第8話 紙くず令嬢、初めて疑われる
ヴァイス公爵邸の北壁の奥で、誰にも開けられていないはずの書庫の扉が軋んだ。
けれど、その音を聞いた者はいなかった。
翌朝、私が目を覚ました時、窓の外は薄い灰色の光に包まれていた。
雨は上がっている。
けれど空は重く、屋敷の尖塔にはまだ夜の名残のような雲が絡んでいた。
昨夜のことが夢ではなかった証拠に、机の上にはノアの手紙があり、私の指先には薄い赤い痕が残っている。
紙くず令嬢。
そう笑われた私が、今は呪われた公爵家の客室で目を覚ましている。
おかしなことだ。
けれど、胸の奥には昨日までなかった小さな芯があった。
嘘を、そのままにはしない。
身支度を終えると、マーサさんが朝食とともに新しい白手袋を持ってきてくれた。
「旦那様からです」
「レオンハルト様から?」
「ええ。昨夜の手袋は封蝋の痕が残っておりましたので」
差し出された手袋は、上質な白絹で作られていた。
指先には薄い銀糸で、小さな蔦模様が刺繍されている。
「こんな高価なもの、いただけません」
「お仕事道具です」
マーサさんは、まるでレオンハルト様の言葉をそのまま写したような顔で言った。
「旦那様は、必要なものは用意するとおっしゃっていました」
胸が少しだけ温かくなる。
けれど、私はそれをごまかすように手袋を受け取った。
「大切に使います」
「使うためのものですから、遠慮なく」
朝食後、私はレオンハルト様と合流した。
書斎の前には、すでにオルデン様、数名の書記官、そしてノアが待っていた。
ノアは昨夜より顔色が良い。
私を見ると、少し緊張した様子で頭を下げる。
「おはようございます、セラフィナ様」
「おはようございます、ノアさん。眠れましたか」
「少しだけ。でも、マーサさんがミルクをくれました」
「それはよかったです」
そう答えた時、廊下の端から小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、若い侍女と書記官が二人、こちらを見てひそひそ話している。
「来たばかりなのに、もう使用人の事情に口出しですか」
「婚約破棄されたばかりの方が、公爵家の帳簿を見るなんて」
「紙くず令嬢に何が分かるのかしら」
声は小さい。
けれど、聞こえるように言っている。
ノアの顔が強張った。
私は何も言わなかった。
言葉で言い返しても、彼らは納得しない。
夜会場と同じだ。
人は、信じたい形で相手を見る。
ならば、書類で示すしかない。
レオンハルト様が冷たい目をそちらへ向けた。
侍女と書記官たちは、慌てて姿勢を正す。
「旦那様、私は気にしていません」
「私は気にする」
短い返答だった。
「だが、君が黙らせるつもりなら止めない」
「……ありがとうございます」
「礼を言うところではない」
その言い方が少しだけおかしくて、私は小さく息を整えた。
まず向かったのは、失踪した帳簿係リックの部屋だった。
使用人棟の二階。狭いが、きちんと整えられた部屋。
机の上にはインク壺、古い帳簿写し、折れた羽根ペン。棚には、ノアと二人で写った小さな肖像画が飾られていた。
リックは逃げたのではない。
部屋を見ただけで、そう分かる。
逃亡者の部屋は、もっと荒れる。金目の物が消え、衣服が減り、証拠を燃やそうとする。
けれどこの部屋は、途中で生活だけが切り取られたようだった。
「兄さんの上着が、そのままです」
ノアが震える声で言った。
「夜に出る時は、いつもこれを着るのに」
私は机に近づいた。
引き出しは開いている。
中は空に見えるが、底板の端に不自然な削れがあった。
「この引き出し、二重底ですね」
オルデン様が目を細める。
「よくお気づきで」
「書類を隠す人は、鍵付きの箱より引き出しの底を好みます。鍵は鍵穴で疑われますから」
レオンハルト様が何か言いたそうにこちらを見る。
「……何でしょうか」
「本当に見習いか」
「失敗例の整理係でしたので」
「便利な整理係だ」
褒めているのだろうか。
たぶん、褒めているのだと思うことにした。
オルデン様が小刀で底板を外す。
中から出てきたのは、未開封の手紙が一通と、小さな金属片だった。
