第6話 合わない帳簿と消えた銀貨
――北壁の書庫。
錆びた銀色の鍵に結ばれた札には、震える文字でそう書かれていた。
書斎にいた全員が、しばらくその鍵を見つめていた。
先代公爵の封蝋が示した場所。
第二封。
黒い帳簿の裏。
そして、ノアという名。
今まさに、閉ざされていた謎の入口が、こちらから勝手に開いたのだ。
「誰が置いた」
レオンハルト様の声は低かった。
マーサが廊下を見回す。
「誰もおりません。ですが、今の音からして、つい先ほど置かれたものかと」
オルデン様が鍵を拾い、札を確認する。
「確かに、北壁の書庫の鍵に似ております。先代様の死後、所在不明になっていたものです」
「似ている?」
「本物かどうかは、扉で試さなければ」
レオンハルト様の視線が私へ向いた。
「読めるか」
「鍵にですか」
「ああ」
「封蝋ではありませんが、札に結び目があります。誰かが意図を込めて結んだものなら、少しは」
私は手を伸ばしかけた。
その瞬間、レオンハルト様が鍵を私から遠ざける。
「今日はもう読ませない」
「ですが」
「封蝋だけではなく、結び目でも読むのか」
「弱い痕跡なら」
「なおさら駄目だ」
有無を言わせない声だった。
私は反論しかけ、指先の赤い痕を見て黙った。
痛みは少し引いていたが、手袋の内側でまだ熱を持っている。
マーサが満足そうに頷いた。
「旦那様のおっしゃる通りです。セラフィナ様は今夜、これ以上お仕事なさってはいけません」
「でも、北壁の書庫は」
「明日の朝だ」
レオンハルト様は鍵をオルデン様に渡した。
「護衛をつけて保管しろ。誰にも触れさせるな」
「承知いたしました」
オルデン様が深く頭を下げる。
けれど、その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「旦那様!」
飛び込んできたのは、若い書記官だった。
顔は青ざめ、手には数枚の帳簿写しを抱えている。
「どうした」
「申し訳ございません。今夜確認するよう命じられていた支援金台帳ですが……その、孤児院と施療院への支出記録に、また差異が出ました」
「また?」
レオンハルト様の声がわずかに冷たくなる。
書記官は肩を震わせた。
「はい。先ほど倉庫番から、冬支度用の銀貨二百枚がまだ出庫されていないと報告がありまして。しかし本帳では、すでにクラウス商会を通じて孤児院へ支払済みになっています」
銀貨二百枚。
孤児院への支援金。
届いていない紙片。
私の胸の奥で、嫌な音を立てて線が繋がった。
「その帳簿を見せてください」
私は思わず言った。
レオンハルト様がすぐにこちらを見る。
「セラフィナ」
「読みません。見るだけです」
「君の『見るだけ』は信用できない」
「封蝋には触れません。文字と数字だけです」
「……本当だな」
「はい」
レオンハルト様は少しだけ目を細めたあと、書記官へ頷いた。
「机に置け」
書記官は帳簿写しを広げた。
公爵家本帳。
倉庫出納記録。
クラウス商会の受領控え。
三枚の書類が机に並ぶ。
私は椅子から立ち上がろうとして、足元が少しふらついた。
その瞬間、隣からレオンハルト様の手が伸びる。
黒い手袋の手が、私の肘を軽く支えた。
「座ったままでいい」
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
彼はそう言ったが、手は私が椅子に座り直すまで離れなかった。
妙な沈黙が落ちる。
マーサがなぜかほんの少し口元を緩めている。
私は気づかないふりをして、帳簿に視線を落とした。
まず、公爵家本帳。
支出日、金額、用途、経由商会、確認印。
孤児院冬支度支援金、銀貨二百枚。
クラウス商会へ引き渡し済み。
次に倉庫出納記録。
同日、銀貨二百枚は未出庫。
つまり、帳簿上は支払われた金が、実際には公爵家の倉庫から出ていない。
普通なら、記帳ミスを疑う。
けれどクラウス商会の受領控えには、確かに受領印がある。
「おかしいですね」
私は呟いた。
「やはり、どこかで金が抜かれたのか」
レオンハルト様が言う。
「いえ。これは、抜かれたというより……存在しない支払いを、支払ったことにされています」
「違いは」
「実際に銀貨が動いたなら、どこかに重さが残ります。倉庫、運搬、受領、両替、納品。ですがこの三枚を見る限り、銀貨二百枚はどこにも動いていません」
私は公爵家本帳の支出欄を指した。
「なのに、本帳だけが支出済みになっている。つまり、帳簿の中だけで銀貨が消えています」
書記官が小さく震えた。
「そんなことが……」
「帳簿上の支出を作り、後日その金額分を別の名目で回収する方法があります。よくあるのは、過去の未払い金、架空納品、死亡者名義の追加請求です」
