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第5話 先代公爵の本当の声

 ――孤児院への支援金は、届いていません。


 古い帳簿の切れ端に書かれたその一文を見た瞬間、私は廊下の冷気を忘れた。


 震えた文字だった。


 インクは薄く、紙の端は破れている。急いで破り取られ、誰かの手でここへ置かれたのだろう。


 誰かが、私に知らせようとしている。


 公爵家の中に、まだ口を開けない誰かがいる。


「セラフィナ様?」


 前を歩いていたマーサが振り返った。


 私は紙片を握ったまま、廊下の奥を見つめる。


 けれど、そこには誰の姿もなかった。


 高い窓から差す月光が、黒い床の上に細く伸びているだけ。


「何かございましたか」


「……これが、落ちていました」


 マーサに紙片を見せると、彼女の顔色が変わった。


「孤児院……」


「心当たりがあるのですか」


 マーサはすぐには答えなかった。


 皺の刻まれた手が、エプロンの端をぎゅっと握る。


「ヴァイス公爵家は、代々、領内の孤児院と施療院を支援してまいりました。先代様の頃は、冬の前になると食料や薪、薬代が必ず届けられていたのです」


「今は?」


「帳簿上は、届けられていることになっております」


 帳簿上は。


 その言葉が、ひどく不吉に聞こえた。


「ですが、ここ一年ほど、孤児院からの礼状が途絶えました。旦那様は何度も確認を命じられましたが、商会からは『問題なく納入済み』との報告ばかりで……」


「クラウス商会ですか」


 マーサは唇を引き結び、小さく頷いた。


 やはり。


 黒い封筒に残っていた言葉。


 クラウスを信じるな。


 先代公爵は、商会の不正に気づいていたのかもしれない。


 でも、なぜ死の前にもっと直接告発しなかったのだろう。


 いや、できなかったのか。


 遺言書をすり替えられ、王宮保管封まで濁らされているなら、先代公爵の言葉は死後に封じられた可能性がある。


「マーサさん。この紙片を書いた方に心当たりは?」


「分かりません。ですが……」


 彼女は廊下の奥に視線をやった。


「この屋敷には、まだ旦那様を信じたい者もおります。ただ、怖いのです。使用人が消えたこともございますから」


「消えた使用人」


「ええ。帳簿係の青年が一人、半月ほど前から姿を消しました」


 また、点が増えた。


 合わない帳簿。


 届かない支援金。


 クラウス商会。


 消えた帳簿係。


 そして、先代公爵の遺言。


 私は紙片を胸元に寄せる。


「レオンハルト様にお見せします」


「セラフィナ様、旦那様はあなた様に休むようにと」


「はい。ですが、これは休んでからでいい紙ではありません」


 マーサは困ったように眉を下げた。


 けれど私の顔を見て、反対を飲み込んだらしい。


「……ご案内いたします。ただし、お顔が少しでも悪くなったら、私が旦那様に申し上げてでもお部屋へお連れします」


「ありがとうございます」


「お礼を言うところではございません」


 叱るような声だった。


 けれど、そこには少しだけ温かさが混じっていた。


 私はマーサとともに、先ほどの書斎へ戻った。


 扉の前に立つと、中から低い声が聞こえる。


「今夜の襲撃者を追え。捕らえられなくても、逆印の出所を洗え」


「承知いたしました」


 護衛らしき男の声がして、扉が開いた。


 彼は私を見ると、わずかに目を見開き、それから無言で頭を下げて通り過ぎていった。


 書斎の中では、レオンハルト様が机の前に立っていた。


 外套はすでに替えられている。けれど顔色はまだ悪い。


 赤い封蝋の遺言書は、机の中央に置かれたままだった。


「休めと言ったはずだ」


 こちらを見た瞬間、レオンハルト様はそう言った。


「申し訳ありません。ですが、見過ごせないものを拾いました」


 私は紙片を差し出す。


 彼は一読し、表情を変えなかった。


 けれど、紙を持つ手にわずかな力がこもる。


「どこにあった」


「客室へ向かう廊下です。誰かが、私に見せるために置いたのだと思います」


「孤児院への支援金は、届いていない……か」


 その声には、冷たさよりも疲労が滲んでいた。


「ご存じだったのですか」


「疑ってはいた。だが、報告書上はすべて納入済みだ。クラウス商会の受領証、教会の確認印、孤児院の礼状まで揃っている」


「礼状も?」


「ああ」


「その礼状に、封蝋はありますか」


「ある」


「なら、読めます」


 私がそう言うと、レオンハルト様は鋭い目でこちらを見た。


「今夜は読ませない」


「ですが」


「契約書に休息義務を入れたばかりだ」


「まだ三件は読んでいません」


「襲撃時の封書、逆印、契約書式、遺言書。すでに十分だ」


