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第7話 使用人が消えた理由

 ――セラフィナ様へ。ノアより。


 茶色い封筒に書かれた幼い文字を見た瞬間、私は息を止めた。


 客室の暖炉が、ぱちりと音を立てる。


 夜着に着替えたばかりの私は、机の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 今夜はもう読むな。


 レオンハルト様に、そう言われている。


 マーサさんにも、倒れない範囲でと釘を刺されたばかりだ。


 けれど、封筒の小さな封蝋からは、触れる前から切実な感情が漏れていた。


 助けて。


 兄さんは逃げていない。


 僕は、見た。


 胸が、ぎゅっと掴まれる。


 ノア。


 先代公爵の封蝋が守ろうとしていた名前。


 消えた帳簿係リックの弟。


 そして今、この屋敷のどこかで、たった十三歳の少年が震えながら私に手紙を出した。


 私は白手袋を机の上から取り上げ、はめようとして――手を止めた。


 指先の赤い痕が、まだ薄く残っている。


 痛みは引いてきたけれど、熱はある。


 読むべきではない。


 それは分かっている。


 でも、封蝋は嘘をつかない。


 今、この封は助けを求めている。


「……少しだけ」


 誰に言い訳するでもなく呟いて、私は手袋をはめた。


 封筒を開ける前に、封蝋の縁へそっと指を添える。


 途端、幼い感情が流れ込んできた。


 恐怖。


 後悔。


 焦り。


 そして、兄を信じたいという必死な願い。


 兄さんは盗んでいない。


 兄さんは逃げていない。


 夜、誰かが兄さんを呼んだ。


 黒い帳簿。


 北壁。


 クラウスの馬車。


 見てはいけないものを見た。


 言ったら、僕も消える。


 指先が冷たくなる。


 私は封蝋から手を離し、急いで封筒を開けた。


 中には、折り畳まれた紙が一枚。


 字は震えていて、ところどころインクが滲んでいた。


『セラフィナ様。


 突然お手紙を書いてごめんなさい。


 僕はノアといいます。書庫番見習いです。兄のリックは帳簿係でした。


 みんなは兄が銀貨を盗んで逃げたと言います。でも違います。兄は逃げていません。


 半月前の夜、兄は誰かに呼ばれて北壁の廊下へ行きました。僕は心配で、こっそり後を追いました。


 兄は黒い帳簿を持っていました。兄は、これは旦那様に見せなきゃいけないと言っていました。


 でも廊下の奥で、クラウス商会の紋章が入った馬車が待っていました。


 兄は誰かに腕を掴まれて、馬車に乗せられました。


 僕は怖くて、声を出せませんでした。


 兄は最後に、僕に向かって首を振りました。来るな、という意味だったと思います。


 それから兄は戻っていません。


 僕は誰にも言えませんでした。


 でも今日、あなたが来て、兄は犯人ではないと言ってくれたと聞きました。


 お願いします。兄を探してください。


 兄は逃げていません。


 兄は、旦那様を裏切っていません』


 最後の方は、涙で滲んでいた。


 私は手紙を胸に当てた。


 この手紙は、たった十三歳の子どもが、どれほど怖い思いをして書いたものだろう。


 兄は犯人ではない。


 そう信じているのに、誰にも言えない。


