第22話 花嫁候補の戦装束
――婚約者として来るなら、花嫁候補の審査にかけろ。
王宮文書局の青い封蝋から漏れたその感情は、しばらく私の耳の奥に残っていた。
花嫁候補の審査。
その言葉だけ聞けば、華やかな響きがある。
美しいドレス。
礼法。
血筋。
家格。
王宮での立ち居振る舞い。
けれど、そこに込められているのは祝福ではない。
私を王宮文書局第七封庫へ入れないための、新しい口実だ。
ロウエル家の身元照会。
グレン家との婚約破棄。
遺言書偽造疑惑。
下級貴族の娘。
外れ職と笑われる封蝋読み。
彼らはきっと、それらを一つずつ並べる。
そして言うのだろう。
ヴァイス公爵家の婚約者として相応しくない、と。
私は机の上に置かれた婚約契約書を見つめた。
白銀の狼と、蔦と小鳥の封。
並んだ二つの封蝋は、夜の灯りの中で静かに光っていた。
この封は、私を縛るためのものではない。
私が選んだものだ。
それでも、婚約者という言葉はまだ胸の奥を落ち着かなくさせる。
「セラフィナ様」
マーサさんの声で、私は顔を上げた。
「明後日の王宮行きに向けて、装いを整えねばなりません」
「装い、ですか」
「はい」
マーサさんはとても真剣な顔で頷いた。
「王宮文書局が花嫁候補の審査を持ち出すなら、こちらも相応の準備をいたします」
「でも、私は審査を受けに行くのではなく、遺言保管封の確認に」
「もちろんでございます」
マーサさんは穏やかに微笑んだ。
「ですが、敵が服装や礼法で足をすくおうとするなら、そこも塞ぎます」
書類の抜け穴を塞ぐのと同じ。
そう言われている気がした。
私は少しだけ背筋を伸ばす。
「分かりました。必要な準備を教えてください」
「まず、ドレスです」
マーサさんの目が、急に職人のようになった。
「セラフィナ様がお持ちの夜会用ドレスは?」
「……ロウエル家に置いてきました」
「取りに戻る必要はございません」
即答だった。
「むしろ、戻ってはなりません。あちらの衣装には何を仕込まれているか分かりませんので」
仕込まれている。
そこまで考えていなかった。
でも、ミリアならやりかねない。
ドレスの裾をわずかにほつれさせる。
香水に強い匂いを混ぜる。
手袋に封蝋読みを妨げる粉を仕込む。
小さな嫌がらせでも、王宮では大きな失点にされる。
「ヴァイス公爵家で用意する」
レオンハルト様が言った。
いつの間にか、彼は応接室の入口近くに立っていた。
書類整理のために一度席を外していたはずなのに、話を聞いていたらしい。
「よろしいのですか」
「私の婚約者として王宮へ行くのだ。こちらで用意するのが当然だ」
私の婚約者。
まだ、その言葉に慣れない。
けれど、彼は当然のように言った。
当然。
まただ。
この屋敷に来てから、私は何度もその言葉に救われている。
「ただし、派手なものは避けたいです」
私は言った。
「王宮で目立ちすぎると、かえって攻撃材料になります」
「地味すぎても、侮られます」
マーサさんがすぐに返す。
「公爵家の婚約者として不足なく、しかし花嫁気取りではなく。職能者としての品格も必要です」
「難しいですね」
「得意でございます」
マーサさんは頼もしく言った。
その横顔に、なぜか少し戦場へ向かう将軍のような迫力があった。
そうして私は、翌朝から支度のために小さな衣装室へ連れていかれた。
ヴァイス公爵家の衣装室は、想像していたより落ち着いていた。
華美な宝石や派手な羽飾りではなく、上質な布、繊細な刺繍、手入れの行き届いた手袋やリボンが整然と並んでいる。
マーサさんは何着ものドレスを並べた。
深い紺。
銀灰。
淡い菫色。
白に近い青。
どれも美しい。
でも、私には少し立派すぎる気がした。
「私には、少し」
「似合います」
マーサさんが即答した。
「まだ着ていませんが」
「似合います」
強い。
私は押し負けた。
最終的に選ばれたのは、銀灰色のドレスだった。
派手ではない。
けれど、光の角度によって淡い青にも見える。
袖口と襟元には、白銀の糸で小さな蔦模様が刺繍されていた。
胸元は控えめで、首筋を上品に見せる形。
裾は広がりすぎず、歩きやすい。
そして何より、腰の内側に小さな文書用ポケットが隠されていた。
「ポケットが」
私が驚くと、マーサさんは誇らしげに頷いた。
「封蝋読みの令嬢に、文書を持てないドレスなど不要でございます」
「……ありがとうございます」
本当に、ありがたかった。
美しく見せるためだけの衣装ではない。
仕事ができるように作られている。
私の職能を邪魔しないためのドレス。
