第49話 契約の終わる日
王都へ戻ったのは、北方港を発ってから二日後の夕方だった。
四つの原本。
焦げた港湾譲渡証書。
旧税関礼拝室の証人記録。
港側の契約盤。
それぞれは別の馬車へ分けられ、高等審問院、教会監査、ヴァイス公爵家の護衛によって運ばれた。
一つを奪われても、すべては失わない。
北方港へ向かう時と同じ方法だった。
けれど、帰りの馬車の空気は違っていた。
追われてはいない。
夜明けと競う必要もない。
レオン様の身体を縛っていた契約盤も、すでに発動を停止している。
それでも私たちの間には、行きよりも重い沈黙があった。
向かいの座席で、レオン様は一枚の契約書を読んでいる。
私たちの婚約契約。
王宮文書局へ入るため。
公爵家の文書を調査する権限を得るため。
私をロウエル家やグレン家から守るため。
そして、強制契約へ対抗する相互保護契約を成立させるために結んだもの。
事件が解決し、相続調査制限契約が解除された時点で、当事者双方の合意により終了できる。
そう書いたのは、私だった。
「何度読んでも、文面は変わりません」
沈黙に耐えきれず言うと、レオン様が顔を上げた。
「紙は、余計なことを覚えているのだろう」
「書いていないことまでは、覚えません」
「そうか」
また沈黙。
私は窓の外へ目を向けた。
王都の塔が近づいてくる。
契約を終えれば、私はもうヴァイス公爵の正式婚約者ではない。
公爵邸に滞在する権限も、相互保護条項も、彼の半歩横へ立つ理由もなくなる。
文書監査人として雇用契約を結ぶことはできる。
叔父様の遺産も戻る。
南区の小屋敷と蔵書、封蝋道具、預金の一部。
一人でも生活はできる。
それは、ずっと望んでいたはずの自由だった。
「セラフィナ」
「はい」
「酔ったか」
「いいえ」
「顔色が悪い」
「考え事をしていました」
「何を」
婚約が終わった後のことを。
そう答えればいい。
けれど、なぜか言葉にならなかった。
「仕事のことです」
「嘘だな」
「封蝋を読んだのですか」
「君の顔を見た」
逃げられなかった。
私は膝の上で手を重ねる。
「契約終了後のことを考えていました」
「ああ」
「叔父様の小屋敷へ移ろうと思います」
レオン様の指が、契約書の端で止まった。
「公爵邸を出るのか」
「契約が終われば、婚約者ではありませんから」
「文書監査人として残ればいい」
「住み込みである必要はありません」
「安全上の理由がある」
「オスカー様は拘束されました。ヴィクトル様も審問院管理下です」
「残党がいる」
「護衛を雇えます」
「私がつける」
「元婚約者へ公爵家の護衛を常駐させれば、噂になります」
「すでに十分噂になっている」
北方港へ向かう前にも聞いた言葉だ。
それでも今回は、笑えなかった。
「けじめが必要です」
私が言うと、レオン様の目がわずかに冷える。
「誰に対する」
「皆さんにです」
「私は、皆に含まれないのか」
胸が鳴った。
意味を考える前に、馬車が止まった。
ヴァイス公爵邸へ到着したのだ。
答えを出せないまま、扉が開いた。
* * *
相続調査制限契約の完全解除は、翌朝、高等審問院の特別契約室で行われた。
王宮第七封庫から移された契約原本。
北方港の契約盤。
二つが同じ確認台へ並べられている。
原本には、対象者であるレオン様の署名がない。
契約盤には、正当な港湾保護契約の上から、身体拘束の制約が重ね書きされていた。
本人同意のない契約。
家族の名と記録を調べることを禁じる契約。
それを無効にする封が、順番に押される。
高等審問院の無効裁定封。
教会監査の強制契約否認封。
エリシア様の白鹿。
現当主であるレオン様の白銀の狼。
そして最後に、私たちの婚約契約へ押された共同保護封。
「共同署名者、セラフィナ・ロウエル」
審問官に呼ばれ、私は確認台の前へ進んだ。
「あなたは、ヴァイス公爵レオンハルト・ヴァイスとの婚約契約に基づき、相互保護義務を負う共同署名者で間違いありませんか」
「はい」
「本契約は、当事者双方が自らの意思で署名したものですか」
「はい」
「強制、脅迫、身分上の命令は」
「ありません」
私が答えると、レオン様がこちらを見る。
最初は利害の一致だった。
けれど、一度も彼は私に署名を強制しなかった。
休息条項を加えた。
職能の使用回数を制限した。
私を守る義務だけでなく、私が彼を止める権利も書いた。
強制契約とは、正反対だった。
「共同保護契約の意思を、解除完了まで維持しますか」
私は小鳥の封印具を握った。
「維持します」
レオン様も答える。
「維持する」
二つの封が、同時に確認紙へ押された。
白銀の狼。
片翼を開いた小鳥。
契約原本と契約盤を繋いでいた黒紫の線が、ゆっくり浮かび上がる。
レオン様の首筋にも、薄い黒線が現れた。
以前のような激しい発作はない。
けれど、彼の呼吸がわずかに乱れる。
私はすぐに手を伸ばした。
「触れてもよろしいですか」
今までなら、先に腕を掴んでいたかもしれない。
今日は尋ねた。
レオン様は頷く。
「ああ」
私は彼の手を握った。
温かい。
契約室の中央で、審問官が解除文を読み上げる。
「対象者本人の同意なき身体拘束契約を無効とする」
黒い線が一本、切れる。
「エリシア・ヴァイスおよびノア・エリシア・フェルンの名、出生、証言へ接近することを禁ずる制約を無効とする」
二本目。