 言えば自分も消されるかもしれない。


 それでも、私に託した。


 今日来たばかりの、婚約破棄された紙くず令嬢に。


「……レオンハルト様に」


 知らせなければ。


 私は手紙を持って部屋を出ようとして、扉の前で止まった。


 夜は深い。


 屋敷は静まり返っている。


 こんな時間に公爵の私室や書斎を訪ねるのは、貴族令嬢としては褒められたことではない。


 けれど、そんな体裁を気にしている場合ではなかった。


 兄を連れ去られた少年がいる。


 そして、敵は屋敷の中まで入り込んでいる。


 私は扉を開けた。


 廊下は薄暗く、壁の燭台だけが淡く灯っている。


 客室から書斎までの道は、マーサさんに案内されたばかりだった。迷うほどではない。


 そう思って歩き出した時、廊下の曲がり角で小さな影が動いた。


「……誰ですか」


 声をかけると、影はびくりと震えた。


 燭台の光の下に出てきたのは、痩せた少年だった。


 年は十三歳くらい。柔らかそうな栗色の髪に、大きな茶色の瞳。着ている服は使用人見習いのものだが、袖が少し短い。


 少年は私を見るなり、泣きそうな顔で頭を下げた。


「ご、ごめんなさい……!」


「あなたが、ノアさんですか」


 彼は肩を震わせた。


「手紙、読んだんですか」


「はい」


「ごめんなさい。夜に勝手に部屋へ入って……でも、どうしても……」


「怒っていません」


 私はできるだけ柔らかく言った。


 ノアは顔を上げた。


「本当、ですか」


「本当です。手紙を書いてくれて、ありがとうございます。怖かったでしょう」


 その言葉だけで、ノアの目に涙が浮かんだ。


 けれど彼は必死に唇を噛んで、泣くのをこらえている。


 まるで、泣いたら迷惑になると思っているみたいに。


「兄さんは、逃げてません」


「はい」


「盗んでません」


「分かっています」


「みんな、兄さんが帳簿をごまかしたって言うんです。旦那様の金を盗んで逃げたって。でも兄さんは、そんなことしません。兄さんは、旦那様に拾ってもらったから、恩を返すんだって……」


 言葉の途中で、ノアの声が詰まった。


 私は膝を折り、彼と目線を合わせた。


「ノアさん。あなたが見たことを、もう一度話せますか」


 ノアは青ざめた。


「言ったら、僕も消されるかもしれないって」


「一人で話さなくて大丈夫です。レオンハルト様に一緒に伝えましょう」


「旦那様に……」


「怖いですか」


 ノアは少し迷ってから、小さく頷いた。


「旦那様は、怖い顔をしてるから」


「そうですね」


 私は思わず同意してしまった。


 ノアがびっくりしたように私を見る。


「でも、怖い顔をしていることと、怖い人であることは、同じではないと思います」


「違うんですか」


「少なくとも、レオンハルト様はあなたを夜中に呼び出して、無理に話を聞くことはしませんでした。子どもに兄の失踪を突きつけるべきではない、と私を止めてくれました」


 ノアの目が揺れた。


「旦那様が……?」


「はい。あなたを守ろうとしていました」


 それを聞いたノアは、ぽろりと涙をこぼした。


 声を上げずに、ただ涙だけが頬を伝う。


「僕、ずっと……旦那様に言わなきゃって思ってた。でも、兄さんが疑われて、僕まで疑われたらどうしようって。兄さんが悪いって決まったら、僕はここにいられなくなるって……」


