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第48話 罪を分ける記録

 北方港の港湾公館には、四つの文書箱が並べられていた。


 《灰色の鴎》の船倉から保全された箱。


 税関印。


 教会の灯火。


 白鹿と小さな狼。


 先代公爵アルベルト様の白銀の狼。


 それぞれの古い封に加え、高等審問院、北方港務局、ヴァイス公爵家の保全封が押されている。


 誰か一人の意思では、開けることも動かすこともできない。


 窓の外には、穏やかな海が広がっていた。


 ほんの数刻前まで逃亡船が帆を上げ、礼拝室が炎に包まれようとしていたとは思えないほど静かだ。


 けれど、確認室の中には張り詰めた空気が残っている。


 オスカー様は港務局の地下拘束室。


 マルコ・クラウスも別室で事情聴取を受けている。


 ダリオ監督官と王宮文書局推薦のサイモン監督官には、職務停止と接触禁止命令が出された。


 逃げ道は塞いだ。


 それでも、まだ終わりではない。


 人を捕らえただけでは、罪は確定しない。


 誰が何を命じたのか。


 誰が利益を得たのか。


 誰が知らずに利用され、誰が知りながら加担したのか。


 それを分けなければならない。


「開封前の確認を始めます」


 高等審問院書記官が告げた。


 立会人は、レオン様、オルデン様、教会監査官、北方港務官ヘンリク様、そして私。


 レオン様は先ほどまで医師の診察を受けていた。


 契約盤を停止した反動は残っている。


 顔色はまだ白い。


 それでも、身体拘束の契約はもう発動していない。


「立っていて大丈夫ですか」


 私が小声で尋ねる。


「大丈夫だ」


 反射的に無効と言いかけて、やめた。


 代わりに顔を見る。


 呼吸は落ち着いている。


 手も震えていない。


「有効です」


「何の判定だ」


「大丈夫という申告の」


「ようやく信用を得たか」


「仮承認です」


 レオン様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 書記官の咳払いで、私たちは文書箱へ向き直る。


「第一箱。北方港税関印」


 三重の保全封が順に確認される。


 異常なし。


 古い税関封が、印影を残す形で切り離された。


 蓋が開く。


 中には、厚い帳簿が二冊と、航路図、積荷札の束が入っていた。


「密輸帳簿です」


 ヘンリク様が、一冊目の表紙を見ただけで言った。


「ユリウスが調べていた帳簿に間違いありません」


 帳簿の表向きの題名は、北方港補修費記録。


 だが、支出欄の記号と航路図の印を照合すると、別の意味が現れる。


 薬。


 武器。


 鉱石。


 教会救援物資。


 領地支援金。


 本来なら領民へ届くはずだったものが、クラウス商会の倉庫を経由し、王都や国外へ流されていた。


「この狼印は」


 書記官が帳簿の余白を指す。


 折れた剣を添えた狼。


 オスカー様の私印。


「取引の承認印です」


 ヘンリク様が答えた。


「金額が大きい取引だけに押されています」


 帳簿には、マルコ・クラウスの署名もある。


 ベルナール司祭の教会確認印。


 王宮文書局の青い照合印。


 さらに、イザーク・メルヴィン様の略署。


 ヴィクトル・グレン様の名は、直接には多くない。


 だが、青い印の使用許可番号が、彼の管理台帳へ繋がっている。


「オスカー・ヴァイスを首謀者」


 書記官が記録する。


「クラウス商会を運搬、換金および帳簿偽装の実行主体。ベルナール・ダレス司祭を、教会受領記録偽造の実行者。イザーク・メルヴィンを、王宮文書局内の照合および契約手続き担当者と推定」