「先代公爵アルベルト・ヴァイスの遺言、北方港の記録、王宮保管封の改変を調査する行為を妨げる制約を無効とする」
三本目。
レオン様の手に力が入る。
「ヴァイス公爵家当主の自由意思、調査権、相続権を回復する」
最後の黒い線が、音もなく砕けた。
契約原本の空白だった対象者署名欄が崩れ落ちる。
契約盤を覆っていた制約文も灰になり、その下から本来の言葉が現れた。
――ヴァイス公爵家当主は、港へ逃れた者の名と記録を守る。
レオン様の首筋から黒線が消える。
手首にも。
胸元にも。
「解除を確認しました」
審問官が宣言する。
「相続調査制限契約は、発生時点へ遡り無効とします」
終わった。
レオン様を呪われ公爵にした契約。
父親の遺言を疑わせ、叔母と従弟の名へ近づくたび、身体を縛ってきたもの。
それが、完全に消えた。
「痛みは」
私が尋ねる。
「ない」
「息苦しさは」
「ない」
「頭痛は」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
レオン様は私の手を握ったまま答えた。
「何もない」
審問官たちが見ている。
気づいて、私は手を離そうとした。
けれど、レオン様の指が離れない。
「レオン様」
「まだ解除確認中だ」
「もう終わったと」
「私の確認が終わっていない」
「何を確認するのですか」
「少し待て」
理由になっていない。
それでも、もう少しだけそのままにした。
* * *
午後。
公爵邸の応接室には、私たちの婚約契約書が置かれていた。
調査権限。
公爵家への入邸権。
相互保護。
職能行使の制限。
休息義務。
そして終了条項。
相続調査制限契約は解除された。
事件の主要証拠は保全された。
オスカー様、ヴィクトル様、イザーク様、マルコ・クラウス、ベルナール司祭らは正式審問へ送られる。
契約を維持するために定めた目的は、達成された。
「終了条件は満たされています」
私は言った。
向かいに座るレオン様は、何も答えない。
立会人のオルデン様が、契約終了確認書を用意している。
マーサさんはなぜか部屋の隅で、非常に不満そうな顔をしていた。
「双方が署名すれば、婚約契約は本日付で終了します」
私の声が少し固くなる。
「契約終了後も、文書監査人としての雇用については、別途協議を」
「君は、終わらせたいのか」
レオン様が遮った。
室内が静まる。
「目的を達成しましたから」
「理由ではない」
「契約上は十分な理由です」
「私は契約を聞いていない」
彼の氷青の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「君自身が、私との婚約を終わらせたいのかと聞いている」
答えが出なかった。
終わらせた方がよい。
私たちの身分は違う。
正式な婚約として続ければ、私が公爵位を狙って近づいたと言う者もいる。
レオン様には、もっとふさわしい相手がいる。
公爵夫人として育てられた、高位貴族の令嬢。
クラリッサ夫人の審査を難なく通るような人。
私ではなく。
「セラフィナ」
「終わらせるべきだと思います」
ようやく出た言葉は、問いへの答えではなかった。
レオン様の表情が硬くなる。
「また、べき、か」
「必要な判断です」
「では、君の意思はどこにある」
胸が苦しくなる。
封蝋なら読めるのに。
他人の紙に残された願いなら。
自分の気持ちは、どうしてこんなに分からないのだろう。
「……分かりません」
正直に答えた。
「分からないまま、公爵家の婚約者ではいられません」
レオン様は、しばらく黙っていた。
やがて、終了確認書を手に取る。
「分かった」
胸の奥が痛んだ。
自分で言ったのに。
これが正しいはずなのに。
「契約は終わらせる」
レオン様は署名欄へ名を書く。
レオンハルト・ヴァイス。
白銀の狼を押す。
次は私だ。
手がわずかに震えた。
封蝋読みの代償ではない。
寒くもない。
私は署名した。
セラフィナ・ロウエル。
片翼を開いた小鳥を押す。
二つの封が並ぶ。
オルデン様が静かに告げた。
「本日付で、レオンハルト・ヴァイス様とセラフィナ・ロウエル様の契約婚約は終了いたしました」
終わった。
レオン様は、もう私の婚約者ではない。
私は、もう彼の婚約者ではない。
部屋が急に広くなったように感じた。
「では、私は叔父様の小屋敷へ」
「今日は移動するな」
レオン様が言う。
「ですが、契約は」
「終わった」
「なら」
「だから、命令はしない」
彼は立ち上がった。
「頼んでいる。今日はここにいてほしい」
命令ではない。
契約上の保護義務でもない。
ただの願い。
それを断る理由を、私は見つけられなかった。
「……はい」
レオン様は少しだけ頷き、部屋を出ていった。
残された机の上には、終了した婚約契約。
二つの封。
白銀の狼と、小鳥。
並んでいるのに、もう互いを縛らない。
「セラフィナ様」
マーサさんが声をかけた。
「はい」
「紙は、書かれていないことまでは覚えないのでございましたね」
「そうです」
「ならば、明日はお二人とも、ご自分の口でお話しになるべきでしょう」
私は返事をできなかった。
窓の外では、夕暮れの光が庭へ差している。
契約は終わった。
強制するものは、もう何もない。
だからこそ次に交わす言葉は、契約では守られない。
自分で選ばなければならない。
自由になった二人として。




