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第2話 呪われ公爵家からの依頼

 黒い馬車の中は、雨音が遠かった。


 厚い扉が閉じた瞬間、夜会場の音楽も、人々の笑い声も、まるで別の世界の出来事のように薄れていく。


 私は濡れたドレスの裾を膝の上に寄せ、両手で黒い封筒を抱えていた。


 深紅の封蝋。


 白銀の狼を抱いた盾の紋章。


 ヴァイス公爵家の正式な家門封だった。


 けれど、指先に残る感覚は、ただの依頼状ではないと告げている。


 守れ。


 息子を。


 家を。


 まだ、開けるな。


 先ほど一瞬だけ流れ込んできた感情が、胸の奥に冷たい火種のように残っていた。


「お寒いでしょう」


 向かいの席に座る老紳士が、静かに毛布を差し出してくれた。


 年の頃は六十を越えているだろうか。灰色の髪をきっちり撫でつけ、背筋はまっすぐ伸びている。声には執事らしい節度があり、動作には隙がない。


「申し遅れました。私はヴァイス公爵家の家令、オルデンと申します」


「……ありがとうございます、オルデン様」


「様は不要です。セラフィナ様こそ、先ほどは大変な場に」


 大変な場。


 その穏やかな言葉で、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ揺れた。


 婚約破棄。


 遺言書偽造の冤罪。


 父からの除籍。


 夜会場に響いた笑い声。


 紙くず令嬢。


 私は毛布を受け取り、濡れた肩にかけた。


「……見ていらしたのですか」


「はい。主の命により、ロウエル男爵家の夜会へ参っておりました」


「では、私が罪人だと疑ってもおかしくありません」


 そう言ったつもりだった。


 けれど声は、思ったより小さく震えていた。


 オルデンはすぐに答えなかった。


 代わりに、膝の上に置いた黒革の書類鞄を開き、一枚の書面を取り出す。


「我が主は、セラフィナ様を罪人とは見ておりません」


「なぜですか」


「亡き先代公爵が、あなた様の名を遺しておられたからです」


 息が止まった。


「……私の名を?」


「はい」


 そんなはずはない。


 私は先代ヴァイス公爵に会ったことなどない。下級貴族の娘である私が、北方の大貴族と関わる機会などあるはずもなかった。


 けれどオルデンが差し出した書面には、確かに私の名前があった。


 セラフィナ・ロウエル。


 遺言執行人見習い。


 職能、封蝋読み。


 もし我が死後、ヴァイス家の遺言に疑義が生じた場合、彼女を招くこと。


 心臓が、ひどく大きな音を立てる。


「どうして……先代公爵様が、私のことを」


「詳しい理由は、私にも分かりません。ただ、先代様は亡くなるひと月ほど前から、王都の遺言執行人協会に関する資料を集めておられました。その中で、セラフィナ様の職能に注目なさったようです」