「大丈夫です」


 私は手を伸ばしかけて、少し迷った。


 触れていいか分からなかったから。


 けれどノアが小さく震えていたので、そっと肩に手を置いた。


「あなたのお兄さんが犯人ではない証拠を、探しましょう。私も手伝います」


「本当に?」


「はい」


「セラフィナ様は、紙くず令嬢なんかじゃないんですか」


 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。


 けれどノアの顔に悪意はなかった。


 ただ、屋敷の中で聞いた言葉をそのまま言ってしまったのだろう。


 私は少しだけ笑った。


「紙を読む令嬢ではあります」


「えっ」


「でも、紙くずではありません。紙には、人が残した願いも嘘も書かれますから」


 ノアは涙を拭きながら、ぽかんとしている。


「封蝋も、嘘を覚えています。だから、あなたのお兄さんを連れて行った人たちが何か書類や封を残していれば、必ず痕跡があります」


「兄さんを、見つけられますか」


「約束はできません」


 ノアの顔が曇る。


 私は続けた。


「でも、探すことは約束します。嘘を、そのままにはしません」


 ノアは少しの間、私を見つめていた。


 やがて、小さく頷く。


「……お願いします」


 その時だった。


「こんな夜更けに、何をしている」


 低い声が廊下に響いた。


 ノアが飛び上がるほど驚き、私の背後に隠れた。


 振り返ると、レオンハルト様が立っていた。


 黒い室内着に、肩から外套を羽織っている。眠っていた様子ではない。おそらく、まだ仕事をしていたのだろう。


 氷青の瞳が、私とノアを順に見る。


「セラフィナ。休めと言ったはずだ」


「申し訳ありません」


「それは聞き飽きた」


「ですが、重要な手紙が届きました」


「ノアからか」


 ノアが私の後ろでびくりと震えた。


 レオンハルト様はそれに気づいたのか、声を少し落とした。


「ノア」


「は、はい……」


「怒ってはいない。顔を上げろ」


 ノアは恐る恐る顔を出した。


 レオンハルト様は彼を見下ろしているが、責めるような目ではなかった。


「兄のことか」


 ノアの唇が震える。


 それでも、彼は頷いた。


「兄さんは、逃げてません」


「そうか」


 レオンハルト様は短く答えた。


 否定しなかった。


 疑わなかった。


 たったそれだけで、ノアの目にまた涙が浮かぶ。


「旦那様……信じてくれるんですか」


「まだ事実は確認していない。だが、リックが金を持って逃げたという報告は、私も疑っている」


「兄さんは、旦那様を裏切ってません」


「分かった」


 レオンハルト様は、少しだけ間を置いた。


「今まで一人で抱えさせた。悪かった」


 ノアの顔がくしゃりと歪んだ。


 次の瞬間、彼は両手で顔を覆って泣き出した。


 声を殺そうとしているのに、嗚咽が漏れる。


 レオンハルト様は困ったように眉を寄せた。


 慰め慣れていないのだと、一目で分かる。


 私はノアの背をそっと撫でた。


「大丈夫です。もう一人で抱えなくていいんです」


 ノアは何度も頷いた。


 廊下の奥から、足早にマーサさんがやってくる。


「まあ、ノア。こんな夜中に」


 叱る声になりかけて、彼の泣き顔を見た途端、マーサさんの表情が柔らかくなった。


「……温かいミルクを用意します。旦那様、書斎へ?」


「ああ」


 レオンハルト様は私を見る。


「セラフィナ。君も来るのだろうな」


「はい」


「止めても無駄か」


「申し訳ありません」


「本当に聞き飽きた」


 そう言いながらも、彼は歩き出す時、私の歩幅に合わせた。


 書斎へ戻ると、オルデン様も呼ばれた。


 ノアはマーサさんに温かいミルクを持たされ、両手でカップを包んでいる。目は赤いが、先ほどより少し落ち着いていた。


 机の上には、ノアの手紙が広げられる。


 レオンハルト様はそれを一読し、低く呟いた。


「クラウス商会の馬車か」


「はい……紋章を見ました。麦と天秤の」


「時間は」


「半月前の夜です。鐘が二つ鳴ったあとでした」


「場所は北壁の廊下」


「はい」


「リックは黒い帳簿を持っていた」


「はい。兄さん、旦那様に見せなきゃって言ってました。支援金の数字が合わないって。孤児院の子どもの名前が変だって」


 孤児院の子どもの名前。


 やはり、名簿だ。


 私はノアに尋ねた。


「お兄さんは、その黒い帳簿をどこで見つけたか話していましたか」


「北壁の書庫だと思います。兄さん、あそこの古い本棚の裏が変だって言ってました。先代様が隠したものかもしれないって」


「北壁の書庫……」


 レオンハルト様の目が細くなる。


 鍵はもう見つかっている。


