第4話 契約は白い手袋越しに
「この遺言書は……一度、別の遺言書を食べています」
自分で口にした言葉なのに、胸の奥が冷えた。
書斎の空気が、ぴんと張り詰める。
燭台の火が小さく揺れ、赤い封蝋の影が机の上で歪んだ。
レオンハルト様は、驚きも怒りも見せなかった。
ただ、氷青の瞳を細める。
「食べている、とはどういう意味だ」
「正確には、上から塗り潰されています。本来あった封蝋の上に、別の封蝋を重ねて、表面だけを先代公爵様の遺言書に見せかけているのだと思います」
「偽造か」
「偽造です。ただし、かなり巧妙です」
私は赤い封蝋を見つめた。
表面に押された白銀の狼の紋章は、確かにヴァイス公爵家のものに見える。蝋の色も、魔力の波も、遠目には本物と区別がつかない。
けれど、触れた指先には分かる。
この封蝋の奥には、別の封が眠っている。
そして、その眠らされた封は、必死に何かを守ろうとしていた。
「通常、遺言書の封蝋は開封されると痕跡が残ります。ですがこれは、開封した跡を消すのではなく、元の封蝋ごと覆っています。封を破らずに、本物の遺言を封じ込めた状態です」
オルデン様が低く息を呑んだ。
「そんなことが可能なのですか」
「普通はできません。封蝋に込められた家門魔力が反発しますから」
「では、なぜ」
「内側の封蝋を弱らせる何かが使われています。先ほどの逆印と似た、封の魔力を濁らせるものです」
そう言った瞬間、レオンハルト様の左手がわずかに動いた。
手袋に包まれた指先が、机の縁を掴む。
私はそれに気づいてしまった。
「レオンハルト様?」
「続けろ」
「ですが、お顔の色が」
「問題ない」
声は冷たい。
けれど、問題がない人の顔色ではなかった。
燭台の火に照らされた頬は、血の気が引いたように白い。先ほどまで雨に濡れていたせいだけではない。唇にも、わずかな青みが差している。
真実に近づこうとすると、体調が悪化する。
オルデン様が馬車の中で言っていた言葉を思い出した。
「この遺言書について調べると、呪いが発動するのですか」
書斎に、短い沈黙が落ちた。
オルデン様が私を見た。
マーサと呼ばれた老侍女も、扉のそばで表情を強張らせている。
レオンハルト様だけが、静かに私を見返した。
「それも読んだのか」
「いいえ。今のは、見ただけです」
「見ただけでそこまで言うのか」
「遺言書に触れた時、封蝋の奥に『レオンハルトを疑うな』という感情が残っていました。ですが、あなたが真実に近づこうとすると体調を崩されるなら、その言葉はおそらく、あなた自身を守るためのものです」
「私を疑うな、ではなく、私に調べさせるな、か」
「はい。少なくとも、先代公爵様はあなたを遠ざけたかったのではなく、守ろうとしていたのだと思います」
レオンハルト様の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それはあまりにも小さな変化だった。
けれど、私は見逃せなかった。
冷徹公爵。
呪われた男。
そう呼ばれる彼が、たった一言を聞いて、息を止めたように見えたから。
「……先代は、私を疑っていたわけではないのか」
低い声だった。
誰に向けた問いでもないように聞こえた。
「少なくとも、この封蝋に残る感情は違います」
「何が残っている」
「後悔と、焦りと……愛情です」
愛情。
その言葉を口にした途端、書斎がさらに静かになった。
レオンハルト様は何も言わなかった。
けれど、机に置かれていた手がゆっくりと離れる。
「そうか」
たったそれだけだった。
それ以上、彼は感情を見せなかった。
けれど私は、なぜか胸が痛くなった。
この人は、もしかすると長い間、父に疑われたと思って生きてきたのかもしれない。
先代公爵の遺言を開けられず、屋敷は傾き、領地の支援金は消え、自分が調べようとすると呪いが発動する。
そして誰も、その痛みを説明してくれない。
それなら、冷たくならなければ立っていられなかったのかもしれない。
「セラフィナ」
レオンハルト様が、私の名を呼んだ。
「正式に契約を結ぶ」
「はい」
「オルデン」
「すでに準備しております」
オルデン様は机の引き出しから、厚手の契約書を取り出した。
羊皮紙は三枚。
表題は、臨時遺言調査および文書監査契約。
依頼主、レオンハルト・ヴァイス公爵。
受任者、セラフィナ・ロウエル。
私は一行目を見て、少しだけ手を止めた。
ロウエル。
今の私は、もうその名を名乗ることを許されていない。
それに気づいたのか、レオンハルト様が言う。
「不都合か」
「……除籍されたばかりですので」
