第23話 王宮文書局の青い封
王宮文書局は、王宮の東棟にあった。
華やかな謁見の間や舞踏会場とは違い、そこは静かで、冷たく、紙と石の匂いがした。
高い天井。
白い柱。
青い紋章旗。
壁には歴代の文書局長の肖像画が並び、その下を王宮文官たちが音もなく行き交っている。
王国の契約、遺言、婚姻、相続、爵位、領地、税、罪。
人の人生を形にする書類が、この場所で保管され、確認され、時には書き換えられる。
私は馬車を降りる前に、白手袋の指先を整えた。
銀灰色のドレス。
蔦と小鳥の白手袋。
髪には、レオンハルト様からいただいた銀の髪飾り。
鳥の足元に刻まれた、小さな白銀の狼。
それは、ただの飾りではない。
ヴァイス公爵家の庇護を示す印。
そして、私が自分で選んだ婚約契約の証でもあった。
「セラフィナ」
向かいに座るレオンハルト様が、私の名を呼んだ。
「はい」
「顔色は」
「問題ありません」
「その返事は信用しない」
「……少し緊張しています。でも、体調は本当に大丈夫です」
レオンハルト様はしばらく私を見た。
そして、黒い手袋の手を差し出す。
「行くぞ」
私はその手を取った。
契約書に書いた通りの、節度ある接触。
護衛上必要な場合。
敵前で婚約関係の真実性を示す必要がある場合。
そう条項に書いたはずなのに、実際に手を取ると、やはり文字よりずっと近い。
馬車の扉が開く。
王宮文書局の石畳へ降り立つと、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
門の前には、すでに何人もの人影があった。
王宮文書局の文官たち。
白い法衣をまとった教会の監査司祭。
そして、見覚えのある金髪。
エリアス様だった。
彼は私を見るなり、露骨に眉をひそめた。
しかし、私の隣に立つレオンハルト様と、私の髪飾りに刻まれた狼の紋を見て、すぐに表情を歪める。
「……本当に婚約者のつもりか」
小さな声だった。
けれど、聞こえた。
私は返事をせず、ただ彼を見た。
昨日までなら、何か言われただけで胸が詰まっていた。
でも今は違う。
ここは王宮文書局。
すべてが記録される場所。
ならば、私も記録に残るよう振る舞うだけだ。
「ヴァイス公爵閣下」
王宮文書局の入口から、一人の女性が進み出た。
年の頃は四十代半ば。
背筋はまっすぐで、灰色の髪を美しく結い上げている。
深緑のドレスは控えめだが、生地も仕立ても一目で上質と分かるものだった。
鋭い目。
薄い微笑み。
この人が、王宮礼法顧問クラリッサ・フォン・ルヴェール伯爵夫人だろう。
「本日は、王宮文書局へのご出席、誠にご苦労様でございます」
「形式的な挨拶はいい」
レオンハルト様は淡々と言った。
「第七封庫へ案内を」
クラリッサ夫人の微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「その前に、確認がございます」
来た。
私は心の中で息を整えた。
クラリッサ夫人の視線が、私へ向く。
「こちらが、セラフィナ・ロウエル嬢でいらっしゃいますね」
「はい。セラフィナ・ロウエルと申します」
私は一歩前へ出て、礼をした。
深すぎず、浅すぎず。
昨日マーサさんと何度も練習した角度。
公爵の婚約者として礼を失わず、指定確認者として卑屈になりすぎない。
クラリッサ夫人の目が、わずかに細くなる。
「ロウエル男爵家のご令嬢であり、昨日グレン子爵令息との婚約破棄があった方。さらに、現在はヴァイス公爵閣下の婚約者であると伺っております」
周囲の文官たちが、かすかにざわめいた。
昨日婚約破棄。
今日、公爵の婚約者。
その響きだけなら、たしかに異様だ。
そこを突きたいのだろう。
「正確には、昨日グレン子爵令息より一方的な婚約破棄宣言を受けました。ただし、当該婚約破棄については、現在正式書類の確認中です」
私は静かに答えた。
「また、ヴァイス公爵閣下との婚約については、王宮文書局第七封庫入室および先代ヴァイス公爵遺言保管封確認における身元保証を目的とした正式婚約契約を、双方自由意思により締結しております」
クラリッサ夫人の笑みが止まった。
私は続ける。
「契約書原本および写し、公爵家家門封、私の個人封、証人署名は提出可能です」
