第1話 紙くず令嬢は婚約破棄される
「セラフィナ・ロウエル。お前との婚約を、今この場で破棄する!」
王都グランシェルの夜会場に、エリアス・グレン子爵令息の声が響いた。
シャンデリアの光が揺れる大広間。楽団の演奏が止まり、貴族たちの視線が一斉に私へ向けられる。
その隣では、義妹のミリアが白い頬を震わせていた。
「お姉様が……お父様の保管していた遺言書を書き換えようとなさったんです。わたし、怖くて……」
差し出された羊皮紙には、赤い封蝋が押されていた。
けれど、私はその封蝋を見た瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
違う。
この封蝋は、遺言を守るために押されたものではない。
誰かを陥れるために、押されたものだ。
「そのようなことはしていません」
私は震えそうになる声を抑え、まっすぐエリアスを見た。
けれど彼は、まるで虫でも見るような目で私を見下ろした。
「まだ言い逃れをするつもりか。お前のような紙くず令嬢が、まともな貴族の妻になれるとでも思っていたのか?」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れる。
紙くず令嬢。
私、セラフィナ・ロウエルには、貴族令嬢として誇れる華やかな魔法がなかった。
火を操るわけでもない。傷を癒やせるわけでもない。戦えるわけでもない。
私に与えられた職能は、【封蝋読み】。
手紙や契約書、遺言書に押された封蝋に触れ、そこに残された書き手の本心や、隠された条件を読み取る力。
けれど貴族社会では、それは役立たずの外れ職だと笑われてきた。
死んだ人間の書類しか読めない。
古い封筒を撫でるだけの古文書係。
婚約者であるはずのエリアスは、私の力をそう呼んだ。
「エリアス様。この遺言書の封蝋は、おかしいです。封をした人物の感情が、遺言を残す者のものではありません」
「また始まった」
エリアスが大げさに肩をすくめる。
「封蝋に感情が残っている? 本心が読める? そんな薄気味悪い妄言で、今までどれだけ周囲を困らせてきた?」
「妄言ではありません」
「では証明してみろ。ここにいる全員に分かるようにな」
私は唇を噛んだ。
封蝋読みは、派手な光を放つ魔法ではない。読み取れるのは、触れた私だけだ。
封蝋が残した記憶は、声にならない声。色にならない色。胸の奥に流れ込む、書き手の感情の残滓。
それを、ここにいる人々へそのまま見せることはできない。
「ほら、何もできない」
ミリアが涙を浮かべたまま、エリアスの袖を握る。
「お姉様はいつもそうです。おかしな力があると言って、わたしやお父様を困らせて……。今回だって、亡くなった叔父様の遺言を使って、ロウエル家の財産を自分のものにしようと……」
「違います!」
思わず声が大きくなった。
その瞬間、広間の空気が冷えた。
私は、声を荒げるべきではなかった。貴族令嬢は、どれほど理不尽な場でも、感情的になってはいけない。
ミリアがびくりと肩を震わせ、目に涙をためる。
「怖い……。お姉様、どうしてそんなに怒るの?」
「ミリア、下がっていろ」
エリアスが彼女を守るように前に出た。
その仕草だけで、周囲はすべてを決めつける。
可哀想な義妹。
嫉妬に狂った姉。
役立たずの外れ職令嬢。
遺言書を偽造しようとした罪人。
物語は、すでに私のいないところで完成していた。
「父上」
私は、人垣の奥に立つロウエル男爵へ視線を向けた。
父は私と目を合わせなかった。
その隣で、継母が扇の陰から冷たい目を向けている。
「お父様。この封蝋を、もう一度調べさせてください。少しでいいのです。これは本物では――」
「黙れ、セラフィナ」
父の低い声に、胸が詰まった。
「お前には失望した」
「……お父様」
「ロウエル家の名を傷つけ、グレン家との縁談を壊し、妹にまで恐怖を与えるとは。もう庇いきれん」
庇う。
その言葉に、私は思わず笑いそうになった。
いつ、父は私を庇ってくれたのだろう。
幼い頃、封蝋に触れて倒れた私を、気味が悪いと言ったのは誰だったか。
職能鑑定で【封蝋読み】と告げられた時、そんなものは淑女の役に立たないと顔をしかめたのは誰だったか。
ミリアが私の仕事道具を燃やしても、妹の悪戯だと片づけたのは誰だったか。
庇われた記憶など、一つもなかった。
「本日をもって、セラフィナ・ロウエルをロウエル男爵家から除籍する」
広間がざわめいた。
けれど父は続けた。
「持参金も、衣装も、使用人も与えん。ロウエル家の名を騙ることも許さない」
除籍。
追放。
婚約破棄だけではない。私は、家すら失った。
ミリアの口元が、ほんのわずかに上がる。
その笑みは一瞬だった。
けれど、私には見えた。
そして、遺言書の赤い封蝋にも触れずに分かった。
ああ。