「法的な除籍手続きには、王宮文書局への届け出が必要だ。夜会場で男爵が叫んだだけでは、まだ完了していない」
私は瞬いた。
「そうなのですか」
「貴族の身分を奪うには、書類がいる」
「……書類」
「ああ。君の得意分野だろう」
少しだけ皮肉めいた言い方。
けれど悪意はない。
思わず、小さく息が漏れた。
笑ったのだと気づいたのは、オルデン様がわずかに目を丸くしたからだった。
「では、現時点ではロウエル姓で契約しても問題ありません」
「必要なら、後日変更すればいい」
「ありがとうございます」
私は契約書へ視線を戻した。
報酬。
滞在場所。
調査権限。
公爵家内の文書閲覧範囲。
封蝋読みの使用回数制限。
代償が発生した場合の休息義務。
証拠として保全する書類の扱い。
ずいぶん細かく整えられている。
正直、少し驚いた。
私がこれまで協会で回されてきた下働きの契約書は、曖昧なものばかりだった。責任は押しつけられ、報酬は削られ、失敗だけが記録に残る。
けれどこの契約書には、私を守る条項がある。
「この休息義務は……」
「先代様の覚書をもとに、私が加えました」
オルデン様が答えた。
「封蝋読みは一日に三件まで。それ以上は主治医または家令の許可なく行わない。強い悪意、死者の後悔、呪詛契約に触れた場合は、温かい飲み物と休息を取らせること」
私は契約書から目を上げた。
「そんな条項、普通は入れません」
「普通を知らん」
レオンハルト様が短く言った。
「必要なら入れる」
また、当然のように。
この人はどうして、私が今まで当然として扱われなかった部分ばかり、当然として扱うのだろう。
胸の奥が、少し落ち着かなくなる。
「確認を続けます」
私は動揺をごまかすように、契約書を読み進めた。
問題はない。
むしろ、受任者側にかなり配慮されている。
けれど最後の頁に差しかかった時、指先がぴたりと止まった。
署名欄の下。
契約を封じるための空欄。
そこに押される予定の封蝋が、まだ存在していないにもかかわらず、紙の繊維の奥から冷たい気配がにじんでいる。
「この契約書は、どなたが作成しましたか」
「草案は王宮文書局の標準書式です。そこに私が修正を」
オルデン様が言う。
「標準書式……」
「何かあるのか」
レオンハルト様が問う。
私は契約書の最後の頁に手をかざした。
まだ封蝋は押されていない。
なのに、紙が封を待っている。
いいや、違う。
紙が何かを呼び込む形に整えられている。
この書式自体に、封蝋が押された瞬間だけ発動する隠し条件が仕込まれている。
「この契約書には、使えません」
私ははっきり告げた。
オルデン様の表情が変わる。
「なぜです」
「本文は問題ありません。ですが、王宮文書局の標準書式そのものに、細工があります」
「標準書式に?」
「はい。署名欄と封蝋欄の配置が不自然です。普通の契約なら、依頼主と受任者の封は対等に並べます。けれどこれは、依頼主の封が上に、受任者の封が下に来るようになっています」
「それだけなら、身分差を示す古い形式では」
「そう見せています。でも、この罫線の角度と余白の取り方が、呪詛契約の拘束陣に似ています」
言いながら、背筋が冷えていく。
私は呪詛契約の専門家ではない。
けれど封蝋読みとして、契約書の“封じ方”は学んできた。
この書式は、契約成立と同時に、下位に置かれた者の職能を縛る形になっている。
つまり、私がこのまま署名して封を押せば。
「私の封蝋読みが、公爵家の遺言を読むことに反応して、逆に呪いの管にされる可能性があります」
「管?」
「はい。私が読めば読むほど、その結果がどこかへ流れる。あるいは、レオンハルト様の呪いへ繋がる」
レオンハルト様の顔から、わずかに温度が消えた。
「王宮文書局の標準書式と言ったな」
「はい」
オルデン様の声も硬い。
「ならば、王宮保管封だけではなく、書式そのものも汚染されている可能性があります」
「そう考えるべきでしょう」
私の言葉に、書斎の誰もすぐには答えなかった。
重い沈黙。
公爵家の遺言。
横領の疑い。
クラウス商会。
王宮保管封。
そして今、王宮文書局の標準書式。
点が、少しずつ嫌な線になっていく。
「書き直せるか」
レオンハルト様が問う。
「はい。公爵家独自の契約書式に変更します。封蝋欄は対等配置。さらに、契約目的を『遺言調査』ではなく『文書保全および真偽確認』にしてください」
「違いは」
「遺言調査だと、遺言に仕掛けられた呪いに接続されます。文書保全なら、封を守る側に立てます」
「なるほど」
レオンハルト様は、迷わずオルデン様に命じた。
「新しい羊皮紙を」
「すぐに」
