第3話 冷徹公爵と赤い遺言書
――レオンハルトが来る。
封蝋の奥から流れ込んできた言葉に、私は息を呑んだ。
馬車の外では、雨を踏む足音が増えている。
フードをかぶった人影が、ランタンの光の向こうで揺れた。胸元に下がる黒い封印具が、濡れた闇の中で鈍く光っている。
逆印。
封蝋を壊すための道具。
遺言書や契約書を扱う者なら、一度は名前を聞く禁具だった。
封じられた意志を乱し、封蝋に残った魔力を濁らせる。正式な文書には決して用いてはならないもの。
それを持った者たちが、今、私の乗る馬車を囲んでいる。
「セラフィナ様。決して封書を手放さないでください」
オルデン様は短剣を抜き、私の前に立った。
老いた家令とは思えないほど、その動きは鋭かった。
「彼らの目的は、おそらくその封書です」
「私ではなく?」
「今のところは」
淡々とした返答に、かえって少し落ち着いた。
そうだ。怖がっている場合ではない。
私は黒い封筒を鞄の奥に押し込み、白手袋をはめ直した。
封蝋読みは、戦うための力ではない。
けれど、封じられたものの異常を見抜くことはできる。
馬車の扉が、外側から強く叩かれた。
「開けろ」
低い男の声。
オルデン様は答えない。
次の瞬間、扉の隙間から、黒い煙のようなものが染み込んできた。
封蝋を腐らせる魔力。
それが鞄の中の封書に触れようとした瞬間、封蝋が小さく震えた。
助けて。
声ではない。けれど、確かにそう感じた。
私は反射的に鞄を抱きしめる。
指先が凍るほど冷たい。
黒い煙が私の白手袋に絡みつき、封蝋へ伸びようとする。
「だめ……!」
私は鞄から封書を取り出し、深紅の封蝋に手を重ねた。
途端、胸の奥に熱が走る。
先代公爵の感情ではない。
これは、私自身の職能の反応だ。
封蝋を読む力。
封じられた本心を拾う力。
それが今、濁されようとしている封を守ろうとしていた。
黒い煙の中に、別の感情が混じっている。
壊せ。
読ませるな。
女を連れて行け。
女?
封書だけではない。
彼らは、私のことも狙っている。
気づいた瞬間、馬車の扉が破られた。
冷たい雨風が流れ込み、黒衣の男が手を伸ばしてくる。
「封書を渡せ」
オルデン様が短剣でその腕を払った。
けれど別の男が、逆印を掲げる。
黒い印が光った。
封蝋が悲鳴を上げるように熱を帯び、私の指先に鋭い痛みが走る。
「っ……!」
「セラフィナ様!」
その時だった。
雨音が、突然裂けた。
馬の嘶き。
鋼が抜かれる音。
そして、凍るような声。
「私の客人に触れるな」
外にいた黒衣の男たちが、一斉に振り返る。
割れた扉の向こう。
雨の街道に、一人の男が立っていた。
黒い外套が風に翻る。濡れた夜より深い黒髪。氷のような青い瞳。長身の身体を包む公爵服には、白銀の狼を抱いた盾の紋章が刺繍されている。
美しい人だと思った。
けれど、その美しさは花や宝石のそれではない。
抜き身の刃に似ていた。
近づけば傷つくと分かる、冷たい光。
「レオンハルト様!」
オルデン様が声を上げる。
彼こそが、レオンハルト・ヴァイス公爵。
冷徹公爵。
呪われた男。
そして、封蝋の奥で先代公爵が守れと願った人。
レオンハルト様は、私を一瞥した。
ほんの一瞬。
けれどその目は、夜会場の人々のように私を値踏みしなかった。
罪人を見る目でも、紙くずを見る目でもなかった。
ただ、状況を確認する目。
そして、守るべきものを定める目だった。
「封書は」
短く問われ、私は黒い封筒を胸に抱き直す。
「ここにあります」
「ならば下がっていろ」
彼が剣を抜いた。
その瞬間、空気が変わった。
黒衣の男たちが後ずさる。
「ヴァイス公爵……なぜここに」