「ヴィクトル様は?」


 私が尋ねる。


「現時点では、監督責任だけでは不十分です」


 書記官は冷静に答えた。


「本人が承認したことを示す記録が必要です」


 名前が近くにあるからといって、自動的に罪が確定するわけではない。


 関係者を一つの塊にしない。


 証拠に応じて、一人ずつ責任を分ける。


 それが裁くということなのだろう。


「第二箱。教会証人封」


 灯火を描いた古い封が切られる。


 中には婚姻証明原本。


 エリシア・ヴェール。


 ユリウス・フェルン。


 二人の署名。


 立会司祭アーノルド・セルの封。


 税関長マティアス・ロウの封。


 旧税関礼拝室で確認した台帳、勤務記録、証人印と一致する。


「本人確認付記があります」


 教会監査官が読み上げた。


「新婦エリシア・ヴェールは、身分秘匿保護対象。真名エリシア・ヴァイス。本人封およびヴァイス公爵家確認状により照合」


 確認状には、先代公爵の白銀の狼。


 アルベルト様は、妹が生きていることを知った後、秘密裏に婚姻を認めていたのだ。


「これで、エリシア様とユリウス様の婚姻は正式に証明できます」


 私は言った。


「ああ」


 レオン様は原本を見つめた。


「父は、叔母上を家へ連れ戻せなくても、名だけは守ろうとした」


 不器用な人だった。


 大切なことほど、紙に隠した。


 エリシア様の言葉を思い出す。


 けれど、その紙は長い年月を越え、ようやく本人のもとへ戻る。


「第三箱。白鹿と小さな狼」


 この封だけは、見ていると胸が締めつけられた。


 黒馬車の床下にあった逃がし封。


 母が子を守るために残した印。


 ただし、あの時のような声は聞こえない。


 この箱にあるのは、現在を伝える共鳴封ではない。


 十三年前の願いを閉じ込めた、記録保護の封だ。


 私は触れなかった。


 必要がないから。


 物理的な手順で封が切られる。


 中から現れたのは、ノアさんの出生登録原本だった。


 子の名。


 ノア・エリシア・フェルン。


 母。


 エリシア・ヴァイス。


 父。


 ユリウス・フェルン。


 診療所医師の署名。


 立会人二名。


 教会出生印。


 税関身元確認印。


 そして、母親であるエリシア様の白鹿。


「王宮に保管されていた出生登録と比較します」


 書記官が写しを隣に置いた。


 王宮側の登録には、父親としてアルベルト・ヴァイスの名。


 教会印も、立会人署名も異なる。


 日付さえ、一日ずらされていた。


「王宮登録は偽造です」


 書記官が明言した。


「父親名の書き換えだけではない。証人と提出経路も作り替えられています」


「作成者は分かりますか」


「登録番号から追えます」


 王宮側の偽登録には、処理担当者の番号が残っていた。


 消された跡はある。


 だが、完全には消えていない。


「イザーク・メルヴィン」


 書記官が名前を読む。


 その下にある承認番号。


「最終承認者は、ヴィクトル・グレン」


 確認室が静まった。


 監督責任ではない。


 直接の承認。


 ヴィクトル様は、偽の父親名を登録し、先代公爵へ汚名を着せる手続きへ、自ら承認を与えていた。


「ヴィクトル・グレンについて、死亡・出生記録偽造、王宮文書局権限の不正使用、ヴァイス公爵家相続妨害への直接関与を追加します」


 書記官の筆が走る。


 証拠が、一つの罪へ名前を与えた。


「ノアさんは」


 私は原本を見つめる。


「これで、誰かの相続争いの道具ではなくなりますね」


「元から道具ではない」


 レオン様が答えた。


「はい」


「だが、これで公にもそう言える」


 ノア・エリシア・フェルン。


 エリシア様とユリウス様の子。


 公爵位を奪うための隠し子でも、先代公爵の罪を証明する子でもない。


 一組の夫婦に愛され、生まれた少年。


 それだけだ。


「第四箱。先代ヴァイス公爵家門封」


 最後の箱が確認台へ置かれた。


 この中には、港湾譲渡証書が入っていると考えていた。


 だが、その原本はオスカー様が礼拝室で所持していた。