それが、胸に染みた。
「手袋もございます」
マーサさんが差し出したのは、白絹の手袋だった。
以前レオンハルト様が贈ってくださったものより、さらに上質だ。
指先には銀糸で小鳥と蔦。
手首の内側には、ほとんど見えないほど小さく、白銀の狼の刺繍が入っている。
「これは……」
「旦那様からでございます」
胸が跳ねた。
「レオンハルト様が?」
「はい。職能を妨げず、封蝋に直接触れすぎないよう、指先は薄く、手首は冷えないよう厚めに、と細かくご指示を」
私は手袋を見つめた。
白い絹。
小鳥と蔦。
狼。
美しいだけではない。
守るための手袋。
「……細かいですね」
「旦那様は、必要と判断したことには細かい方です」
必要。
また、その言葉。
でも今は、少しだけ違う意味に聞こえる。
私は手袋をはめた。
指先にぴたりと合う。
冷えやすい手首が、柔らかく包まれる。
封蝋読みの代償を知った上で作られたものだと、すぐに分かった。
「痛くありませんか」
マーサさんが尋ねる。
「はい。とても……温かいです」
「それはようございました」
鏡の前に立つ。
そこには、私が知っている私とは少し違う令嬢がいた。
紙くず令嬢と笑われた娘ではない。
ロウエル家で古い書類に埋もれていた娘でもない。
銀灰色のドレスをまとい、白い手袋をはめた、ヴァイス公爵家の婚約者。
そして、文書監査人。
私は鏡の中の自分を見つめ、ゆっくり息を吸った。
怖くないわけではない。
王宮へ行けば、きっと笑われる。
試される。
疑われる。
でも、俯かない。
「セラフィナ様」
マーサさんが静かに言った。
「王宮では、笑顔で黙る必要はございません」
私は鏡越しに彼女を見る。
「よろしいのですか」
「もちろん、無礼になってはいけません。ですが、理不尽な問いには、理不尽だと分かるようにお答えになればよろしいのです」
「それは、かなり難しいです」
「セラフィナ様ならできます。書類で人を殴るのがお上手ですから」
「マーサさんまで、レオンハルト様と同じことを」
「まあ、旦那様もそのようなことを?」
マーサさんは嬉しそうだった。
私は少し困ってしまう。
「殴ってはいません」
「では、封じるのがお上手」
「それなら……少しだけ」
私がそう言うと、マーサさんは満足そうに頷いた。
その後、礼法の確認が始まった。
王宮文書局の立会いでは、王妃や王族に謁見するわけではない。
だが、文書局の上級官、王宮監査官、場合によっては教会証人が同席する。
礼の角度。
名乗り。
婚約者としての立ち位置。
公爵の斜め後ろではなく、半歩横。
ただし、会話ではレオンハルト様を立てる。
封蝋確認の場では、指定確認者として前へ出る。
「半歩横……」
私は呟いた。
「後ろではないのですね」
「婚約者ですから」
マーサさんが言った。
「それに、先代様はセラフィナ様を指定確認者としてお呼びになったのです。後ろに隠れていては、相手の思うつぼでございます」
半歩横。
それは、想像していたより難しかった。
私は誰かの後ろにいることに慣れている。
父の後ろ。
ミリアの影。
エリアス様の隣にいても、実際には後ろだった。
でも、レオンハルト様の婚約者として王宮へ行くなら、半歩横に立つ。
それが必要なのだ。
午後になって、レオンハルト様が衣装室へ来た。
彼も王宮用の礼装に着替えていた。
黒を基調に、銀糸でヴァイス家の狼紋が入った上着。
いつもよりさらに冷たく、近寄りがたいほど美しい。
けれど、私を見るなり、彼は一瞬だけ足を止めた。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……変、でしょうか」
思わず聞いてしまった。
レオンハルト様は黙っている。
黙られると、不安になる。
「やはり、公爵家の婚約者としては」
「違う」
彼は短く遮った。
「よく似合っている」
胸が、どん、と鳴った。
「……ありがとうございます」
「銀灰は正解だな」
彼の視線が、手袋へ落ちる。
「手袋は」
「いただきました。ありがとうございます」
「痛くないか」
「はい。とても温かいです」
「そうか」
それだけ言って、彼は少しだけ目を伏せた。
その仕草が、なぜか照れているように見えてしまう。
いえ、そんなはずは。
冷徹公爵が手袋の感想で照れるはずがない。
ない、と思いたい。
「立ち位置の確認をいたしましょう」
マーサさんが妙に張り切った声で言った。
広間へ移動し、実際に王宮での動きを練習することになった。
レオンハルト様が歩く。