「協会では、私はほとんど仕事を任されていませんでした。見習いですし、封蝋読みは……あまり評価される職能ではありませんから」


「先代様は、評価なさっておりました」


 その一言に、喉の奥が詰まった。


 今日、私はたくさんの言葉を浴びた。


 役立たず。


 紙くず令嬢。


 薄気味悪い。


 身の程知らず。


 けれど、見たこともない死者だけが、私の力を必要としていた。


 こんな夜に、それはあまりにも優しすぎる言葉だった。


 私は泣きそうになり、慌てて黒い封筒に視線を落とした。


「この依頼状は、先代公爵様が残されたものですか?」


「はい。開封条件付きの封書です」


「開封条件?」


「セラフィナ様が、ロウエル家を出た夜にのみ、渡すようにと」


 馬車の中の空気が、ふっと冷えた気がした。


「……それは、おかしくありませんか」


「おかしい、とは」


「先代公爵様は、私が今夜ロウエル家を追い出されると知っていたことになります」


 オルデンは目を伏せた。


「我々も、その点を不審に思っております」


 私は封筒の封蝋を見つめた。


 深紅の蝋は、馬車の灯りを受けて静かに光っている。


 封蝋読みは、未来を読む力ではない。


 死者の声を聞く力でもない。


 残された封の痕跡から、そこに込められた本心や条件を読み取るだけの、地味で不便な職能だ。


 けれど、この封筒には、明らかに何かが仕掛けられている。


「触れてもよろしいですか」


「もちろんです。そのためにお渡ししました」


 私は白手袋をはめ直した。


 夜会で濡れた指先は冷えていたが、手袋の内側にはまだわずかに体温が残っている。


 封蝋に、そっと触れる。


 次の瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。


 蝋の奥から、重い感情が流れ込んでくる。


 焦燥。


 後悔。


 祈り。


 そして、強い警戒。


 開けてはならない。


 この封は、まだ開けてはならない。


 違う。


 これは依頼状であって、依頼状ではない。


 鍵だ。


 封じるためではなく、開くべきものを選ぶための鍵。


 私の指先に、ちくりと痛みが走った。


「セラフィナ様?」


 オルデンの声が遠い。


 赤い封蝋の奥で、誰かの切迫した思いが形を取る。


 レオンハルトを一人にするな。


 第二封を探せ。


 北壁の書庫。


 黒い帳簿。


 クラウスを信じるな。


 王印は、すでに濁っている。


「……王印」


 思わず呟いた。


 オルデンの表情が変わる。


「今、王印とおっしゃいましたか」


「はい。封蝋の中に、その言葉が残っています。王印はすでに濁っている、と」


「先代様は亡くなる前、王宮保管の遺言書をひどく気にされていました」


「王宮に保管された遺言もあるのですか?」


「貴族の正式な遺言は、家門封、証人封、王宮保管封の三つが揃って初めて効力を持ちます。ヴァイス家の遺言も例外ではありません」


 王宮保管封。


 王国の文官が管理する、もっとも信頼されるべき封。


 そこが濁っている。


 もしそれが事実なら、これは公爵家だけの問題ではない。


「もう一つ、言葉がありました」


「何でしょう」


「クラウスを信じるな、と」


 オルデンの目が、鋭く細められた。


「クラウス商会ですか」


「心当たりが?」


「ヴァイス公爵領の物資流通を長年任せている商会です。食料、薬、建材、孤児院や病院への支援物資まで、幅広く扱っています」


 孤児院。


 病院。


 支援物資。


 その言葉の並びに、胸がざわつく。


 私は封蝋から指を離した。


 瞬間、体から力が抜け、背もたれに寄りかかりそうになる。


「申し訳ありません」


 オルデンがすぐに小さな瓶を差し出した。


「蜂蜜湯です。封蝋読みの後は、体温が下がると伺っております」


「……そこまで、ご存じなのですか」


「先代様の覚書に」


 また、先代公爵。


 知らないはずの人が、私の力の代償まで知っている。


 不気味に思うべきなのかもしれない。


 けれど今の私には、それが少しだけ救いに思えた。


 少なくとも、ヴァイス公爵家は私の力を笑わない。


 蜂蜜湯を一口飲むと、冷え切った喉に甘さが染み込んだ。


「セラフィナ様。無理にとは申しません」


 オルデンが静かに言った。


「ヴァイス公爵家は現在、良い噂のない家です。主は冷徹公爵、呪われた男と呼ばれております。屋敷では使用人が相次いで辞め、領地では支援金の遅延が起きている。公爵家の財政も、表向きは危機的です」