 焦げたものの、すでに保全済みだ。


「箱が軽い」


 オルデン様が言った。


 蓋が開く。


 中には、文書がなかった。


 代わりに、小さな木枠と、切り取られた封蝋片。


 そして一枚の受領札。


「原本搬出記録です」


 書記官が読む。


 港湾譲渡証書原本。


 搬出者、オスカー・ヴァイス。


 名目、王宮照合。


 承認者、ヴィクトル・グレン。


 立会担当、イザーク・メルヴィン。


 返却期限は、十五年前。


 返却記録はない。


「オスカー様が持っていた証書は、この箱から抜かれたものです」


 私が言った。


「自分で持ち出した記録まで残していたのか」


 レオン様が低く呟く。


「持ち出した時点では、正式な手続きに見せる必要があったのでしょう」


 誰も見ないと思った記録。


 箱ごと消すつもりだった記録。


 それが今、原本と結びついた。


 焦げた港湾譲渡証書の番号と、受領札の番号が一致する。


「港湾譲渡証書の不正持ち出し、長期未返却、港湾管理権詐取未遂について、オスカー、ヴィクトル、イザーク三名の共同関与を確認」


 四つの箱が開いた。


 それだけで、事件の全体が変わった。


 噂ではない。


 封蝋読みの感覚だけでもない。


 誰が、いつ、どの番号の文書へ触れたか。


 何を受け取り、誰の承認で動かしたか。


 それらが紙の上で繋がった。


「残る者の責任も整理しましょう」


 私は言った。


 事件の中心だけを裁き、周囲の者をすべて同じ罪にするわけにはいかない。


 高等審問院書記官が、別の記録紙を用意する。


「マルコ・クラウス」


 密輸、横領、違法薬物の供給、証拠隠滅、逃亡未遂。


 本人署名と帳簿がある。


「ベルナール・ダレス司祭」


 死者名義の受領。


 教会台帳偽造。


 エリシア様の死亡記録への関与。


 ただし、ユリウス様殺害への直接関与は、まだ証言だけ。


 追加調査が必要。


「ダリオ・ベック」


 港湾監督官封の不正使用。


 ヘンリク様監禁。


 管理契約の強制発動未遂。


「サイモン・レイル」


 王宮文書局推薦監督官として、不正な管理契約へ署名。


 本人が偽造を知っていたかは、聴取と通信記録の確認待ち。


「ロウエル男爵グレゴール」


 ヴィクトル様から利益供与の約束を受けた。


 叔父様の遺言原本を隠した。


 私への信用毀損文書へ署名。


 叔父様の文書箱を焼却しようとした疑い。


 ただし、ミリアの薬物移送について、どこまで理解していたかは確定していない。


「ミリア・ロウエル」


 偽造遺言書の提出。


 封蝋温め器の使用。


 私を偽造犯として告発しようとした。


 その一方で、後に薬を投与され、証言能力を奪われようとした被害者でもある。


「被害を受けたことは、それ以前の行為を消しません」


 私が言う。


「ですが、加害行為があることも、彼女へ薬を使った者の罪を軽くしません」


 書記官が頷く。


「別々に記録します」


 それが大切だった。


 被害者だから無罪になるわけではない。


 罪を犯したから、何をされてもよいわけでもない。


「エリアス・グレン」


 封蝋温め器についてミリアへ教えた。


 クラウス商会の慈善事業へ名を貸した。


 婚約破棄と私への信用毀損に加担した。


 だが、偽造や横領の全体を知らなかった可能性が高い。


 その後、自ら証言し、父ヴィクトル様の指示を記録へ残した。


「協力したから、最初の行為が消えるわけではありませんね」


「ああ」


 レオン様が答える。


「だが、協力した事実も消さない」


 罰を重くするためだけの記録ではない。


 軽くするためでもない。


 したことを、した通りに残す。


 それが正しい記録なのだろう。


 最後に、書記官は私を見た。


「セラフィナ・ロウエルの職能乱用疑義について」


 自分の名前が読み上げられ、背筋が伸びる。


「本件における職能行使は、人命救助、偽造文書発見および証拠保全への端緒として用いられました。各判断の主要部分について、物証、証言、帳簿、署名記録による追認が得られています」