私は半歩横。
近すぎず、離れすぎず。
王宮の廊下で、婚約者として不自然でない距離。
これが思ったより難しい。
少し後ろに下がると、マーサさんがすぐ指摘する。
「セラフィナ様、後ろではございません」
「はい」
前に出すぎると、今度はオルデン様が言う。
「指定確認者としてはよいですが、通常移動時は半歩控えめに」
「はい」
何度か繰り返すうちに、足元ばかり気にしてしまい、レオンハルト様の腕にぶつかりかけた。
「あ、申し訳ありません」
よろめいた私の手を、レオンハルト様が取る。
黒い手袋と、白い手袋。
契約書に書いた通りの、節度ある接触。
手を取る。
腕を貸す。
外套をかける。
倒れた場合に抱き上げる。
条項として書いたはずなのに、実際に手を取られると、文字よりずっと近い。
「足元ではなく、前を見ろ」
レオンハルト様が言った。
「ですが、距離が」
「私が合わせる」
「レオンハルト様が?」
「ああ」
彼は私の手を離さないまま、ゆっくり歩き出した。
「君は前を見る。必要な距離はこちらで取る」
私は言われた通り、前を見た。
すると、不思議と歩きやすかった。
彼の歩調が、私に合わせて少しだけ緩んでいる。
大股で先へ行かない。
置いていかない。
私が遅れれば、気づかれないほど自然に待つ。
半歩横。
それは、私が必死に合わせる距離ではなかった。
二人で作る距離だった。
「これなら」
私が小さく言うと、彼は頷いた。
「問題ない」
「王宮でも、こうして歩くのですか」
「必要なら」
「婚約者らしく、ですか」
「そうだ」
少し間があった。
それから彼は、低く付け加えた。
「君が嫌でなければ」
私は手袋越しに、自分の指が熱くなるのを感じた。
「嫌では、ありません」
声が小さくなった。
でも、彼には聞こえたらしい。
「そうか」
たった二文字。
それなのに、握られた手がほんの少しだけ確かになった気がした。
練習が終わる頃、マーサさんは非常に満足そうだった。
「よろしゅうございます。これなら王宮の誰が見ても、正式な婚約者として不足はございません」
「それは、少し困ります」
私が呟くと、マーサさんはにっこり笑った。
「困るほど自然でなければ、敵を騙せません」
「騙すというより、身元保証のためで」
「はい。大変自然な身元保証でございます」
何も言い返せない。
レオンハルト様も黙っているが、ほんのわずかに目を逸らしていた。
その時、オルデン様が書類を持って入ってきた。
「旦那様。王宮文書局より、追加の出席者名簿が届きました」
「誰が出る」
「文書局側は、局長代理、担当文官イザーク・メルヴィン、封庫管理官二名。教会側からは、ベルナール司祭の代理として、大神殿監査司祭セルジオ」
「教会まで来るか」
「はい。それと」
オルデン様は一度、私を見た。
「花嫁候補審査の名目で、王宮礼法顧問が同席するようです」
「名前は」
「クラリッサ・フォン・ルヴェール伯爵夫人」
マーサさんの表情が、わずかに硬くなった。
私はその変化に気づく。
「ご存じなのですか」
「ええ」
マーサさんは静かに答えた。
「王宮で長く礼法顧問を務める方です。表向きは公平で厳格。ただし、家格の低い令嬢には特に厳しいことで有名です」
「つまり、私には厳しい」
「はい」
はっきり言われた。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
曖昧に慰められるより、ずっといい。
「対策はありますか」
「ございます」
マーサさんが即答する。
「クラリッサ夫人は、形式を重んじます。ですから、こちらも形式で返せばよろしいのです。家格を問われたら、正式婚約契約書。身元を問われたら、公爵家家門封。礼法を問われたら、王宮文書局からの通知に従った立会人としての資格」
「感情ではなく、形式」
「はい。セラフィナ様の得意分野でございます」
私は頷いた。
形式で攻めてくるなら、形式で返す。
書類で閉じようとするなら、書類で開く。
私にできることは、それだ。
オルデン様がもう一枚の紙を差し出した。
「それから、ロウエル男爵家より王宮文書局へ、セラフィナ様の身元確認に関する追加照会が出されています」
「内容は」
「セラフィナ様はロウエル家において精神的に不安定であり、封蝋読みの職能を過信し、虚偽の主張をする傾向があるため、王宮封庫への入室を認めないよう求める、と」
一瞬、胸が冷えた。
父の言葉だ。
私を直接連れ戻せなかったから、今度は私の信用を壊そうとしている。
ミリアがよく使った手でもある。
