表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/50

第4話 契約は白い手袋越しに

「この遺言書は……一度、別の遺言書を食べています」


 自分で口にした言葉なのに、胸の奥が冷えた。


 書斎の空気が、ぴんと張り詰める。


 燭台の火が小さく揺れ、赤い封蝋の影が机の上で歪んだ。


 レオンハルト様は、驚きも怒りも見せなかった。


 ただ、氷青の瞳を細める。


「食べている、とはどういう意味だ」


「正確には、上から塗り潰されています。本来あった封蝋の上に、別の封蝋を重ねて、表面だけを先代公爵様の遺言書に見せかけているのだと思います」


「偽造か」


「偽造です。ただし、かなり巧妙です」


 私は赤い封蝋を見つめた。


 表面に押された白銀の狼の紋章は、確かにヴァイス公爵家のものに見える。蝋の色も、魔力の波も、遠目には本物と区別がつかない。


 けれど、触れた指先には分かる。


 この封蝋の奥には、別の封が眠っている。


 そして、その眠らされた封は、必死に何かを守ろうとしていた。


「通常、遺言書の封蝋は開封されると痕跡が残ります。ですがこれは、開封した跡を消すのではなく、元の封蝋ごと覆っています。封を破らずに、本物の遺言を封じ込めた状態です」


 オルデン様が低く息を呑んだ。


「そんなことが可能なのですか」


「普通はできません。封蝋に込められた家門魔力が反発しますから」


「では、なぜ」


「内側の封蝋を弱らせる何かが使われています。先ほどの逆印と似た、封の魔力を濁らせるものです」


 そう言った瞬間、レオンハルト様の左手がわずかに動いた。


 手袋に包まれた指先が、机の縁を掴む。


 私はそれに気づいてしまった。


「レオンハルト様?」


「続けろ」


「ですが、お顔の色が」


「問題ない」


 声は冷たい。


 けれど、問題がない人の顔色ではなかった。


 燭台の火に照らされた頬は、血の気が引いたように白い。先ほどまで雨に濡れていたせいだけではない。唇にも、わずかな青みが差している。


 真実に近づこうとすると、体調が悪化する。


 オルデン様が馬車の中で言っていた言葉を思い出した。


「この遺言書について調べると、呪いが発動するのですか」


 書斎に、短い沈黙が落ちた。


 オルデン様が私を見た。


 マーサと呼ばれた老侍女も、扉のそばで表情を強張らせている。


 レオンハルト様だけが、静かに私を見返した。


「それも読んだのか」


「いいえ。今のは、見ただけです」


「見ただけでそこまで言うのか」


「遺言書に触れた時、封蝋の奥に『レオンハルトを疑うな』という感情が残っていました。ですが、あなたが真実に近づこうとすると体調を崩されるなら、その言葉はおそらく、あなた自身を守るためのものです」