 やはり、あそこに何かがある。


「ノア。リックを連れて行った者の顔は見たか」


 レオンハルト様が問う。


 ノアは首を振った。


「フードをかぶっていて。でも、一人だけ声を聞きました」


「どんな声だ」


「王都の人みたいな、綺麗な話し方でした。商人みたいじゃなくて……えっと、書記官みたいな」


 書記官。


 王宮文官。


 先代公爵の封蝋に残っていた名前が、頭に浮かぶ。


 イザーク。


 王宮文官イザークは、遺言を歪めた。


 まだ断定はできない。


 けれど、敵は商会だけではない。


「ノアさん。この手紙の封蝋を、もう一度読ませてもらってもいいですか」


 私が言うと、レオンハルト様が即座にこちらを見た。


「セラフィナ」


「一瞬だけです。ノアさんの許可があれば」


 ノアは目を丸くした。


「僕の封蝋で、何か分かるんですか」


「あなたが見た時の感情が、少し残っているかもしれません。お兄さんを連れて行った人の気配も、断片なら」


「痛くなりますか」


 ノアが心配そうに聞いた。


 私は言葉に詰まった。


 大丈夫、と言うのは簡単だ。


 けれど、それは嘘になる。


「少しだけ、冷たくなります」


 正直に答えた。


 ノアはカップを置き、ぎゅっと拳を握った。


「お願いします。僕のせいでセラフィナ様が痛いのは嫌だけど……でも、兄さんを助けたいです」


「分かりました」


「一瞬だけだ」


 レオンハルト様が言った。


「はい」


「本当に一瞬だ」


「はい」


「私が止めたらやめる」


「はい」


「返事だけは素直だな」


「実行もします」


 レオンハルト様は、少し疑わしそうな目をした。


 私は気づかないふりをして、ノアの手紙の封蝋にそっと触れた。


 幼い封。


 弱い魔力。


 けれど、そこに込められた感情は強かった。


 兄さん。


 待って。


 行かないで。


 黒い馬車。


 麦と天秤。


 濡れた石畳。


 細い銀の指輪。


 白い手袋。


 紙の匂い。


 王宮の青いインク。


 そして、声。


『子どもが見ている。処分しますか』


『不要だ。あの子は怯えて黙る』


 ぞくりとした。


 その声の主は、冷静だった。


 人を消すことも、子どもを脅すことも、まるで帳簿の数字を直すように淡々としている。


 私はさらに奥を読もうとした。


 けれどその瞬間、肩に手が置かれた。


「そこまでだ」


 レオンハルト様の声。


 私はすぐに手を離した。


 胸が少し苦しい。


 けれど、倒れるほどではない。


「読めました」


「何が」


「黒い馬車。麦と天秤の紋章。細い銀の指輪。白い手袋。王宮の青いインク」


 オルデン様が眉を寄せる。


「王宮文官が使う公用インクですな」


「それから、声がありました。『子どもが見ている。処分しますか』と。もう一人が『不要だ。あの子は怯えて黙る』と答えています」


 ノアの顔が青ざめた。


「僕……見られてたんだ」


「でも、あなたは生きています」


 私は言った。


「そして、黙らなかった。手紙を書いてくれました。だから、今ここまで分かりました」


 ノアは唇を震わせ、それから小さく頷いた。


「僕、役に立ちましたか」


「はい。とても」


 その瞬間、ノアの顔が泣きそうに歪んだ。


 でも今度は、少しだけ違う涙だった。


 怖さだけではない。


 自分の言葉が届いたことへの涙。


「ノア」


 レオンハルト様が静かに言った。


「今夜から、君はマーサの部屋の近くで休め。一人にしない」


「でも、僕はただの見習いで」


「命令だ」


「……はい」


「それから、リックの部屋を封鎖する。明朝、セラフィナと確認する」


 私は頷いた。


「リックさんの部屋に、未開封の手紙や封蝋が残っていれば、連れ去られた理由が分かるかもしれません」


「明朝まで触れない」


「はい」


「君も休め」


「はい」


「今度こそだ」


「……はい」


 言い方が少し強かったので、私は素直に頷いた。


 するとレオンハルト様は、ノアの方へ視線を戻した。


「リックは、私の帳簿係だ。私の責任で探す」


 ノアが息を呑む。


「旦那様……」


「だから、今夜は眠れ」


 それは優しい言葉ではなかった。


 相変わらず低く、不器用で、命令の形をしていた。


 けれどノアは、深く頭を下げた。


「はい……!」


 マーサさんに連れられて、ノアが書斎を出ていく。


 その背中は、来た時よりほんの少しだけ軽く見えた。


 扉が閉まると、書斎には私とレオンハルト様、オルデン様が残った。


 レオンハルト様は机に置かれたノアの手紙を見下ろしている。


「子どもまで巻き込んだか」