 数えられていた。


 しかも、私より正確に。


 反論しかけた言葉が喉で止まる。


 レオンハルト様は机の上の遺言書へ視線を落とした。


「君に倒れられたら困る」


「仕事のために、ですね」


「そうだ」


 即答だった。


 けれど彼は、少し遅れて付け加えた。


「……今は、それで納得しておけ」


 胸が、不意に落ち着かなくなった。


 冷たい言葉のはずなのに、その奥に別のものが隠れている気がする。


 でも今、そこを覗くべきではない。


 私が読むべきなのは、人の心ではなく、封蝋だ。


「レオンハルト様」


「何だ」


「先代公爵様の遺言書を、開封せずにもう一度だけ読ませてください」


「理由は」


「この紙片と、遺言書が繋がっている可能性があります。もし先代公爵様が孤児院への支援金の不正に気づいていたなら、その痕跡が遺言書の封蝋に残っているかもしれません」


「危険は」


「あります」


「なら却下だ」


「ですが、先代公爵様の封蝋は弱っています」


 レオンハルト様の目が細くなる。


「弱っている?」


「はい。表面を塗り潰した偽の封蝋が、内側の本物を少しずつ濁らせています。今なら読める断片が、明日には失われるかもしれません」


 これは脅しではない。


 本当のことだった。


 封蝋に残る感情は永遠ではない。特に、逆印や呪詛で濁された封は、時間が経つほど読み取りづらくなる。


 死者の最後の願いが、二度と届かなくなる可能性がある。


 レオンハルト様は、長く沈黙した。


 燭台の火が、彼の横顔に影を落とす。


「……一度だけだ」


「はい」


「異変があれば、即座にやめさせる」


「承知しました」


「マーサ。蜂蜜湯と毛布を」


「すぐに」


 マーサが動く。


 私は白手袋を整え、机の前に立った。


 赤い封蝋の遺言書。


 その上に、私の影が落ちる。


 近づくだけで、指先が冷える。


 けれど今度は、逃げたいとは思わなかった。


 この封の奥にいる誰かは、ずっと待っていた。


 レオンハルト様の隣で、オルデン様が息を詰めている。


 マーサは扉のそばで、祈るように両手を組んでいる。


 そしてレオンハルト様は、私の斜め後ろに立った。


 近い。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


「無理はするな」


「はい」


「それと」


 彼は一瞬だけ言葉を切った。


「父の言葉に、君が傷つく必要はない」


 私は思わず振り返りそうになった。


 けれど、やめた。


 今振り返れば、封蝋に触れる前から心が揺れてしまう。


「……ありがとうございます」


 そう答えるのが精一杯だった。


 私は封蝋に触れた。


 瞬間、世界が遠のいた。


 燭台の火も、書斎の匂いも、雨上がりの夜の気配も、すべて薄くなる。


 指先から、冷たいものが這い上がってくる。


 赤い蝋の奥。


 偽りの封の下。


 塗り潰された、本物の封。


 そこに、ひどく強い感情が残っていた。


 悔い。


 焦り。


 怒り。


 そして、深い愛情。


 目の前に、断片が浮かぶ。


 完全な映像ではない。


 古びた書斎。


 震える手。


 白銀の狼の封印具。


 咳き込む老人の影。


 机に並べられた複数の書類。


 その中に、孤児院の名簿がある。


 病院の薬代明細も。


 商会の納品記録も。


 黒い帳簿。


 北壁の書庫。


 第二封。


 レオンハルトに見せるな。


 違う。


 レオンハルト一人で見せるな。


 あの子は、抱え込みすぎる。


 あの子は、自分を責める。


 あの子は、私が疑ったと思うだろう。


 違う。


 違うのだ、レオンハルト。


 私はお前を疑ってなどいない。


 お前を、守りたい。


「……っ」


 喉の奥が熱くなった。


 これは私の感情ではない。


 先代公爵の後悔だ。


 息子に届かなかった言葉。


 死の間際まで封じ込められた願い。


 その重さが、胸に流れ込んでくる。


 レオンハルト様の気配が、すぐ後ろで強張った。


「セラフィナ」


 声が聞こえる。


 けれど私は、もう少しだけ奥を読んだ。


 第二封を探せ。


 北壁の書庫。


 黒い帳簿の裏。


 クラウスを信じるな。


 王宮文官イザークは、遺言を歪めた。


 教会印は、死者の名で金を受け取っている。


 孤児院の名簿を守れ。


 ノアを――


 そこで、感情が乱れた。


 赤い封蝋の奥から、黒い泥のようなものが湧き上がる。


 偽の封蝋だ。


 読ませるな。


 思い出させるな。


 相続人の名を消せ。


 ノアを消せ。


 私は息を呑んだ。


 相続人?


 ノア?


 孤児院?