私は言いながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
孤児院の名簿。
死者の名で金を受け取っている。
先代公爵の封蝋が残した言葉。
「クラウス商会の受領控えには、封蝋がありますか」
「あります」
書記官が差し出しかけた瞬間、レオンハルト様がその紙を先に取った。
「直接触るな」
「……はい」
過保護、という言葉が頭をよぎった。
けれど口には出さない。
レオンハルト様は受領控えを私の前に置いた。封蝋の部分だけ、自分の手で押さえている。
「見るだけだ」
「分かっています」
私は封蝋に触れず、受領控えの端を見た。
赤茶色の蝋。
クラウス商会の印。
麦穂と天秤を組み合わせた紋章。
表向きは、慈善と公平な取引を示す印なのだろう。
けれど、文字の配置がおかしい。
日付の数字が、ほんのわずかに右へ寄っている。
受領者名の筆圧も、本帳の筆跡と似すぎている。
「この受領控えを書いたのは、商会の人間ではありません」
私が言うと、書記官が目を見開いた。
「え?」
「筆跡を真似ていますが、数字の癖が公爵家本帳と同じです。特に二の書き方。最後の払いが短い」
「つまり、屋敷内の者が?」
「少なくとも、この控えの下書きは公爵家側で作られています」
書斎の空気が重くなる。
内部協力者。
先ほどの金庫の件といい、この屋敷の中に敵の手が入っているのは間違いない。
レオンハルト様の顔から、また温度が消えた。
「名前は分かるか」
「文字だけでは断定できません。ただ、この数字の癖を持つ帳簿係を探せば候補は絞れます」
そこで、私はふと気づいた。
消えた帳簿係。
ノアの兄。
「半月前に消えた帳簿係の方は、この支援金台帳を扱っていましたか」
オルデン様が頷く。
「はい。名はリック。若いながら几帳面で、先代様の頃から補助を務めておりました」
「その方の筆跡は確認できますか」
「残っている記録があるはずです」
「見せてください」
私が言うと、レオンハルト様が短く息を吐いた。
「セラフィナ」
「読みません。見ます」
「それはさっきも聞いた」
「本当に、見ます」
私はできるだけ真面目に言った。
レオンハルト様は数秒こちらを見たあと、オルデン様へ目配せする。
「リックの記録を」
「承知いたしました」
オルデン様が書棚の一角から古い綴りを取り出す。
そこには、支援金台帳の過去分が収められていた。
リックという帳簿係の署名は、すぐに見つかった。
丁寧な文字。
几帳面な数字。
けれど、クラウス商会の受領控えとは違う。
「この方ではありません」
「確かか」
「はい。リックさんの数字は、最後まできちんと閉じます。受領控えの数字は、急いで真似た人の癖です」
「では、リックは犯人ではない?」
「少なくとも、この偽控えを書いた人ではありません」
書記官がほっとしたように息を吐いた。
その反応が少し気になった。
「あなたは、リックさんと親しかったのですか」
「あ……はい。リック先輩には、帳簿の付け方を教わりました。失踪したと聞いた時も、金を持って逃げるような人ではないと……でも皆、帳簿係が消えたなら彼が怪しいと」
「弟さんが屋敷に残っていると聞きました。ノアさんですね」
書記官の顔が、さらに青くなった。
「ノアは……まだ十三歳です。兄が犯人だと言われてから、ずっと肩身の狭い思いをしています」
胸が痛んだ。
リックが罪を着せられ、ノアが屋敷に残されている。
そして先代公爵の封蝋は、ノアの名を守ろうとしていた。
「ノアさんに話を聞けますか」
「今は無理だ」
レオンハルト様が即座に言った。
「なぜですか」
「夜だ。十三歳の子どもを今呼び出して、兄の失踪と相続人の話をぶつけるつもりか」
私は言葉に詰まった。
その通りだった。
真実を急ぎすぎていた。
紙片、遺言、帳簿、ノア。
謎を追うことばかり考えて、そこにいる子どもの気持ちを一瞬置き去りにした。
「……申し訳ありません」
「謝る相手は私ではない」
「はい」
レオンハルト様は冷たい。
けれど、間違っていない。
この人は、領民や使用人を駒として扱っていない。
だからこそ、冷徹という噂がますます分からなくなる。
「明日の朝、私からノアに確認する」
「私も同席してよろしいですか」
「体調が戻っていれば」
「戻します」
「命令で戻るものではない」
マーサが小さく咳払いした。
「では、そのためにも今夜は早くお休みくださいませ」
書斎の中に、わずかに空気が戻った。
けれど、問題はまだ解けていない。
私はもう一度、三枚の帳簿を見比べた。
公爵家本帳。
倉庫出納記録。
クラウス商会受領控え。
数字は整っている。
けれど整いすぎている。