 その声は冷たかった。


 けれど、怒っているのだと分かった。


 彼は感情を荒らげない。


 だからこそ、静かな怒りが深く見える。


「クラウス商会だけではありません」


 私は言った。


「王宮文官が関わっている可能性が高いです」


「ああ」


「王宮の青いインク。白い手袋。細い銀の指輪。これだけでは個人特定はできませんが」


「十分だ」


 レオンハルト様はオルデン様へ視線を向ける。


「王宮文書局で、青インクを扱う遺言保管担当者を洗え。特に、銀指輪をつけた者」


「承知いたしました」


「クラウス商会の馬車記録もだ。半月前の夜、王都方面へ出た車両を調べる」


「すぐに」


 オルデン様が退室する。


 今度こそ、書斎には私とレオンハルト様だけが残った。


 急に静かになる。


 燭台の火が、紙の端を淡く照らしている。


「セラフィナ」


「はい」


「君は子どもに甘いな」


「そうでしょうか」


「そうだ」


「レオンハルト様も、ノアさんを守ろうとしていました」


「私は当主として当然のことをしただけだ」


「では、私も文書監査人として当然のことをしただけです」


 彼は少しだけ黙った。


 そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


 今度は分かった。


 たぶん、笑った。


「言うようになったな」


「雇い主が、はっきり言う方ですので」


「私のせいか」


「はい」


 言ってしまってから、少し焦った。


 けれどレオンハルト様は怒らなかった。


 むしろ、どこか呆れたように息を吐く。


「本当に、厄介な令嬢だ」


「敵にとっては、ですよね」


「ああ」


 彼はまっすぐ私を見た。


「敵にとっては」


 その言葉が、なぜか胸に残った。


 夜会場で投げつけられた紙くず令嬢という言葉よりも、ずっと深く。


 私は視線を落とし、ノアの手紙をそっと畳んだ。


「明日は、リックさんの部屋ですね」


「ああ。そこで手がかりを探す」


「北壁の書庫は?」


「その後だ」


「孤児院は?」


「さらにその後だ」


「忙しい一日になりますね」


「だから眠れ」


 きっぱりと言われ、私は小さく頷いた。


「はい。今度こそ休みます」


 レオンハルト様は私を客室まで送った。


 必要ないと言ったが、聞いてもらえなかった。


 廊下を並んで歩く間、彼は何も話さなかった。


 けれど、角を曲がる時は必ず私を内側に入れ、暗い廊下では先に進んで燭台を確認した。


 冷徹公爵。


 呪われた男。


 でも、その沈黙は怖くなかった。


 客室の前で、彼は足を止める。


「鍵をかけろ」


「はい」


「何かあれば、すぐに呼べ」


「こんな夜更けにですか」


「時間は関係ない」


 その言い方があまりに当然で、私は少しだけ言葉に詰まった。


「……ありがとうございます」


「仕事道具を失うと困る」


「私が、ですか?」


「君も、だ」


 言ってから、彼はわずかに目を逸らした。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 今は、まだ契約。


 仕事のため。


 それでいい。


 でも、この屋敷に来て初めて、私は自分が完全に一人ではないのかもしれないと思った。


「おやすみなさいませ、レオンハルト様」


「ああ。休め、セラフィナ」


 扉が閉まる。


 鍵をかけ、私はようやくベッドに腰を下ろした。


 暖炉の火はまだ静かに燃えている。


 手袋を外すと、指先の赤い痕は薄くなっていた。


 痛みも、少しだけ。


 私はノアの手紙を思い返す。


 兄さんは逃げていない。


 その言葉は、きっと明日、嘘に押し潰されかけた公爵家の帳簿を動かす。


 そして、リックの部屋にはまだ何か残っている。


 封蝋か。


 手紙か。


 それとも、黒い帳簿の在り処か。


 私は目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、ふと、ノアの封蝋から読み取った声が蘇る。


『子どもが見ている。処分しますか』


『不要だ。あの子は怯えて黙る』


 その声に混じって、もう一つだけ、かすかな音があった。


 馬車の扉が閉まる直前、リックが落としたもの。


 小さな金属音。


 鍵ではない。


 封印具でもない。


 たぶん、指輪。


 翌朝、リックの部屋を調べれば分かる。


 そう思いながら、私は眠りに沈んだ。


 その頃、ヴァイス公爵邸の北壁の奥で、誰にも開けられていないはずの書庫の扉が、かすかに軋んだ。

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