オルデン様が退室すると、書斎には私とレオンハルト様、そして扉近くのマーサだけが残った。
マーサは静かに茶器を置き、私のそばへ温かな蜂蜜湯を差し出してくれる。
「お飲みくださいませ、セラフィナ様。お顔が真っ白です」
「ありがとうございます」
両手でカップを包むと、指先がじんわり温まった。
その様子を、レオンハルト様が黙って見ている。
「……何でしょうか」
「君は、自分が見習いだと言った」
「はい」
「見習いが、王宮標準書式の罠を見抜くのか」
「普通は見抜けません。ですが私は、実務より失敗例の整理ばかり任されていましたから」
「失敗例?」
「はい。偽造、封蝋破損、遺言無効、契約不備、相続争い。誰もやりたがらない古い書類の整理です」
紙くず令嬢。
そう呼ばれた仕事。
けれど今、その紙くずの山が私を助けている。
「役に立たない仕事ではなかったな」
レオンハルト様が言った。
私はカップを持つ手を止める。
「……そう言っていただけたのは、初めてです」
「なら、二度目も言うことになるだろう」
「え?」
「君の仕事は、必要だ」
まっすぐな声だった。
甘さなどない。
慰めでもない。
ただ、事実として告げられた言葉。
それなのに、胸が苦しくなった。
私は慌てて蜂蜜湯を飲む。
温かさが喉を通るたび、泣きそうになる自分を押し戻した。
しばらくして、オルデン様が新しい羊皮紙を持って戻った。
私は内容を書き直し、条項を一つずつ確認した。
調査目的。
報酬。
守秘義務。
証拠保全。
封蝋読みの制限。
公爵家内での身分保障。
そして最後に、私の職能を侮辱・妨害した者への処分権限。
「ここまで必要でしょうか」
私が尋ねると、レオンハルト様は当然のように答えた。
「必要だ。君が仕事をできなければ、私が困る」
「……仕事のためですね」
「今はな」
今は。
なぜか、その一言が耳に残った。
契約書が整い、署名の時が来た。
レオンハルト様が先に名を書く。
レオンハルト・ヴァイス。
鋭く整った文字だった。
私はその下に、自分の名を書く。
セラフィナ・ロウエル。
家を追い出されたばかりの名。
けれどこの契約書の上では、私は罪人ではなく、受任者だった。
最後に、封蝋。
レオンハルト様が白銀の狼の封印具を取り出す。
私は、自分の小さな封印具を鞄から出した。
母が残してくれた、蔦と小鳥の印。
格の違いは明らかだった。
けれど契約書の上で、二つの封蝋欄は同じ高さに並んでいる。
白い手袋越しに、私たちはそれぞれ封を押した。
赤と白銀。
蔦と狼。
二つの封蝋が並んだ瞬間、契約書から澄んだ音がした。
呪いの気配はない。
代わりに、静かな誓約の感触が残る。
「契約成立だ」
レオンハルト様が言った。
「今日から君は、ヴァイス公爵家の正式な客人であり、臨時文書監査人だ」
「はい。誠実に務めます」
「それから」
彼は少しだけ視線を落とした。
「君の部屋を用意してある。今夜は休め」
「ですが、遺言書の確認を」
「休め」
有無を言わせぬ声だった。
「一日に何度も封蝋を読めば倒れるのだろう」
「まだ倒れてはいません」
「倒れてからでは遅い」
マーサが小さく頷いた。
「旦那様のおっしゃる通りです。お湯もお食事もご用意しておりますよ」
私は反論しかけて、やめた。
今日一日で、婚約破棄され、追放され、襲撃され、遺言書を読み、契約書の罠まで見抜いた。
気づけば、体はひどく重かった。
「……では、お言葉に甘えます」
「そうしろ」
レオンハルト様はそれだけ言って、遺言書へ視線を戻す。
その横顔には、再び冷たい影が落ちていた。
私は部屋を出る前に、どうしても気になって振り返った。
「レオンハルト様」
「何だ」
「先代公爵様の封蝋は、あなたを疑ってはいませんでした」
彼は何も言わなかった。
けれど、燭台の光の中で、長い睫毛がわずかに伏せられる。
「……そうか」
また、その一言だけ。
私は一礼し、マーサに案内されて書斎を出た。
廊下は静かだった。
窓の外では雨が上がり、雲の切れ間から月が覗いている。
けれど、私の指先にはまだ、契約書に触れた時の違和感が残っていた。
王宮文書局の標準書式に、呪いへ繋がる罠があった。
もしそれが偶然でないのなら。
公爵家を蝕んでいるものは、屋敷の中だけにあるのではない。
王都の、もっと深い場所から伸びている。
そう思った瞬間、廊下の奥で小さな物音がした。
振り向くと、誰もいない。
ただ、床に一枚の紙片が落ちていた。
私は拾い上げる。
古い帳簿の切れ端。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
――孤児院への支援金は、届いていません。




