。


 契約原本が王宮文書局第七封庫にあるなら、明後日はもっと強く反応するかもしれない。


「つまり、私が倒れた時のためか」


「倒れる前提ではありません」


「君に言われると説得力がない」


「……倒れないでください」


 思わず本音が出た。


 レオンハルト様の筆が、ほんの少し止まる。


 彼は顔を上げなかった。


 けれど、低く答えた。


「努力する」


「努力ではなく、約束してください」


 言ってから、自分でも驚いた。


 彼も少し驚いたように私を見る。


 けれど、すぐに静かに頷いた。


「分かった。約束する」


 胸が、また鳴った。


 ただの契約書づくりなのに。


 ただの条項確認なのに。


 どうしてこんなに、一つ一つの言葉が重いのだろう。


「第三条。職務と権限」


 私は少し早口で続けた。


「セラフィナ・ロウエルは、婚約者としての身分を得た後も、ヴァイス公爵家の臨時文書監査人としての職務を継続する。婚約関係は職能行使の制限理由とはならない」


「重要だな」


「はい。婚約者になった途端、『女性として控えろ』『公爵家の名誉のため黙れ』と言われる可能性があります」


「誰に」


「王宮文書局、ロウエル家、グレン家、教会、クラウス商会、その他多数です」


「敵が多い」


「増えました」


「君が来てからだな」


「申し訳ありません」


「責めていない」


 レオンハルト様は短く言った。


「むしろ、見えるようになった」


 その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。


 見えるようになった。


 私の力は、ずっと厄介なものだと言われてきた。


 死んだ人の書類しか読めない。


 紙くず令嬢。


 気味が悪い。


 でも彼は、見えるようになったと言う。


 それは、私にとって救いに近い言葉だった。


「第四条。身体的接触および私的関係」


 私はそう言ってから、固まった。


 レオンハルト様の筆も止まる。


 マーサさんが、なぜか急に背筋を伸ばした。


 オルデン様は静かに視線を窓の外へ向ける。


 しまった。


 必要な条項だ。


 形式上の婚約なら、明記しなければならない。


 でも、声に出すと妙に恥ずかしい。


「……必要な条項です」


 私は自分に言い聞かせるように言った。


「そうだな」


 レオンハルト様の声も、わずかに低い。


「双方の同意なき身体的接触を禁じる。婚約を理由に、私的な義務、同室、同衾、贈与、親密行為を強制しない」


「当然だ」


 彼はすぐに書いた。


 迷いがない。


 そのことに安心したはずなのに、なぜか胸の端が少しだけちくりとした。


 強制しない。


 それは正しい。


 絶対に必要なこと。


 でも、では、強制でなければ。


 そんな考えが浮かびかけて、私は慌てて打ち消した。


 今は仕事。


 今は契約。


 今は。


「ただし」


 レオンハルト様が言った。


 私は顔を上げる。


「ただし?」


「護衛上必要な場合、危険回避、体調不良時の介助、または敵前で婚約関係の真実性を示す必要がある場合は、節度ある範囲で接触を認める」


 今度は私が固まった。


 節度ある範囲。


 護衛上必要。


 敵前で婚約関係の真実性を示す。


 確かに必要だ。


 王宮で「本当に婚約者なのか」と疑われる可能性はある。


 不自然な距離を取れば、形式だけだと見破られるかもしれない。


 でも。


「具体的に、節度ある範囲とは」


 自分で聞いてから、後悔した。


 応接室が静かになる。


 レオンハルト様は、少しだけ目を伏せた。


「手を取る。腕を貸す。外套をかける」


「……はい」


「倒れた場合に抱き上げる」


「それは、すでに何度か」


「だから書く」


 淡々としている。


 淡々としているのに、私の頬は熱い。


 マーサさんがとても満足そうな顔をしている気配がしたが、見ないことにした。


「それ以上は」


 レオンハルト様が筆を止めた。


「君が望まない限り、しない」


 胸が、静かに強く鳴った。


 私は視線を落とす。


「分かりました」


 それだけ言うのが精一杯だった。


「第五条。居室および生活」


 私は急いで次へ進めた。


「婚約期間中、セラフィナ・ロウエルはヴァイス公爵家客室を使用する。私室は独立し、本人の同意なく立ち入りを禁じる」


「私にも適用されるな」


「はい」


「分かった」


 即答。


 また少し安心する。


「ただし、護衛上危険がある場合、マーサさんまたは女性使用人の立会いのもとで確認可能」


「よい」


「食事、休息、医療については」


「私が条項を追加する」


 レオンハルト様が言った。


 私は瞬いた。


「レオンハルト様が?」


「ああ」


 彼は羊皮紙に書き加える。


「セラフィナ・ロウエルは、封蝋読みの行使後、必ず休息を取ること。体温低下、眩暈、指先の赤痕、吐き気、頭痛が確認された場合、本人の反論にかかわらず、ヴァイス公爵家は職務停止を命じることができる」