 筆が止まる。


「現時点で、職能乱用を示す事実は認められません」


 静かな言葉だった。


 けれど、胸の奥へ深く落ちた。


 紙くず令嬢。


 狂言。


 不安定な娘。


 私を黙らせるために作られた言葉。


 それらを、別の記録が一つずつ退けていく。


「なお」


 書記官が続けた。


「封蝋読みの結果のみを証拠として採用するものではありません。しかし、文書異常を発見する専門職能として、正式な監査制度へ組み込む価値があると付記します」


「制度へ?」


「高等審問院へ提言します」


 外れ職と呼ばれた力。


 それを持つ者が、今後また生まれるかもしれない。


 その人が、私のように笑われずに済む仕組み。


 力だけで真実を決めるのではなく、記録を探す専門家として働ける場所。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。


「礼を言うのはこちらです」


 書記官は答えた。


「消されるところだった文書が、これだけ残りました」


 四つの原本は、再び封じられた。


 今度は過去を隠すためではない。


 王都へ運び、公開審問で確認するため。


 税関帳簿。


 婚姻証明。


 出生登録。


 搬出記録。


 焦げた港湾譲渡証書も、別の金属箱へ収められる。


 レオン様が白銀の狼を押す。


 私はその隣へ、小鳥の封を押した。


 片翼を開いた鳥。


 もう、誰かに閉じ込められてはいない。


「記録します」


 オルデン様が静かに言った。


「北方港において、消失した四原本および関連証人記録を保全。オスカー・ヴァイス以下、各関係者の責任を分離して記載」


 少し間を置く。


「ヴァイス公爵レオンハルト様の相続正統性に、疑義なし」


 レオン様の手が止まった。


 長く彼を縛っていたもの。


 父の遺言を調べれば痛みが走り、家族の名を確認すれば身体を奪われた。


 自分が本当に当主でよいのか。


 父に疑われていたのではないか。


 その不安まで利用されていた。


「レオン様」


 私が呼ぶと、彼はこちらを見た。


「終わりましたね」


「まだ王都での正式審問がある」


「はい」


「契約の完全解除も」


「はい」


「領民への返還と補償も残っている」


「はい」


 終わりではない。


 でも、大きなものが一つ終わった。


「それでも」


 私は言った。


「あなたが公爵であることを疑わせる偽りは、終わりました」


 レオン様はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく息を吐く。


「ああ」


 その一言は、重かった。


 けれど以前のような苦しさはない。


「ようやく、父の後を継げる」


「ずっと継いでいました」


「名目上は」


「領民を守ろうとしていた時から、当主だったと思います」


 レオン様の目がわずかに揺れた。


「叔父上を追い詰めたのも、皆さんと記録を守ったのも、レオン様です」


「君がいなければ、始まらなかった」


「一人では、終わりませんでした」


 半歩横。


 その距離が、今はとても自然だった。


 確認室の扉が開き、港務官が一通の伝書を持って入ってきた。


「王都から、高等審問院の緊急連絡です」


「何がありましたか」


 書記官が受け取る。


 封を確認し、文面を読む。


「王宮側の相続調査制限契約原本を、北方港の契約盤と同時に解除する準備が整いました」


 レオン様の身体を縛った契約。


 最後の解除。


「ただし」


 書記官が私たちを見る。


「契約には、ヴァイス公爵家当主と、その保護契約上の共同署名者が立ち会う必要があるとのことです」


「共同署名者?」


 胸の奥で、何かが鳴った。


 私とレオン様が結んだ婚約契約。


 強制契約へ対抗するため、相互保護と休息義務を定めたもの。


「セラフィナ・ロウエル嬢です」


 書記官が告げる。


「完全解除には、お二人が王都へ戻り、現在の婚約契約を確認する必要があります」


 事件を解くために結んだ契約。


 期限が来れば、終了できる契約。


 すべてが終わった後、どうするのか。


 それを決める時が、近づいていた。

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