形式で来るなら、形式で返す。
マーサさんの言葉を思い出す。
クラリッサ夫人は、少しだけ顎を上げた。
「準備がよろしいこと」
「書類に関する場ですので」
「ただ、王宮は書類だけで動く場所ではございません。公爵家の婚約者として相応しい品位も求められます」
「承知しております」
「では伺います。セラフィナ嬢。あなたはロウエル男爵家より、精神的に不安定であり、封蝋読みの職能を過信して虚偽の主張をする傾向があると照会を受けております」
冷たい刃のような言葉だった。
周囲が静まる。
エリアス様が、わずかに口元を上げた。
私は胸の奥に小さく痛みを感じた。
父は本当に、それを王宮に出したのだ。
けれど、もう驚かない。
「その照会については、ヴァイス公爵家より反論書を提出済みです」
「拝見しております」
「では、こちらから確認いたします」
私はクラリッサ夫人をまっすぐ見た。
「ロウエル男爵家は、私が精神的に不安定であるとする根拠を、医師の診断書、王宮認定記録、過去の公的処分記録のいずれかで示していますか」
クラリッサ夫人の表情がわずかに動いた。
「家族からの照会は、一定の参考資料となります」
「参考資料であって、資格剥奪の根拠ではありません」
私は言った。
「また、ロウエル男爵は昨夜、私を公衆の面前で偽造犯と断じ、除籍を宣言した直後、本日には父権を根拠に私の引き渡しを要求しました。判断の一貫性について疑義があります」
エリアス様が顔を歪める。
クラリッサ夫人の目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「父親への敬意に欠ける発言では?」
「いいえ。親族照会の信頼性について、記録に基づき確認しているだけです」
「あなたは、実父を疑うのですか」
「はい」
私は静かに答えた。
ざわめきが起きる。
けれど、私は続けた。
「書類上の矛盾があるためです。親子関係は、文書の矛盾を消す理由にはなりません」
クラリッサ夫人は、しばらく私を見つめた。
私も視線を逸らさなかった。
怖くないわけではない。
でも、ここで俯けば、きっと彼らは言う。
やはり不安定だ。
やはり公爵家の婚約者には相応しくない。
だから私は、立つ。
半歩横に。
レオンハルト様の隣に。
「なるほど」
クラリッサ夫人が言った。
「では、あなたはご自身がヴァイス公爵家の婚約者として相応しいと?」
来た。
花嫁候補の審査。
周囲の文官たちが、こちらを窺っている。
エリアス様の視線には嘲りがある。
お前が公爵家に相応しいはずがない。
そう言われているようだった。
私は一度だけ、横に立つレオンハルト様を見た。
彼は何も言わない。
けれど、その静けさは私を突き放していない。
必要なら、いつでも前へ出る。
そういう静けさだった。
「相応しいかどうかを、私が自称する必要はありません」
私は答えた。
「では、誰が決めると?」
「婚約者であるヴァイス公爵閣下と、正式婚約契約書です」
クラリッサ夫人の眉がわずかに上がる。
「契約書が、花嫁の相応しさを決めると?」
「少なくとも、本日の第七封庫入室資格については決めます」
私ははっきり言った。
「本日は婚礼の場ではありません。先代ヴァイス公爵遺言保管封の状態確認であり、私は先代公爵の指定確認者です。花嫁としての嗜好、装飾、家格の評価は、本来の手続きとは無関係です」
クラリッサ夫人の笑みが消えた。
「ですが、公爵家の婚約者として」
「婚約者としての身元保証は、婚約契約書、公爵家家門封、証人署名により満たしています」
私は一歩も退かなかった。
「それ以上の花嫁適性審査を第七封庫入室の条件とする場合、その法的根拠と、審査権限を持つ機関名、審査記録の保存先をご提示ください」
沈黙。
王宮文書局の入口前で、誰もすぐには言葉を発しなかった。
遠くで紙を運ぶ文官の足音だけが聞こえる。
クラリッサ夫人は、初めて私を値踏みではなく、観察する目で見た。
「……面白い方ね」
「恐れ入ります」
「褒めたわけではありません」
「承知しております」
マーサさんがここにいたら、少し笑ったかもしれない。
クラリッサ夫人は小さく息を吐き、レオンハルト様へ向き直った。