「私の家の封を嗅ぎ回る鼠がいると聞いてな」
レオンハルト様は、少しも声を荒げなかった。
冷たく、低く、ただ事実を告げるように言う。
「生きて帰りたい者は、その逆印を置いて去れ」
黒衣の男が笑った。
「呪われた公爵が、強がるな。お前は真実に近づけない。調べれば調べるほど、その身体は――」
言葉は最後まで続かなかった。
レオンハルト様の剣が、男の手元を正確に打ったのだ。
逆印が泥の上へ落ちる。
男は悲鳴を上げて膝をついた。
速い。
けれど、それよりも恐ろしいのは、彼の顔に怒りの色がないことだった。
冷徹。
その噂は、たしかに半分は正しいのかもしれない。
だが、私は見てしまった。
男が「真実に近づけない」と言った瞬間、レオンハルト様の左手が一瞬だけ震えたことを。
手袋の下で、何か痛みをこらえるように。
「撤退!」
黒衣の一人が叫ぶ。
彼らは倒れた仲間を引きずり、雨の闇へ散っていった。
追う兵士たちの足音が遠ざかる。
残されたのは、壊れた馬車と、泥に落ちた黒い逆印。
そして、雨の中で剣を収める冷徹公爵だけだった。
レオンハルト様は私に近づいてくる。
私は立ち上がろうとして、膝がうまく動かないことに気づいた。
怖かったのだと、遅れて理解する。
馬車の中で必死に封書を抱いていたけれど、体は正直だった。
足先が冷え切り、手袋の内側の指はまだ震えている。
レオンハルト様はそれを見て、眉をわずかに動かした。
「怪我は」
「ありません」
「嘘だな」
「え?」
彼は私の右手を見た。
封蝋に触れていた指先。
白手袋の上からでも分かるほど、赤い痕が浮かんでいる。
「封蝋読みの代償か」
「……ご存じなのですか」
「先代が記していた」
また、先代公爵。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
レオンハルト様は自分の外套を外し、私の肩にかけた。
その動作があまりに自然で、私は一瞬反応できなかった。
「濡れたままでは倒れる」
「あ、ありがとうございます」
「礼はいい。倒れられると困る」
冷たい言い方。
けれど外套は重く、温かかった。
夜会場で誰も差し出してくれなかったものが、呪われた公爵家の当主から与えられている。
おかしな夜だった。
「レオンハルト様。申し訳ございません。敵に先回りされました」
オルデン様が頭を下げる。
「お前のせいではない。金庫に触れた者がいたのだろう」
「金庫に触れられる者は限られます」
「ああ」
レオンハルト様の目が、泥に落ちた逆印へ向く。
「だから面倒だ」
私はその逆印を見つめた。
黒い金属に、見慣れない紋が刻まれている。
ただの襲撃者が持つものではない。文書と封蝋の扱いを知る者の道具だ。
「触れてもよろしいですか」
そう言うと、レオンハルト様がこちらを見た。
「危険ではないのか」
「危険です。ですが、今なら痕跡が残っています」
「必要か」
「はい」
「ならば私が持つ。君は直接触るな」
彼は逆印を拾い、私の前に差し出した。
私は少し驚いた。
命じるのではなく、守る形を取ったからだ。
白手袋越しに、逆印へ指を近づける。
直接触れていない。それでも、十分だった。
冷たい悪意が、黒い金属からにじんでいる。
壊せ。
封を濁せ。
読ませるな。
公爵より先に、女を押さえろ。
その奥に、もう一つ。
金の匂い。
薬草の苦味。
湿った地下室。
そして、封筒に押された見覚えのない商会印。
「クラウス」
私が呟くと、オルデン様が息を呑んだ。
「やはり、クラウス商会ですか」
