第47話 二つとも守ります
「この証書を守るか」
オスカーの手にある灯火が、古い港湾譲渡証書へ近づく。
「それとも、私を捕らえるか」
礼拝室に、波の音だけが響いた。
初代ヴァイス公爵の封が押された港湾譲渡証書。
北方港がヴァイス家へ預けられた経緯を示す原本。
燃やされれば、港を奪うための偽申請は止められても、長く続いた不正を証明する重要な記録が失われる。
だが、証書を救おうとすれば、オスカーは背後の隠し通路から逃げる。
先代公爵アルベルト様が警告していた。
オスカーを追うな。
人を捕らえても、紙を失えば罪は証明できない。
オスカーは、その言葉まで知っている。
だから同じ選択を突きつけたのだ。
私は譲渡証書ではなく、オスカーの顔を見た。
「どちらも選びません」
彼の笑みが、わずかに止まった。
「何?」
「証書も守ります。あなたも逃がしません」
「欲深いな」
「いいえ」
私は高等審問院書記官へ視線を向ける。
「記録をお願いします」
書記官はすぐに筆を構えた。
「オスカー・ヴァイスは、初代ヴァイス公爵の港湾譲渡証書と思われる文書を所持。火を近づけ、文書の保全と本人の拘束を交換条件として提示」
オスカーの目が冷える。
「そんな記録に何の意味がある」
「大きな意味があります」
私は答えた。
「今この場には、高等審問院、教会監査、北方港務局、ヴァイス公爵家の立会人がいます。譲渡証書の形状、封、所持者、あなたの発言は、もう記録されました」
完全な内容を確認できていなくても、存在は証明できる。
オスカーが持っていたことも。
それを燃やそうとしたことも。
「たとえ燃やしても、証書が存在しなかったことにはなりません」
「原本がなければ、証明などできない」
「四つの文書箱があります。礼拝室の台帳があります。先代公爵様の手紙も、港湾監督官の勤務記録も」
私は一歩も近づかなかった。
彼が望む距離へは入らない。
「この証書だけが真実ではありません」
オスカーの眉が動く。
「あなたは、ずっと同じ間違いをしています」
「私が?」
「一枚の紙を消せば、すべてを消せると思っている」
エリシア様の死亡記録。
ノアさんの出生登録。
ユリウス様の勤務記録。
先代公爵の遺言。
叔父様の遺言。
死者名義の受領証。
書き換え、焼き、隠し、別の名を重ねた。
けれど、消せなかった。
「紙は、余計なことを覚えていますから」
オスカーの笑みが消えた。
「兄と同じことを言う」
「先代公爵様だけではありません」
私は背後を見た。
記録冊子を守る書記官。
証人印箱を持つ教会監査官。
入口を固める港湾警備兵。
私の半歩横に立つレオン様。
「今は、覚えている人もいます」
オスカーが灯火を証書の端へ触れさせた。
乾いた羊皮紙が、わずかに焦げる。
レオン様の身体が動きかける。
私は咄嗟に彼の袖を掴んだ。
「追わないでください」
「だが」
「まだです」
オスカーはそれを見て、薄く笑った。
「そうだ。賢い娘だ。彼を止めていろ」
隠し通路の奥から、冷たい海風が吹いている。
出口は海岸へ繋がっているのだろう。
走れば、オスカーは逃げる。
だが、私たちは礼拝室へ来る前に一つ学んだ。
正面だけを見てはいけない。
「港務官様」
私はオスカーから目を離さずに呼んだ。
「礼拝室の隠し通路に、外側の出口はありますか」
「古い避難路なら、崖下の船着き場へ出ます」
「警備艇は?」
港務官の表情が変わった。
「《灰色の鴎》を止めた後、一隻を岩礁側へ回しています」
「何の話だ」
オスカーが低く問う。
港務官が答えた。
「港内の小舟による逃亡を防ぐため、崖下の船着き場も封鎖しています」
オスカーが初めて背後を振り返った。
隠し通路の奥から、笛の音が聞こえる。
三度、短く。
港湾警備隊の確保合図。
「通路の出口は閉じました」
レオン様が言う。
「お前を追う必要はない」
オスカーの顔から、余裕が消えた。
「ずいぶん用意がいい」
「父の忠告に従っただけだ」
「兄の紙がなければ、何もできない子供が」
レオン様の瞳が冷える。
けれど、以前のように胸を押さえることはなかった。
港の契約盤は停止している。
父の遺言。
エリシア様の名。
ノアさんの出生記録。
それらへ近づいても、もう身体を縛られない。
「父の記録を受け継ぐことは、恥ではない」
レオン様は静かに答えた。
「だが、父の名を使い、罪を隠すことは恥だ」
「当主らしい口を利くようになったな」
「お前のおかげではない」
レオン様の視線が、一瞬だけ私へ向いた。
「一人で背負う必要がないと知った」
胸が鳴った。
でも今は、オスカーから目を離さない。
彼の指が、灯火を握り直した。
「ならば、守ってみろ」
オスカーは譲渡証書へ火を押しつけた。
紙の角から、炎が上がる。
そして証書を床の油溝へ向けて投げた。
「火を!」
教会監査官が叫ぶ。
私は祭壇脇へ置かれていた防火布を掴んだ。
船員が灯火を倒した際に使う、厚い羊毛の布。
潮気を含み、重い。
それを燃える証書へかぶせる。
炎が布の下でくぐもった。
同時にレオン様が私の腰を支え、油溝から引き離す。
港湾警備兵が砂箱を運び、周囲の油を覆った。