金属片は指輪の一部。
細い銀の指輪から、紋章部分だけが欠け落ちたようなものだ。
「これ……」
私は息を呑んだ。
昨夜、ノアの封蝋から読み取ったもの。
細い銀の指輪。
王宮の青いインク。
「セラフィナ様?」
ノアが不安げに見る。
「大丈夫です。これは、きっと大事な証拠です」
未開封の手紙には、封蝋が押されていた。
リックのものだろう。簡素な茶色の蝋。印は、羽根ペンと小さな月。
宛名は、ノアへ。
ノアの顔が揺れた。
「兄さんから……僕に?」
「開けてもいいですか」
私は尋ねた。
ノアは両手を握りしめ、頷く。
「はい」
封を切る前に、私は封蝋にそっと触れた。
新しい白手袋の指先が、わずかに冷える。
けれど昨夜ほど痛くはない。
流れ込んできたのは、兄の焦りと愛情だった。
ノアを巻き込むな。
旦那様に届ける。
黒い帳簿は本物だ。
孤児院の名簿が合わない。
俺が戻らなければ、北壁の書庫を――
そこで感情が途切れている。
私は封を開け、手紙を読んだ。
『ノアへ。
もし俺が戻らなかったら、この手紙を旦那様に渡してくれ。
孤児院と施療院の支援金が、帳簿上だけで動いている。
クラウス商会の受領印は偽物だ。
だが、本当に怖いのは商会ではない。公爵家本帳を書き換えている者が屋敷内にいる。
俺はその者の筆跡を見つけた。
黒い帳簿は北壁の書庫に隠した。
ノア、お前は何も知らないふりをしろ。
俺が戻るまで、旦那様を信じろ』
ノアが声を詰まらせた。
「兄さん……」
レオンハルト様は手紙を見下ろし、静かに言った。
「リックは、私を信じていたのか」
「はい」
私は答えた。
「少なくとも、この封蝋に残っているのは忠誠と、ノアさんを守りたい気持ちです」
その時、部屋の外で誰かが小さく鼻で笑った。
「封蝋に気持ちが残る、ですか」
振り返ると、昨夜帳簿写しを持ってきた若い書記官とは別の、中年の書記官が立っていた。
痩せた顔に、神経質そうな目。
彼は数冊の帳簿を抱え、こちらを見下すようにしている。
「失礼。ですが、旦那様。たった今来たばかりの令嬢の言葉で、長年仕えている者たちを疑うのは、いかがなものかと」
レオンハルト様の目が冷える。
「名は」
「ダリオでございます。支援金台帳の補助を務めております」
支援金台帳。
私はその名を心の中で留めた。
「ダリオさん。今、帳簿をお持ちですね」
「ええ。旦那様にご報告するために」
「見せていただけますか」
彼は眉を上げた。
「あなたに?」
「はい。紙くず令嬢に、何が分かるのか試してみるにはちょうどいいと思います」
空気が止まった。
ノアが驚いて私を見る。
オルデン様が咳払いをする。
レオンハルト様だけが、ほんのわずかに口元を動かした。
「見せろ、ダリオ」
「……承知いたしました」
ダリオは不満そうに帳簿を机に置いた。
公爵家本帳の写し。
支援金台帳。
クラウス商会の納品控え。
昨日見たものと同じ形式だ。
私は三冊を並べる。
「この三冊は、同じ月の記録ですね」
「はい」
「では、孤児院冬支度支援金、銀貨二百枚の行を見ます」
数字は揃っている。
支払済み。
納品済み。
受領済み。
あまりにも綺麗に。
「一見、問題はありません」
ダリオが勝ち誇ったように笑う。
「当然です」
「ですが、この三冊は同じ日に作られていません」
笑みが止まった。
「何を根拠に」
「インクです」
私は本帳を指した。
「本帳のインクは北方産の黒樹液インク。乾くと少し青みが出ます。支援金台帳は王都産の灰墨インク。クラウス商会の控えは、同じ灰墨インクに見せていますが、鉄粉が混じっています」
「それだけで何が」
「同じ日に同じ担当者が処理した記録なら、ここまでインクが違うのは不自然です。さらに、日付の『二』の払いが三冊とも同じ癖を持っています」
私は、昨日見た受領控えの数字を思い出す。
「本来、別々の場所で作られるはずの三冊に、同じ筆記癖がある。つまり、誰かが後から帳尻を合わせるために書いた」
ダリオの頬がぴくりと動いた。
「言いがかりです」
「では、封蝋を見ましょう」
彼の顔色が変わった。
「あなたは触れない方がよろしいのでは? 昨夜倒れかけたと聞きましたが」