「私を疑うな、ではなく、私に調べさせるな、か」


「はい。少なくとも、先代公爵様はあなたを遠ざけたかったのではなく、守ろうとしていたのだと思います」


 レオンハルト様の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 それはあまりにも小さな変化だった。


 けれど、私は見逃せなかった。


 冷徹公爵。


 呪われた男。


 そう呼ばれる彼が、たった一言を聞いて、息を止めたように見えたから。


「……先代は、私を疑っていたわけではないのか」


 低い声だった。


 誰に向けた問いでもないように聞こえた。


「少なくとも、この封蝋に残る感情は違います」


「何が残っている」


「後悔と、焦りと……愛情です」


 愛情。


 その言葉を口にした途端、書斎がさらに静かになった。


 レオンハルト様は何も言わなかった。


 けれど、机に置かれていた手がゆっくりと離れる。


「そうか」


 たったそれだけだった。


 それ以上、彼は感情を見せなかった。


 けれど私は、なぜか胸が痛くなった。


 この人は、もしかすると長い間、父に疑われたと思って生きてきたのかもしれない。


 先代公爵の遺言を開けられず、屋敷は傾き、領地の支援金は消え、自分が調べようとすると呪いが発動する。


 そして誰も、その痛みを説明してくれない。


 それなら、冷たくならなければ立っていられなかったのかもしれない。


「セラフィナ」


 レオンハルト様が、私の名を呼んだ。


「正式に契約を結ぶ」


「はい」


「オルデン」


「すでに準備しております」


 オルデン様は机の引き出しから、厚手の契約書を取り出した。


 羊皮紙は三枚。


 表題は、臨時遺言調査および文書監査契約。


 依頼主、レオンハルト・ヴァイス公爵。


 受任者、セラフィナ・ロウエル。


 私は一行目を見て、少しだけ手を止めた。


 ロウエル。


 今の私は、もうその名を名乗ることを許されていない。


 それに気づいたのか、レオンハルト様が言う。


「不都合か」


「……除籍されたばかりですので」


「法的な除籍手続きには、王宮文書局への届け出が必要だ。夜会場で男爵が叫んだだけでは、まだ完了していない」


 私は瞬いた。


「そうなのですか」


「貴族の身分を奪うには、書類がいる」


「……書類」


「ああ。君の得意分野だろう」


 少しだけ皮肉めいた言い方。


 けれど悪意はない。


 思わず、小さく息が漏れた。


 笑ったのだと気づいたのは、オルデン様がわずかに目を丸くしたからだった。


「では、現時点ではロウエル姓で契約しても問題ありません」


「必要なら、後日変更すればいい」


「ありがとうございます」


 私は契約書へ視線を戻した。


 報酬。


 滞在場所。


 調査権限。


 公爵家内の文書閲覧範囲。


 封蝋読みの使用回数制限。


 代償が発生した場合の休息義務。


 証拠として保全する書類の扱い。


 ずいぶん細かく整えられている。


 正直、少し驚いた。


 私がこれまで協会で回されてきた下働きの契約書は、曖昧なものばかりだった。責任は押しつけられ、報酬は削られ、失敗だけが記録に残る。


 けれどこの契約書には、私を守る条項がある。


「この休息義務は……」


「先代様の覚書をもとに、私が加えました」


 オルデン様が答えた。


「封蝋読みは一日に三件まで。それ以上は主治医または家令の許可なく行わない。強い悪意、死者の後悔、呪詛契約に触れた場合は、温かい飲み物と休息を取らせること」


 私は契約書から目を上げた。


「そんな条項、普通は入れません」


「普通を知らん」


 レオンハルト様が短く言った。


「必要なら入れる」


 また、当然のように。


 この人はどうして、私が今まで当然として扱われなかった部分ばかり、当然として扱うのだろう。


 胸の奥が、少し落ち着かなくなる。


「確認を続けます」


 私は動揺をごまかすように、契約書を読み進めた。


 問題はない。


 むしろ、受任者側にかなり配慮されている。


 けれど最後の頁に差しかかった時、指先がぴたりと止まった。


 署名欄の下。


 契約を封じるための空欄。


 そこに押される予定の封蝋が、まだ存在していないにもかかわらず、紙の繊維の奥から冷たい気配がにじんでいる。


「この契約書は、どなたが作成しましたか」


「草案は王宮文書局の標準書式です。そこに私が修正を」


 オルデン様が言う。


「標準書式……」


「何かあるのか」


 レオンハルト様が問う。


 私は契約書の最後の頁に手をかざした。


 まだ封蝋は押されていない。


 なのに、紙が封を待っている。


 いいや、違う。


 紙が何かを呼び込む形に整えられている。


 この書式自体に、封蝋が押された瞬間だけ発動する隠し条件が仕込まれている。


「この契約書には、使えません」


 私ははっきり告げた。


 オルデン様の表情が変わる。


「なぜです」


「本文は問題ありません。ですが、王宮文書局の標準書式そのものに、細工があります」


「標準書式に?」


「はい。署名欄と封蝋欄の配置が不自然です。普通の契約なら、依頼主と受任者の封は対等に並べます。けれどこれは、依頼主の封が上に、受任者の封が下に来るようになっています」