「ヴァイス公爵閣下。あなたは、この方を正式に婚約者として認め、身元を保証なさるのですね」
「ああ」
レオンハルト様は即答した。
「私が選んだ」
その一言に、胸が強く鳴る。
昨日も聞いた言葉。
でも王宮の前で、他人の前で聞くと、重さが違った。
エリアス様の顔が歪む。
クラリッサ夫人は静かに頷いた。
「では、礼法顧問としての確認は一旦保留いたします」
「保留?」
レオンハルト様の声が冷える。
「不許可とは申し上げておりません。第七封庫への入室を妨げるものではないと判断いたします」
つまり、第一関門は通った。
完全に認められたわけではない。
でも、足止めはできなかった。
私は小さく息を吐いた。
その時、入口の奥から一人の男性が現れた。
細身の体。
青い文官服。
白い手袋。
右手には、細い銀の指輪。
私は、その指輪を見た瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
ノアの封蝋に残っていた、銀の指輪。
ミーナの証言。
契約書の余白に呪いを書く文官。
そして。
「ようこそ、ヴァイス公爵閣下」
男は柔らかく微笑んだ。
「お待ちしておりました」
声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものは、冷たい紙の刃に似ていた。
「王宮文書局担当官、イザーク・メルヴィンでございます」
来た。
私は白手袋の指先を握った。
イザークは私へ視線を向ける。
その目は、私を見ているようで、私の背後にある封蝋だけを見ているようだった。
「そして、あなたがセラフィナ・ロウエル嬢ですね」
「はい」
「噂は伺っております。封蝋読みの職能をお持ちだとか」
「ええ」
「素晴らしい。ただし、王宮文書局では、職能の行使には制限がございます」
さっそく来た。
私は姿勢を崩さず答える。
「承知しております。立会い手続きに定められた範囲でのみ確認いたします」
「よろしい」
イザークは微笑んだ。
「ただし、第七封庫内の封蝋には、王宮の保全術式が施されています。不用意に触れれば、証拠破損として扱われる可能性があります」
「不用意には触れません」
「それは安心しました」
彼の視線が、私の手袋へ落ちる。
白絹。
蔦と小鳥。
手首の内側にある、小さな狼。
イザークの目が、ほんの一瞬だけ冷えた。
この手袋が、公爵家の庇護を示していると気づいたのだろう。
「では、手続きへ移りましょう」
イザークが踵を返す。
その先には、重い青銅の扉があった。
扉の上には、王宮文書局の青い封蝋印。
その奥が、第七封庫へ続く廊下。
レオンハルト様が私の隣へ並ぶ。
「行けるか」
「はい」
「無理はするな」
「契約書に書きましたので」
「君は書いても破る」
「今日は破りません」
「信用しておこう」
そう言って、彼は私の手を取った。
周囲の視線が集まる。
エリアス様が息を呑む音が聞こえた。
クラリッサ夫人は静かに私たちを見ている。
イザークは背中を向けたまま、ほんの少しだけ足を止めた。
見せるための接触。
婚約者として不自然でない距離。
でも、手袋越しに伝わる温度は、形式だけではなかった。
私は半歩横に立ち、前を見た。
青銅の扉が開く。
冷たい空気が流れ込む。
その瞬間、扉の青い封蝋がかすかに震えた。
封蝋の奥から、微かな感情が漏れる。
入れるな。
読ませるな。
レオンハルトを、奥へ進ませるな。
私は息を整えた。
ここから先は、敵の書庫だ。
嘘を守るために封じられた場所。
でも、封蝋は嘘を覚えている。
ならば私は、読む。
青い扉の向こうへ一歩踏み出した時、イザークが振り返り、微笑んだ。
「では、第七封庫へご案内いたします。どうか、何も触れずにお進みください」
その言葉と同時に、レオンハルト様の手が一瞬だけ強くなった。
彼の顔色が、わずかに白い。
契約反応。
まだ封庫に入る前なのに、もう始まっている。
私は彼の手を握り返した。
半歩横。
一人にしない。
そう決めたから。
そして、青い封蝋の冷たい気配の中で、私は小さく囁いた。
「大丈夫です、レオン様」
彼の瞳が、わずかに揺れた。
その一瞬だけ、王宮文書局の冷たい廊下で、私たちの足音が重なった。