「名前が直接残っているわけではありません。でも、封蝋の感情に、同じ癖があります。商会印に使われる油、薬草、金庫の湿気……。封書に残っていたものと似ています」
「封書に?」
レオンハルト様の声が低くなった。
私は頷く。
「先代公爵様の封書に、開けようとした別の魔力が残っていました。おそらく、同じ系統です」
「……なるほど」
彼の表情は変わらない。
けれど雨の中、氷青の瞳だけがわずかに鋭くなる。
「君の力は、噂より厄介だな」
褒め言葉なのかどうか分からなかった。
私は一瞬迷ってから、答える。
「よく、薄気味悪いとは言われます」
「薄気味悪いとは言っていない」
「では、厄介と」
「ああ。敵にとっては」
その言葉に、私は目を瞬いた。
敵にとっては。
つまり彼は、少なくとも今、私を敵側には置いていない。
「セラフィナ・ロウエル」
レオンハルト様が、改めて私の名を呼んだ。
「……今の私は、ロウエルの名を名乗ることを許されていません」
「では、セラフィナ」
あまりに当然のように呼び直され、心臓が跳ねた。
「君に依頼する。ヴァイス公爵家に来て、先代の遺言を読め」
「私は、まだ正式な遺言執行人ではありません」
「知っている」
「先ほど婚約破棄され、偽造の罪を着せられたばかりです」
「それも見た」
「でしたら、なぜ私を」
レオンハルト様は少しだけ沈黙した。
雨が彼の黒髪を濡らし、頬を伝って落ちる。
その横顔は冷たく整っていて、感情が読めない。
「先代が君を選んだからだ」
「それだけですか」
「今は、それだけで十分だ」
彼は短く言った。
「それに、先ほど君は封書を守った。自分の身より先に」
「それは……封蝋が、助けを求めていたので」
「普通は、封蝋の願いなど聞かない」
「私は聞こえてしまうので」
「ならば、なおさら必要だ」
必要。
その言葉が、胸に静かに落ちた。
夜会場で踏みにじられたばかりの心に、熱いものが滲む。
私は目を伏せた。
泣いてはいけない。
今は仕事の話をしているのだから。
「契約内容を確認させてください」
「当然だ。屋敷で正式な契約書を用意する」
「報酬と権限、調査範囲、開封条件、証言記録の扱いも明文化してください」
言ってから、自分でも驚いた。
声が震えていなかった。
レオンハルト様も、わずかに目を細める。
「細かいな」
「遺言と契約を扱う仕事ですから」
「悪くない」
短い一言。
けれどオルデン様が、ほんの少しだけ驚いた顔をした。
もしかすると、この冷徹公爵はあまり人を褒めないのかもしれない。
その時、遠くから別の馬車が近づいてきた。
公爵家の護衛が手配した予備の馬車だった。
壊れた馬車から移る前に、レオンハルト様は私へ手を差し出した。
黒い手袋の手。
迷ったのは一瞬だけだった。
私はその手を取る。
硬く、冷たい手だった。
けれど、雨に濡れた石畳へ踏み出す私を、彼は確かに支えてくれた。
予備の馬車は、最初のものよりさらに重厚だった。
座席に腰を下ろすと、レオンハルト様は向かいではなく、斜め前に座った。まるで、扉と私の間を塞ぐように。
その不器用な配置に気づいてしまい、私は思わず視線を落とした。
冷徹公爵。
呪われた男。
けれど彼は、雨の中で私を守った。
外套をかけ、逆印に直接触れさせず、今も扉側に座っている。
噂とは、やはり当てにならない。
馬車が走り出してしばらくすると、森の向こうに巨大な屋敷が見え始めた。
ヴァイス公爵邸。
月明かりの下、黒い尖塔と高い窓が並ぶその屋敷は、まるで古い眠りから覚めない城のようだった。
窓の灯りは少ない。
広大な屋敷にしては、あまりに静かすぎる。
「使用人が少ないのですね」
思わず呟くと、レオンハルト様が答えた。
「逃げた者もいる。消えた者もいる」