「本人の反論にかかわらず、ですか」


「必要だ」


「少し強すぎませんか」


「君にはちょうどいい」


「……」


「さらに、蜂蜜湯または薬湯を拒否しないこと」


「そこまで契約に入れますか」


「入れる」


 マーサさんが深く頷いた。


「大変よろしいかと」


「マーサさんまで」


「セラフィナ様には必要でございます」


 味方がいない。


 いえ、これは味方だからこそなのだろう。


 私は小さく息を吐いた。


「では、レオンハルト様にも同等の休息条項を入れてください」


 レオンハルト様の筆が止まる。


「私にも?」


「はい」


 私は彼を見た。


「契約反応により胸痛、呼吸困難、左手の震え、顔色の悪化、意識の混濁が見られた場合、本人の反論にかかわらず、調査を中断し休息すること」


「私は当主だ」


「私は文書監査人です」


「理由になっていない」


「レオンハルト様もです」


 少し強く言った。


「あなたが倒れれば、ヴァイス公爵家も、領民も、調査も危うくなります。私を休ませるなら、あなたも休んでください」


 レオンハルト様は黙った。


 その沈黙が少し長くて、不安になる。


 言い過ぎただろうか。


 けれど、彼はやがて小さく息を吐いた。


「分かった」


 そして自分の休息条項を書き加えた。


 マーサさんが静かに微笑む。


「よろしゅうございます」


 オルデン様もどこか安堵した顔をしていた。


 もしかすると、この屋敷にはずっと、レオンハルト様を止められる契約書が必要だったのかもしれない。


「第六条。外部干渉の排除」


 私は続ける。


「ロウエル男爵家、グレン子爵家、教会、クラウス商会、その他第三者が、セラフィナ・ロウエルに対し帰宅、署名、証言放棄、職能不行使、または身柄引き渡しを求めた場合、ヴァイス公爵家はこれを拒否できる」