「それだけなら、身分差を示す古い形式では」


「そう見せています。でも、この罫線の角度と余白の取り方が、呪詛契約の拘束陣に似ています」


 言いながら、背筋が冷えていく。


 私は呪詛契約の専門家ではない。


 けれど封蝋読みとして、契約書の“封じ方”は学んできた。


 この書式は、契約成立と同時に、下位に置かれた者の職能を縛る形になっている。


 つまり、私がこのまま署名して封を押せば。


「私の封蝋読みが、公爵家の遺言を読むことに反応して、逆に呪いの管にされる可能性があります」


「管?」


「はい。私が読めば読むほど、その結果がどこかへ流れる。あるいは、レオンハルト様の呪いへ繋がる」


 レオンハルト様の顔から、わずかに温度が消えた。


「王宮文書局の標準書式と言ったな」


「はい」


 オルデン様の声も硬い。


「ならば、王宮保管封だけではなく、書式そのものも汚染されている可能性があります」


「そう考えるべきでしょう」


 私の言葉に、書斎の誰もすぐには答えなかった。


 重い沈黙。


 公爵家の遺言。


 横領の疑い。


 クラウス商会。


 王宮保管封。


 そして今、王宮文書局の標準書式。


 点が、少しずつ嫌な線になっていく。


「書き直せるか」


 レオンハルト様が問う。


「はい。公爵家独自の契約書式に変更します。封蝋欄は対等配置。さらに、契約目的を『遺言調査』ではなく『文書保全および真偽確認』にしてください」


「違いは」


「遺言調査だと、遺言に仕掛けられた呪いに接続されます。文書保全なら、封を守る側に立てます」


「なるほど」


 レオンハルト様は、迷わずオルデン様に命じた。


「新しい羊皮紙を」


「すぐに」


 オルデン様が退室すると、書斎には私とレオンハルト様、そして扉近くのマーサだけが残った。


 マーサは静かに茶器を置き、私のそばへ温かな蜂蜜湯を差し出してくれる。


「お飲みくださいませ、セラフィナ様。お顔が真っ白です」


「ありがとうございます」


 両手でカップを包むと、指先がじんわり温まった。


 その様子を、レオンハルト様が黙って見ている。


「……何でしょうか」


「君は、自分が見習いだと言った」


「はい」


「見習いが、王宮標準書式の罠を見抜くのか」


「普通は見抜けません。ですが私は、実務より失敗例の整理ばかり任されていましたから」


「失敗例?」


「はい。偽造、封蝋破損、遺言無効、契約不備、相続争い。誰もやりたがらない古い書類の整理です」


 紙くず令嬢。


 そう呼ばれた仕事。


 けれど今、その紙くずの山が私を助けている。


「役に立たない仕事ではなかったな」


 レオンハルト様が言った。


 私はカップを持つ手を止める。


「……そう言っていただけたのは、初めてです」


「なら、二度目も言うことになるだろう」


「え?」


「君の仕事は、必要だ」


 まっすぐな声だった。


 甘さなどない。


 慰めでもない。


 ただ、事実として告げられた言葉。


 それなのに、胸が苦しくなった。


 私は慌てて蜂蜜湯を飲む。


 温かさが喉を通るたび、泣きそうになる自分を押し戻した。


 しばらくして、オルデン様が新しい羊皮紙を持って戻った。


 私は内容を書き直し、条項を一つずつ確認した。


 調査目的。


 報酬。


 守秘義務。


 証拠保全。


 封蝋読みの制限。


 公爵家内での身分保障。


 そして最後に、私の職能を侮辱・妨害した者への処分権限。


「ここまで必要でしょうか」


 私が尋ねると、レオンハルト様は当然のように答えた。


「必要だ。君が仕事をできなければ、私が困る」


「……仕事のためですね」


「今はな」


 今は。


 なぜか、その一言が耳に残った。


 契約書が整い、署名の時が来た。


 レオンハルト様が先に名を書く。


 レオンハルト・ヴァイス。


 鋭く整った文字だった。


 私はその下に、自分の名を書く。


 セラフィナ・ロウエル。


 家を追い出されたばかりの名。


 けれどこの契約書の上では、私は罪人ではなく、受任者だった。


 最後に、封蝋。


 レオンハルト様が白銀の狼の封印具を取り出す。


 私は、自分の小さな封印具を鞄から出した。


 母が残してくれた、蔦と小鳥の印。


 格の違いは明らかだった。


 けれど契約書の上で、二つの封蝋欄は同じ高さに並んでいる。


 白い手袋越しに、私たちはそれぞれ封を押した。


 赤と白銀。


 蔦と狼。


 二つの封蝋が並んだ瞬間、契約書から澄んだ音がした。


 呪いの気配はない。


 代わりに、静かな誓約の感触が残る。


「契約成立だ」


 レオンハルト様が言った。


「今日から君は、ヴァイス公爵家の正式な客人であり、臨時文書監査人だ」


「はい。誠実に務めます」


「それから」


 彼は少しだけ視線を落とした。


「君の部屋を用意してある。今夜は休め」


「ですが、遺言書の確認を」


「休め」


 有無を言わせぬ声だった。


「一日に何度も封蝋を読めば倒れるのだろう」


「まだ倒れてはいません」


「倒れてからでは遅い」


 マーサが小さく頷いた。


「旦那様のおっしゃる通りです。お湯もお食事もご用意しておりますよ」


 私は反論しかけて、やめた。


 今日一日で、婚約破棄され、追放され、襲撃され、遺言書を読み、契約書の罠まで見抜いた。


 気づけば、体はひどく重かった。


「……では、お言葉に甘えます」


「そうしろ」


 レオンハルト様はそれだけ言って、遺言書へ視線を戻す。


 その横顔には、再び冷たい影が落ちていた。


 私は部屋を出る前に、どうしても気になって振り返った。


「レオンハルト様」


「何だ」


「先代公爵様の封蝋は、あなたを疑ってはいませんでした」


 彼は何も言わなかった。


 けれど、燭台の光の中で、長い睫毛がわずかに伏せられる。


「……そうか」


 また、その一言だけ。


 私は一礼し、マーサに案内されて書斎を出た。


 廊下は静かだった。


 窓の外では雨が上がり、雲の切れ間から月が覗いている。


 けれど、私の指先にはまだ、契約書に触れた時の違和感が残っていた。


 王宮文書局の標準書式に、呪いへ繋がる罠があった。


 もしそれが偶然でないのなら。


 公爵家を蝕んでいるものは、屋敷の中だけにあるのではない。


 王都の、もっと深い場所から伸びている。


 そう思った瞬間、廊下の奥で小さな物音がした。


 振り向くと、誰もいない。


 ただ、床に一枚の紙片が落ちていた。


 私は拾い上げる。


 古い帳簿の切れ端。


 そこには、震える文字でこう書かれていた。


 ――孤児院への支援金は、届いていません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