お姉様は疲れている。
お姉様は思い込みが激しい。
お姉様は私を妬んでいる。
そうやって、私の言葉は何度も軽くされてきた。
でも今、レオンハルト様の声が落ちた。
「反論書を出す」
「はい」
オルデン様が即座に頷く。
「文面は」
レオンハルト様は私を見た。
「君が書くか」
私は少しだけ息を吸った。
また父と向き合うことになる。
でも、大丈夫。
今度は一人ではない。
「はい」
私は白手袋を整えた。
「ただし、感情的な反論ではなく、記録で返します」
「よい」
「ロウエル家の夜会での除籍宣言、偽造遺言書の保全、ミリア様の発言、エリアス様の確認書、そしてヴァイス公爵家との正式婚約契約書を添付します」
「十分だ」
レオンハルト様が言った。
「それと、私からも一文入れる」
「何と」
彼は淡々と答えた。
「セラフィナ・ロウエルの精神的安定性について疑義を述べる前に、公衆の面前で娘を偽造犯として断罪したロウエル男爵自身の判断能力について、同等の確認を求める、と」
私は思わず目を瞬いた。
「それは……かなり強いです」
「事実だ」
「王宮文書局が驚くのでは」
「驚けばいい」
マーサさんが口元を押さえた。
オルデン様は非常に真面目な顔で頷いている。
私は少し迷ったあと、小さく笑ってしまった。
レオンハルト様がこちらを見る。
「何だ」
「いえ。私より、レオンハルト様の方が書類で殴るのがお上手かもしれません」
「君の影響だ」
「光栄です」
「褒めてはいない」
けれど、彼の目は少しだけ柔らかかった。
その夜。
私は王宮へ持っていく書類を最後に確認した。
銀灰色のドレス。
白い手袋。
婚約契約書。
先代公爵の覚書。
遺言保管封異議申立書。
そして、私自身の封印具。
机の上に並べると、それらはまるで武器のように見えた。
剣でも魔法杖でもない。
けれど、私にとっては確かな戦装束だった。
眠る前、マーサさんが温かい蜂蜜湯を置いてくれた。
「明日は早くお休みくださいませ。明後日は王宮です」
「はい」
「それと」
マーサさんは少しだけ声を落とした。
「王宮では、旦那様のことをよろしくお願いいたします」
「私が、ですか」
「はい」
彼女は窓の外を見た。
夜の庭は静かで、月明かりが薄く差している。
「旦那様は、お強い方です。けれど、お強い方ほど、倒れるまで助けを求めません」
それは、よく分かる。
レオンハルト様は誰かを守ることには迷わない。
でも、自分が守られることには慣れていない。
「私は、何ができるでしょうか」
「半歩横に」
マーサさんは微笑んだ。
「それだけで、きっと十分でございます」
半歩横。
私はその言葉を胸にしまった。
翌朝。
王宮へ向かう前日。
最後の準備を整えるため、私は書斎へ向かった。
すると、扉の前でレオンハルト様が待っていた。
彼の手には、小さな銀の箱がある。
「セラフィナ」
「はい」
「これを」
差し出された箱を開けると、中には細い銀の髪飾りが入っていた。
蔦の形をした飾り。
その先に、小さな白い鳥。
さらに、鳥の足元には小さな狼の紋が刻まれている。
「王宮では、手元だけではなく、髪にも公爵家の庇護を示す印があった方がいい」
レオンハルト様は淡々と言った。
「身元保証のためだ」
「……はい」
身元保証。
それが理由なのは分かっている。
でも、私は銀の髪飾りから目を離せなかった。
「ありがとうございます」
「嫌なら使わなくていい」
「嫌ではありません」
私は箱を両手で持った。
「大切に使います」
レオンハルト様は少しだけ目を伏せた。
その時、廊下の向こうからオルデン様が足早にやってきた。
「旦那様、セラフィナ様。王都から新たな知らせです」
「またか」
「はい。明日の王宮文書局立会いに、グレン子爵令息が証人として出席を申し出たとのことです」
胸の奥が冷える。
エリアス様が、王宮へ。
「理由は」
レオンハルト様が問う。
「セラフィナ様の元婚約者として、婚約破棄の経緯および人格証言を行う、と」
人格証言。
つまり、私を貶めるために来る。
私は銀の髪飾りを握りしめた。
けれど、もう昨日の私ではない。
レオンハルト様が静かに言った。
「来ればいい」
その声は冷たかった。
でも、隣にいる私には分かる。
それは怒りだけではない。
守るための声だ。
「王宮で、全て記録に残す」
私は頷いた。
銀灰色のドレス。
白い手袋。
狼と小鳥の髪飾り。
そして、封蝋を読む力。
明日、私は王宮へ行く。
花嫁候補として試されるためではない。
嘘の封を、開くために。