「ご心配ありがとうございます」
私は新しい白手袋を整えた。
「ですが、今は触れません。見るだけです」
レオンハルト様が小さく息を吐いた。
「またか」
「今回は本当に見るだけです」
クラウス商会の受領印。
赤茶色の封蝋。
そこに押された麦と天秤の紋章。
私は封蝋そのものではなく、周囲の蝋の流れを見た。
「この封蝋、押された後に温め直されています」
「そんなことが分かるのですか」
「蝋の縁だけが二度溶けています。最初に押された印を消し、商会印を上から押し直したのでしょう」
「証拠は」
ダリオが強く言う。
「証拠ならあります」
私はリックの部屋で見つけた銀の指輪片を示した。
「この欠片には、王宮文官の印章に使われる銀合金が含まれています。そして、クラウス商会の受領印の縁にも、同じ銀粉が付着している」
これは封蝋読みではない。
ただの観察だ。
けれど、封蝋を扱う者なら、蝋に混じる金属粉の色は見逃さない。
ダリオの額に汗が浮かんだ。
「偶然でしょう」
「では、もう一つ。リックさんの筆跡と、この帳簿を書き換えた筆跡は違います。ですが、支援金台帳の余白に残った下書きの癖は、あなたの報告書の文字と一致します」
私はダリオが持ってきた報告書を指した。
「特に『済』の最後の点。あなたは必ず右下に流します」
書斎が静まり返った。
ノアが息を呑む。
若い書記官たちが顔を見合わせる。
ダリオは唇を震わせた。
「私は……私は、ただ帳簿を整えただけです!」
「誰の指示で」
レオンハルト様の声が落ちた。
冷たい。
それだけで、部屋の温度が下がったようだった。
ダリオは膝から崩れた。
「クラウス商会です! 少しだけ数字を合わせろと……実際の金には触っていません! 私は名前を貸しただけで、孤児院の金を抜いたのはクラウス商会です!」
ノアが震えた。
「兄さんに罪を着せたのも、あなたですか」
「違う! リックが勝手に嗅ぎ回ったから……私は、黙っていればよかったのにと」
「答えろ」
レオンハルト様の一言で、ダリオは肩を跳ねさせた。
「リックが黒い帳簿を見つけたと、商会へ知らせました。でも連れ去れなんて言っていません! 本当です!」
小ざまぁ、と呼ぶには苦い。
けれど、嘘の一枚目は剥がれた。
レオンハルト様は護衛を呼び、ダリオを拘束させた。
連れていかれる直前、ダリオは私を睨んだ。
「紙くず令嬢が……余計なことを」
私はまっすぐ彼を見返した。
「紙は、余計なことを覚えていますから」
ダリオの顔が歪んだ。
扉が閉まる。
残された書記官や侍女たちは、もう笑っていなかった。
レオンハルト様が静かに告げる。
「今後、セラフィナの職能を侮る者は、調査妨害とみなす」
誰も異を唱えなかった。
ノアが、私の袖をそっと握った。
「セラフィナ様……兄さん、やっぱり悪くなかった」
「はい」
「ありがとうございます」
「まだ、リックさんを見つけたわけではありません」
「でも、兄さんが犯人じゃないって、少し分かりました」
その言葉に、胸が温かくなった。
完全な救済ではない。
けれど、ノアの世界を押し潰していた嘘が、少しだけ軽くなった。
レオンハルト様は、机の上の三冊の帳簿を見下ろす。
「クラウス商会か」
「はい」
私は頷いた。
「ただの商会ではありません。公爵家内部、王宮文書局、孤児院の名簿。すべてに触れています」
「ならば次は、孤児院だ」
その時、拘束される前にダリオが落とした帳簿の隙間から、一枚の受領証が滑り落ちた。
私はそれを拾い上げる。
孤児院支援物資。
パン、小麦、薬草茶、毛布。
受領済み。
けれど、受領者欄に書かれた名前を見た瞬間、指先が冷たくなった。
その名には、黒い線で小さく印がつけられている。
死亡者を示す、教会記録の印。
「レオンハルト様」
「何だ」
「この受領者……もう亡くなっている方です」
書斎の空気が凍った。
死者の名前で、支援物資が受け取られている。
そして封蝋の奥で、先代公爵の声が蘇る。
教会印は、死者の名で金を受け取っている。
私は受領証を握りしめた。
「孤児院へ行きましょう。これは、帳簿の中だけの横領ではありません」