「消えた……」
「調べれば分かる」
屋敷の門が開く。
重い鉄の音が、雨上がりの夜に響いた。
玄関前には、数名の使用人が並んでいた。皆、疲れた顔をしている。警戒の色も濃い。
その視線が、私に集まる。
ロウエル家から追い出されたばかりの令嬢。
婚約破棄された女。
遺言書偽造の疑いをかけられた紙くず令嬢。
そう見られているのだと、すぐに分かった。
けれどレオンハルト様は、彼らの前で足を止めると、静かに告げた。
「この方は、セラフィナ嬢だ。先代公爵の遺言調査のため、私が正式に招いた客人である」
客人。
その言葉に、使用人たちの表情が少し変わる。
「彼女の職能を侮辱する者は、この屋敷には不要だ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど誰も逆らえない響きがあった。
私は驚いて、隣のレオンハルト様を見上げた。
彼はこちらを見ない。
ただ、当然のことを言っただけという顔をしている。
その時、奥から老侍女らしき女性が進み出た。
「お部屋と湯の準備はできております、旦那様」
「マーサ。彼女に乾いた服と温かい飲み物を」
「承知いたしました」
「ああ。それから」
レオンハルト様は少しだけ間を置いた。
「彼女の書類鞄には、誰も触れるな」
私の鞄を守るように言ってくれた。
それだけで、胸の奥がまた少し熱くなる。
私は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「仕事道具だろう」
「はい」
「ならば当然だ」
当然。
私にとっては、一度も当然ではなかったこと。
その言葉が、なぜかひどく優しく聞こえた。
屋敷の中は、外観以上に広く、寒かった。
高い天井。黒い大理石の床。壁に並ぶ先祖の肖像画。どこも手入れは行き届いているのに、人の気配だけが薄い。
案内されたのは、玄関ホールから奥へ続く書斎だった。
壁一面の本棚。
重厚な机。
燭台の灯り。
そして机の中央に置かれた、赤い封蝋の遺言書。
私の足が、自然と止まった。
これだ。
黒い封筒とは違う。
けれど同じ先代公爵の魔力を帯びている。
重く、静かで、どこか悲しい。
「先代アルベルト・ヴァイス公爵の遺言書だ」
レオンハルト様が言った。
「これを開封するために、君を呼んだ」
私は遺言書に近づく。
触れる前から、指先が冷たい。
赤い封蝋には、白銀の狼の紋章。
しかし、その紋の輪郭がわずかに歪んで見える。
まるで、二つの封蝋が重なっているように。
「……おかしいです」
私は呟いた。
レオンハルト様がすぐに反応する。
「何が見える」
「まだ触れていません。ですが、この封蝋は一つではありません」
「一つではない?」
「はい。表に見えている封蝋の下に、別の封の記憶が残っています」
私は白手袋を整え、そっと赤い封蝋に触れた。
瞬間、胸の奥に激しい感情が流れ込む。
守れ。
破棄するな。
第二封。
北壁。
レオンハルトを疑うな。
そしてもう一つ、濁った感情。
隠せ。
塗り潰せ。
本物を食わせろ。
私は息を詰め、手を離した。
指先の赤い痕が、じんじんと熱い。
「セラフィナ」
レオンハルト様が一歩近づく。
私は顔を上げた。
彼の氷青の瞳が、まっすぐ私を見ている。
今度は、客人としてではなく、答えを持つ者を見る目だった。
「分かったことを言え」
私は唇を湿らせ、遺言書を見下ろした。
この封蝋は、ただ封じているのではない。
別の何かを、覆い隠している。
もっと正確に言うなら。
「この遺言書は……」
私は震える指先を握りしめた。
「一度、別の遺言書を食べています」