「表向きは?」


「本来、ヴァイス家は破産するような家ではありません」


 その声には、抑えた怒りがあった。


「鉱山、街道税、北方港の管理権、薬草園。先代様の時代までは、領民への支援も厚く、王国有数の安定した公爵家でした。ですが、先代様の死後、帳簿が合わなくなった」


「横領、ですか」


「可能性は高いと見ています。しかし証拠がありません。調べようとすれば、なぜか主の体調が悪化する。関係者は口を閉ざす。書類は形式上、すべて整っている」


 整いすぎた書類。


 それは、偽造された遺言書と同じ匂いがする。


「そして、亡き先代様の遺言書だけが、いまだ正式に開封できておりません」


「なぜですか」


「王宮保管封と、家門封の内容が一致しない恐れがあるためです。主は安易な開封を避け、信頼できる遺言執行人を探しておりました」


「それで、私に」


「はい」


 私は膝の上の黒い封筒を見つめた。


 今夜、私はすべてを失った。


 けれどその同じ夜に、奇妙なほど都合よく、私を必要とする依頼が届いた。


 罠かもしれない。


 ロウエル家とは別の誰かが、私の力を利用しようとしているだけかもしれない。


 それでも。


 封蝋に残った願いは、本物だった。


 先代公爵は、自分の息子を守ろうとしていた。


 公爵家を守ろうとしていた。


 そしておそらく、領民も。


「オルデン様」


「はい」


「私は、今日婚約を破棄され、家からも追い出されました。今の私には、後ろ盾もありません。正式な遺言執行人でもなく、ただの見習いです」


「承知しております」


「それでも、よろしいのですか」


 オルデンは、迷わず頷いた。


「先代様は、あなたを名指しされました。そして我が主も、あなたを招くと決められました」


「レオンハルト公爵様が……」


「主は口数の少ない方ですが、無意味な判断はなさいません」


 冷徹公爵。


 呪われた男。


 社交界で何度も聞いた名だ。


 血の通わない氷のような男。


 妻を迎えれば不幸にする公爵。


 使用人を次々と追い出した冷酷な当主。


 けれど、噂とはいつも都合よく作られるものだ。


 今夜、私はそれを身をもって知った。


 私もまた、夜会場では罪人にされていた。


 事実など関係なく、皆が望む形に切り取られて。


「……分かりました」


 私は黒い封筒を両手で包んだ。


「正式な契約内容を確認したうえで、遺言書の調査をお受けします」


 オルデンが深く頭を下げる。


「ありがとうございます、セラフィナ様」


「ただし、一つだけ条件があります」


「何でしょう」


「私は、死者の願いを都合よく利用する仕事はいたしません。たとえ依頼主が公爵家であっても、封蝋が示した真実を曲げることはできません」


 言ってから、少し遅れて怖くなった。


 公爵家の家令相手に、何を偉そうに言っているのだろう。


 けれどオルデンは、ほんのわずかに目元を和らげた。


「そのお言葉を聞けば、先代様は喜ばれたでしょう」


 馬車が大きく揺れた。


 窓の外を見ると、王都の石畳が遠ざかり、暗い街道へ入っていた。


 雨は弱まっている。


 けれど北の空だけが、重く黒い雲に覆われていた。


 その先に、ヴァイス公爵邸がある。


 呪われた公爵家。


 偽りの遺言。


 濁った王印。


 信じてはならないクラウス商会。


 そして、レオンハルトを一人にするなという死者の願い。


 私は封筒を鞄にしまおうとして、ふと違和感を覚えた。


 封筒の裏側。


 封蝋のすぐ下に、爪で引っかいたような細い傷がある。


 灯りにかざすと、それは傷ではなく、極小の文字だった。


 普通の目では読めない。


 封蝋読みの感覚で、ようやく意味を拾えるほどの、かすかな刻印。


「……オルデン様」


「はい」


「この封筒、誰かが一度、開けようとしています」


 オルデンの表情が凍った。


「あり得ません。この封書は先代様の死後、主の私室の金庫に保管されておりました。鍵を持つのは、主と私だけです」


「でも、封蝋の縁に別の魔力が残っています。開けられてはいません。ただ、触れられている」


 私はもう一度、封蝋の縁に指を添えた。


 冷たい。


 先代公爵の温度とは違う。


 湿った土のような、暗い魔力。


 その奥に、短い感情が残っていた。


 見つけた。


 まだ生きている。


 先に壊せ。


 背筋に寒気が走る。


「誰かが、この封書を探していました」


「何のために」


「おそらく、先代公爵様の遺言を開けさせないために」


 言い終える前に、馬車が急停止した。


 体が前に投げ出されかけ、私は慌てて座席にしがみつく。


 外から、御者の短い悲鳴が聞こえた。


 オルデンが即座に腰の短剣へ手を伸ばす。


「動かないでください」


「何が――」


 問いかけた瞬間、馬車の窓の外を、黒い影が横切った。


 雨に濡れた街道。


 揺れるランタンの光。


 その中に、フードをかぶった数人の人影が立っている。


 彼らの胸元には、見覚えのない黒い封印具が下がっていた。


 封蝋を壊すための、逆印。


 私の指先が、再び冷たくなる。


 黒い封筒の深紅の封蝋が、小さく震えた。


 まるで怯えるように。


 オルデンが低く呟く。


「……早すぎる」


「オルデン様?」


「セラフィナ様。どうやら、あなたを公爵邸へお連れする前に、敵に知られたようです」


 馬車の扉が、外側から乱暴に叩かれた。


 その音に重なるように、封蝋の奥から先代公爵の感情が流れ込んでくる。


 逃げろ。


 守れ。


 遺言を、渡すな。


 そして最後に、はっきりと一つの言葉が浮かんだ。


 ――レオンハルトが来る。

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