 言葉が重なり、形を取ろうとする。


 けれど次の瞬間、指先に激しい痛みが走った。


「やめろ」


 レオンハルト様の声が、すぐ耳元で響いた。


 彼の手が、私の手首を掴む。


 強引ではない。


 けれど、確かに封蝋から引き離された。


 世界が戻ってくる。


 燭台の火。


 書斎。


 机。


 赤い封蝋。


 そして、目の前にいるレオンハルト様。


 彼の顔は、先ほどよりさらに白かった。


 けれど私の手首を掴む手は、熱いくらいだった。


「もう十分だ」


「ですが、まだ」


「十分だと言った」


 低い声。


 けれど怒りではない。


 彼の目にあったのは、焦りだった。


「君の指を見ろ」


 言われて視線を落とす。


 白手袋の指先に、赤い痕が浮かび上がっていた。


 封蝋の形に似た、小さな火傷のような痕。


 痛みは遅れてやってきた。


「大丈夫です」


「大丈夫ではない」


 即座に返された。


 マーサが駆け寄り、私の手に温かい布を巻いてくれる。


「だから休んでくださいと申し上げましたのに」


「申し訳ありません」


「謝るくらいなら、蜂蜜湯を全部飲んでくださいませ」


 厳しい声なのに、なぜか優しい。


 私は小さく頷いた。


 椅子に座らされ、毛布をかけられ、蜂蜜湯を持たされる。


 まるで子ども扱いだった。


 けれど、悪い気はしなかった。


 こんなふうに誰かから体調を気にされたことは、久しぶりだったから。


「読めたことを話せるか」


 レオンハルト様が尋ねる。


「はい」


「無理なら明日でいい」


「今、話します。忘れたくありません」


 私はカップを両手で包み、記憶を整理する。


「先代公爵様は、あなたを疑っていませんでした」


 最初に、それを告げた。


 レオンハルト様は動かなかった。


 けれど、彼の呼吸が一瞬だけ止まったのが分かった。


「先代公爵様は、あなたを守ろうとしていました。遺言を見せるな、ではありません。あなた一人で見せるな、と。あなたがすべてを自分の責任だと思い込むことを、恐れておられたのだと思います」


 レオンハルト様は、しばらく何も言わなかった。


 燭台の火が、静かに揺れる。


「……父は」


 彼の声は低かった。


「私が公爵家を壊すと思っていたのだと、ずっと考えていた」


「違います」


 私ははっきり言った。


「封蝋に残っていたのは、疑いではありません。愛情です」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 けれど取り消すつもりはなかった。


 封蝋は嘘をつかない。


 それが私の仕事だから。


 レオンハルト様は目を伏せた。


 長い沈黙のあと、ほんの小さく息を吐く。


「そうか」


 また、その一言。


 でも今度の「そうか」は、先ほどまでのものとは違って聞こえた。


 少しだけ、何かがほどけたような声だった。


 私は続ける。


「第二封を探せ、という言葉がありました。場所は北壁の書庫。黒い帳簿の裏」


「北壁の書庫……先代の私室に隣接する閉鎖書庫だな」


 オルデン様が答える。


「先代様の死後、鍵が見つからず封鎖されたままです」


「鍵が見つからない?」


「はい」


「それも、おそらく意図的です」


 私は遺言書を見た。


「それから、クラウス商会。やはり信じてはならないと残っていました。さらに、教会印が死者の名で金を受け取っている、と」


 マーサが口元を押さえる。


「死者の名で……」


「孤児院の名簿が関係しています。名簿を守れ、とも」


 レオンハルト様の目が鋭くなる。


「支援金横領か」


「はい。ただ、単なる横領ではないかもしれません」


「なぜだ」


「最後に、相続人の名を消せ、という偽の封蝋側の感情が流れ込みました」


 書斎の空気が、一段冷える。


 オルデン様が信じられないという顔で呟いた。


「相続人……?」


「そして、先代公爵様が守ろうとしていた名前があります」


 私は指先の痛みをこらえ、はっきりと言った。


「ノア」


 レオンハルト様が、初めて明確に眉を寄せた。


「ノア、だと」


「ご存じですか」


「屋敷に、ノアという少年がいる」


 私は息を呑む。


「どなたですか」


「消えた帳簿係の弟だ。今は書庫番見習いとして置いている」


 消えた帳簿係。


 その弟。


 書庫番見習い。


 北壁の書庫。


 黒い帳簿。


 孤児院の名簿。


 相続人の名。


 すべてが、細い糸で繋がり始めている。


 その時、書斎の外で小さな物音がした。


 マーサが扉を開ける。


 廊下には誰もいない。


 ただ、床の上に古い鍵が落ちていた。


 錆びた銀色の鍵。


 鍵には、小さな札が結ばれている。


 そこには震える文字で、こう書かれていた。


 ――北壁の書庫。

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