「拒否できる、では弱い」


 レオンハルト様が言った。


「拒否する、だ」


 私は少しだけ目を見開く。


 彼は当然のように書き換えた。


「拒否する。必要に応じて抗議文、身柄保護通告、王宮への異議申立てを行う」


「強いですね」


「弱く書けば、踏み込まれる」


「はい」


 父が言った「引き渡せ」という言葉を思い出す。


 私は物ではない。


 引き渡されるものではない。


 その当たり前を、契約書に書く。


 それだけで、少し呼吸が楽になった。


「第七条。名誉と呼称」


 オルデン様が控えめに言った。


「婚約者として王宮へ赴かれるなら、呼称も整える必要がございます」


「呼称……」


「公の場では、セラフィナ様はヴァイス公爵の婚約者として扱われます。レオンハルト様をどうお呼びになるか、また旦那様がセラフィナ様をどうお呼びになるか」


 私は固まった。


 呼び方。


 それは確かに重要だ。


 王宮で「レオンハルト様」と呼ぶのは問題ない。


 でも、あまりに距離があると形式婚約を疑われるかもしれない。


 エリアス様とは、婚約期間中もずっと「エリアス様」だった。


 親しげに呼べと言われたことはない。


 呼びたいと思ったことも、あまりない。


 レオンハルト様は、私を見た。


「無理に変える必要はない」


「ですが、王宮では」


「王宮でだけ変えればいい」


「それは不自然では?」


「では、どうしたい」


 どうしたい。


 また、私に選ばせる。


 私は指先を握った。


「……公の場では、レオンハルト様、と」


「今と同じだな」


「はい。ですが、必要がある場合は、レオン様とお呼びしてもよろしいでしょうか」


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 レオン。


 たった二音短くなるだけなのに、距離が急に近くなる。


 レオンハルト様は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、静かに答えた。


「構わない」


 声が少し低かった。


「では、私は」


 彼が言いかける。


 私は慌てて顔を上げた。


「私は?」


「公の場では、セラフィナと呼ぶ」


「今もそうでは」


「今より、少し近くなる」


 どういう意味ですか。


 そう聞こうとして、やめた。


 聞けば、きっともっと落ち着かなくなる。


「……はい」


「嫌なら」


「嫌ではありません」


 即答してしまった。


 今度はレオンハルト様が黙る。


 空気が少しだけ甘くなった気がして、私は慌てて書類へ視線を戻した。


「第八条。婚約の真意について」


 私は無理やり事務的に言った。


「本契約は、王宮文書局第七封庫への入室資格確保および相続調査を目的とする。ただし、双方の名誉を損なわず、相手方を侮辱、利用、または不当に拘束しない」


「利用、か」


 レオンハルト様が呟く。


「はい。これは、双方のためです」


「君は私に利用されていると思うか」


 私は少し考えた。


 そして、首を横に振る。


「いいえ」


「なぜ」


「利用だけなら、私の意思を確認しないと思うからです」


 レオンハルト様は黙った。


 私は続ける。


「私はこの契約を選びました。だから、利用ではありません」


「ならば、私も書こう」


 彼は羊皮紙に一文を加えた。


 本契約は、双方の自由意思に基づく。


 いかなる者も、当該婚約を根拠に、一方の人格、職能、財産、発言権、移動の自由を侵害してはならない。


 その一文を読んだ時、胸の奥が熱くなった。


 婚約契約書なのに。


 まるで、私を私として扱うための宣言のようだった。


「ありがとうございます」


「必要な条項だ」


 レオンハルト様はそう言った。


 でも、私は知っている。


 必要だからだけではないと、もう分かっている。


「最後に、封蝋です」


 私は言った。


 羊皮紙には、びっしりと条項が並んでいる。


 長く、細かく、敵が嫌がりそうな契約書。


 でも、その中心には確かに、互いを守る意思があった。


 オルデン様が赤い蝋と琥珀色の蝋を用意する。


 白銀の狼。


 蔦と小鳥。


 この二つの封が、婚約契約書の下に並ぶ。


 その事実に、手が少し震えた。


「セラフィナ」


 レオンハルト様が私を呼ぶ。


「はい」


「まだ、引き返せる」


 私は彼を見た。


 冷たい公爵の顔。


 でも、その奥にある優しさを、もう知らないふりはできなかった。


「引き返しません」


「本当にいいのか」


「はい」


 私は小さく息を吸った。


「レオンハルト様は、私を王宮に一人で行かせないとおっしゃいました」


「ああ」


「私も、あなたを一人で第七封庫へ行かせません」


 彼の瞳が、静かに揺れた。


 先代公爵の封蝋の言葉。


 レオンハルトを一人にするな。


 それは、もうただの遺言ではなかった。


 私自身の意思になっていた。


「だから、封を押します」


 私は琥珀色の蝋に、蔦と小鳥の封印具を押した。


 続いて、レオンハルト様が赤い蝋に白銀の狼を押す。


 二つの封蝋が、羊皮紙の下で並んだ。


 正式婚約契約書。


 期限付き。


 条件付き。


 けれど、確かに私たちの自由意思で結ばれた契約。


 その瞬間、机の端に置かれていた王宮文書局の青い封筒が、ぱきりと小さく鳴った。


 青い封蝋の表面に、細い亀裂が入る。


 私は息を呑んだ。


 レオンハルト様がすぐに私の前へ出る。


「触るな」


「触りません」


 封蝋の亀裂から、冷たい感情が漏れ出す。


 不成立にしろ。


 身元不備で弾け。


 婚約を認めるな。


 ロウエル家の異議を使え。


 グレン家の証言を使え。


 それでも駄目なら――


 そこで、感情が一気に濁った。


 婚約者として来るなら、花嫁候補の審査にかけろ。


 私は目を見開いた。


「花嫁候補の審査……?」


 マーサさんの顔色が変わる。


 オルデン様も険しい表情になる。


 レオンハルト様が低く問う。


「何を読んだ」


「王宮文書局は、私の入室資格を別の方法で揺さぶるつもりです」


「別の方法?」


 私は青い封蝋を見つめた。


 亀裂の奥で、銀色の粉がきらりと光る。


「婚約者として王宮へ行けば、今度は私を“公爵家の花嫁に相応しいか”で審査するつもりです」


 応接室が静まり返る。


 身分。


 血筋。


 礼法。


 過去の婚約破棄。


 偽造疑惑。


 ロウエル家の照会。


 私を落とす理由はいくらでも作れる。


 でも。


 私は封を押したばかりの婚約契約書を見た。


 逃げ道を塞がれたのではない。


 戦う場所が変わっただけだ。


 レオンハルト様が、静かに私の隣へ立った。


「ならば、審査でも何でも受ければいい」


「レオンハルト様」


「君が相応しいかどうかを、王宮文官が決める必要はない」


 彼は婚約契約書に指を置いた。


 白銀の狼と、小さな鳥の封のすぐ上に。


「私が選んだ」


 胸が、強く鳴った。


「それで十分だ」


 王宮文書局の青い封蝋が、もう一度小さく軋んだ。


 まるで、その言葉を嫌がるように。

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