やっぱり、この封蝋に残っているのは、ミリアの歓喜だ。
奪った。
追い出した。
もう戻れない。
そんな濁った感情が、赤い蝋の奥でぬらりと揺れている。
「……分かりました」
私は深く息を吸った。
膝が震えている。喉が熱い。泣きそうだった。
けれど、ここで泣けば、彼らの望んだ通りになる。
私は書類鞄を胸に抱きしめ、背筋を伸ばした。
「婚約破棄をお受けします。ロウエル家からの除籍も、承知いたしました」
「ようやく身の程を知ったか」
エリアスが鼻で笑う。
「だが、最後に一つだけ申し上げます」
私は、赤い封蝋を見た。
蝋は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、いつだって人間だ。
「その遺言書は、本物ではありません」
広間に、再び沈黙が落ちた。
私は続ける。
「今は信じていただけなくても構いません。ですが、その封蝋は必ず、押した者の本心を残しています。いつか、その嘘は表に出ます」
「負け惜しみを」
エリアスが吐き捨てた。
「紙くず令嬢が、最後まで紙くずらしいことを言う」
笑い声が広がる。
私はその中を、一人で歩いた。
誰も止めなかった。
誰も手を差し伸べなかった。
夜会場の扉が閉じる寸前、ミリアの甘えた声が聞こえた。
「エリアス様……わたし、怖かったです」
「ああ。もう大丈夫だ。あの女は二度と君の前に現れない」
扉が閉じた。
音楽が再び始まる。
まるで、私一人が最初から存在しなかったかのように。
外は雨だった。
夜会用の薄い靴に、冷たい水が染み込んでくる。荷物は書類鞄一つだけ。財布には、銀貨が三枚。行く当てなどなかった。
それでも私は、鞄だけは手放せなかった。
中には、白手袋、封蝋用の小刀、未整理の契約書写し、そして母が遺した古い封筒が入っている。
母は、私の力を気味悪がらなかった唯一の人だった。
『セラフィナ。封じられたものを読む力は、呪いではないわ。誰かが言えなかった本当の願いを、あなたが拾ってあげられるということなの』
その声を思い出した途端、涙がこぼれそうになった。
けれど私は、空を見上げてこらえた。
泣くなら、一人で安全な場所に着いてから。
そう思った時だった。
雨音の向こうから、車輪の音が近づいてきた。
黒い馬車が、私の前で静かに止まる。
扉には、白銀の狼を抱いた盾の紋章。
ヴァイス公爵家。
王国北方を治める名門にして、呪われた家と噂される公爵家の紋章だった。
馬車の扉が開き、灰色の外套をまとった老紳士が降りてくる。
「セラフィナ・ロウエル様でいらっしゃいますか」
「……今は、ロウエルの名を名乗ることを許されておりません」
「では、セラフィナ様」
老紳士は一切笑わなかった。
見下しも、同情もない。ただ、深く礼をする。
「我が主、レオンハルト・ヴァイス公爵より、正式な依頼をお持ちしました」
私は息を止めた。
老紳士が差し出したのは、一通の黒い封筒だった。
封蝋は、深い赤。
けれど夜会場で見たものとは違う。
美しく、重く、悲しい封蝋。
そこには、消えかけた願いが残っていた。
守れ。
息子を。
家を。
まだ、開けるな。
私は思わず指を引いた。
封蝋に触れた指先が、氷のように冷えている。
「これは……」
「亡き先代ヴァイス公爵の遺言書に関わる依頼です」
老紳士は雨の中、もう一度頭を下げた。
「セラフィナ様。どうか、呪われた公爵家にお力をお貸しください」
雨粒が封筒を濡らす前に、私は両手でそれを受け取った。
赤い封蝋が、私の手の中でかすかに震える。
まるで、長い間ずっと、誰かを待っていたかのように。
「依頼内容を、お聞かせください」
私がそう答えると、老紳士は初めて安堵したように目を伏せた。
「亡き先代公爵の遺言書を、開封していただきたいのです」
その瞬間、封蝋の奥から、はっきりとした感情が流れ込んできた。
違う。
開けてはならない。
今ある遺言書は、本物ではない。
そして、もう一つ。
血の気が引くような、冷たい名が浮かび上がった。
――レオンハルトを、一人にするな。
私は黒い馬車を見上げた。
今夜、私はすべてを失った。
婚約者も、家も、名前も、居場所も。
けれどこの封蝋だけは、私を紙くず令嬢とは呼ばなかった。
私の力を、必要としていた。
老紳士が馬車の扉を開ける。
その奥には、夜よりも深い闇が広がっていた。
呪われた公爵家。
偽りの遺言。
死者の願い。
そして、まだ見ぬ冷徹公爵。
私は濡れたドレスの裾を握り、馬車へ足を踏み出した。
背後の夜会場からは、まだ楽しげな音楽が聞こえている。
私を捨てた人々は、きっと今頃、勝ったと思っているのだろう。
でも。
封蝋は、嘘を覚えている。
そして私は、その嘘を読むことができる。
馬車の扉が閉じる直前、赤い封蝋が小さく熱を帯びた。
次に流れ込んできた言葉に、私は息を呑む。
――公爵家の遺言は、二通ある。