まるで、誰かが帳簿の中にだけ綺麗な道を作り、その上を銀貨が歩いたことにしたように。
実際の銀貨は、一枚も動いていないのに。
「レオンハルト様」
「何だ」
「明日、孤児院へ行かせてください」
書斎の空気が再び張った。
レオンハルト様の眉がわずかに動く。
「危険だ」
「分かっています。ですが、帳簿を見るだけでは足りません。支援金が本当に届いていないなら、現地の受領簿、礼状、名簿を確認する必要があります」
「公爵家から調査員を出す」
「公爵家の調査員では、相手も身構えます。私は追放されたばかりの下級貴族令嬢です。警戒されにくいかもしれません」
「襲撃されたばかりの人間が言うことではない」
「護衛をつけていただければ」
「当然つける」
即答だった。
私は少し驚いて、レオンハルト様を見た。
彼は不機嫌そうに私を見返す。
「君を一人で外に出すわけがない」
「仕事のために、ですね」
「しつこいな」
「確認です」
「そうだ」
レオンハルト様は一度そう言ってから、なぜか視線を逸らした。
「……今は」
また、今は。
その言葉が、心の中に小さく残る。
私は聞き返さなかった。
今はまだ、契約の始まりに過ぎない。
私は彼に雇われた文書監査人で、彼は依頼主。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思うべきなのに、肩にかけられた外套の温もりを思い出してしまう。
「明日の予定を決める」
レオンハルト様が机の上の書類を整理した。
「朝、ノアに話を聞く。午前中に北壁の書庫を確認する。午後、孤児院へ向かう」
「かなり詰めていますね」
「君が全部やると言った」
「そこまでは言っていません」
「顔に書いてある」
「……そんなに分かりやすいですか」
「ああ」
淡々と言われ、少しだけ悔しい。
するとマーサが、私の前から帳簿をそっと取り上げた。
「予定が決まったのなら、今夜はここまでです」
「マーサさん」
「私は旦那様から、セラフィナ様を休ませるよう申しつかっております」
「ですが」
「これ以上は、蜂蜜湯ではなく薬湯になりますよ」
薬湯。
その響きに、私は素直に黙った。
レオンハルト様がわずかに口元を動かした気がした。
笑った、のだろうか。
あまりに一瞬で分からなかった。
「マーサの薬湯は苦い」
「旦那様」
「事実だ」
「よく効きます」
「効く前に心が折れる」
そのやり取りが思いのほか自然で、私は少し驚いた。
冷徹公爵と呼ばれる人にも、こんな会話をする相手がいる。
屋敷は寒く、人は少なく、謎は多い。
けれど、完全に死んだ場所ではない。
まだ、温かさは残っている。
私はそう感じた。
マーサに案内され、今度こそ客室へ向かう。
部屋は広すぎるくらいだった。
暖炉には火が入り、湯浴みの準備も整っている。ベッドには清潔なリネンと、淡い青色の夜着。
夜会場を追い出された私には、あまりにも過分な部屋だった。
「本当に、私が使ってよろしいのでしょうか」
「旦那様のご指示です」
「でも」
「セラフィナ様」
マーサが、私をまっすぐ見た。
「この屋敷では、旦那様が客人と認めた方を粗末には扱いません」
その言葉に、胸がじんとした。
客人。
正式な文書監査人。
紙くず令嬢ではなく。
「ありがとうございます」
「お礼は、明日しっかりお仕事をしてくだされば十分です。ただし、倒れない範囲で」
「はい」
マーサが退室したあと、私は一人になった。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
濡れたドレスを脱ぎ、湯に浸かると、張り詰めていた体がようやく緩んだ。
けれど目を閉じると、封蝋の声が蘇る。
ノアを消せ。
相続人の名を消せ。
教会印は、死者の名で金を受け取っている。
孤児院への支援金は、届いていません。
私は湯の中で、赤い痕の残る指先を見つめた。
私を捨てた人々は、今も夜会で笑っているのだろうか。
ミリアは、私の部屋から何を奪ったのだろう。
エリアスは、これで厄介者を片づけたと思っているのだろう。
けれど彼らが押しつけた冤罪も、あの偽造遺言も、封蝋は覚えている。
いつか必ず、読む。
その時、嘘は嘘のままではいられない。
湯から上がり、夜着に着替えると、部屋の机に封筒が一通置かれていることに気づいた。
先ほどはなかった。
黒ではない。
安い茶色の封筒。
震える手で封じられた小さな封蝋。
私は息を呑んだ。
今夜はもう読むなと言われている。
けれど、その封蝋からは、触れる前から切実な感情が漏れていた。
助けて。
兄さんは逃げていない。
封筒の表には、幼い文字でこう書かれていた。
――セラフィナ様へ。ノアより。