「証書を動かさないでください!」
私は防火布の上から押さえる。
焦げた匂い。
煙。
しかし炎は広がらない。
「消火を確認!」
教会監査官が告げる。
防火布が慎重に外された。
譲渡証書の右上は黒く焦げていた。
だが、初代公爵の封。
本文の大半。
王家の授与印。
港湾境界を示す図。
いずれも残っている。
「保全箱を」
書記官が命じる。
金属板を敷いた箱へ、証書が移される。
焦げた部分も、剥がれた灰も、一片残らず収められた。
「港湾譲渡証書と思われる文書を保全。右上部に焼損。主要印影および本文は目視可能」
書記官の筆が走る。
「放火行為および証拠隠滅未遂を追記します」
オスカーは、その間に隠し通路へ走っていた。
だが、奥から複数の足音が近づく。
逃げ道を塞いだ港湾警備兵が現れた。
オスカーは立ち止まる。
前にはヴァイス家護衛。
後ろには港湾警備隊。
左右は石壁。
手には、もう何もない。
「オスカー・ヴァイス」
高等審問院書記官が、正式な拘束命令書を広げる。
「エリシア・ヴァイスの監禁、死亡記録偽造、ユリウス・フェルン殺害、ノア・エリシア・ヴァイスに対する誘拐および殺害未遂、相続妨害、不法契約、港湾管理権詐取、密輸、横領、証拠隠滅未遂の疑いにより、身柄を拘束します」
「疑い、か」
オスカーが笑った。
「まだ私の罪は確定していない」
「はい」
私は答えた。
彼がこちらを見る。
「だから、これから確認します」
「封蝋でか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「帳簿、署名、証人、契約盤、薬瓶、命令書。そして、生きている人たちの証言で」
「お前の力がなくても?」
「私の職能は、真実そのものではありません」
封蝋読みが示すのは、道だ。
隠された感情。
書かれなかった条件。
違和感。
そこから現実の証拠へ辿り着く。
「私は、封蝋が示したものを、記録で確かめるだけです」
オスカーはしばらく私を見ていた。
そして、小さく鼻で笑う。
「兄は、お前のような人間を探していたのかもしれないな」
「先代公爵様が探していたのは、特別な人ではありません」
「何?」
「記録を、自分の都合より大切にできる人です」
オスカーの両手へ拘束具がはめられる。
公爵家の血を引く者へ使われる、封付きの拘束具。
高等審問院封。
港務局封。
ヴァイス公爵家当主封。
三つが揃わなければ外せない。
「レオンハルト」
連れていかれる直前、オスカーが足を止めた。
「私を裁けば、ヴァイス家の醜聞は王国中へ広がるぞ」
「広がるだろう」
レオン様は否定しなかった。
「父の名を使った偽造も、叔母の監禁も、一族の罪として残る」
「ならば隠せ」
「隠さない」
その答えは、静かだった。
「家の名誉は、罪がなかったふりをして守るものではない」
レオン様は焦げた譲渡証書を見る。
「罪を認め、被害を償い、同じことを繰り返さないことで守る」
オスカーの顔が、初めて完全に歪んだ。
怒りではない。
理解できないものを見る顔だった。
彼は最後まで、名誉とは汚れを隠すことだと思っていた。
だから、記録を消し続けた。
警備兵に連れられ、オスカーは隠し通路ではなく正面扉から礼拝室を出ていった。
多くの港の人々が見守る中を。
生きたまま。
正式な記録と共に。
礼拝室に静けさが戻る。
私はようやく、長く息を吐いた。
足から力が抜けそうになる。
レオン様の手が、すぐに背を支えた。
「怪我は」
「ありません」
「火傷は」
「手袋も無事です」
彼は私の両手を確認した。
封蝋読みの赤い痕ではない。
火傷もない。
ただ、防火布の煤が少し付いている。
「二つとも守れました」
私が言うと、レオン様は焦げた証書と、扉の向こうを見た。
「ああ」
「人も、紙も」
「君が二択を拒んだからだ」
「皆さんが出口を塞いでくださったからです」
私一人ではできなかった。
レオン様一人でも。
港湾警備隊。
書記官。
教会監査官。
オルデン様。
それぞれが役割を果たしたから、二つを守れた。
レオン様は、保全された港湾譲渡証書へ近づいた。
以前なら、真実を示す文書へ近づいただけで契約が反応した。
けれど今は。
何も起こらない。
胸を押さえることも。
息を詰まらせることも。
黒い線が浮かぶこともない。
「痛みませんか」
「痛まない」
レオン様は自分の手を見る。
「何も起きない」
完全解除は、王宮側の契約原本と港の契約盤を並べて行う必要がある。
それでも、拘束は確かに止まっている。
「自由ですね」
私が言うと、彼は少しだけ考えた。
「まだ、慣れない」
「これから慣れてください」
「ああ」
レオン様は私を見た。
「君もだ」
「私も?」
「一人で身体を削らずに守れることに」
返事を探している間に、高等審問院書記官が声をかけた。
「四つの文書箱を開封する準備が整いました」
港湾公館。
三重封の下で守られた四つの原本。
密輸帳簿。
婚姻証明。
出生登録。
そして、焦げながらも残った港湾譲渡証書。
オスカーの身柄は確保した。
だが、罪を確定させる仕事はこれからだ。
「戻りましょう」
私は言った。
「記録を完成させます」
礼拝室を出ると、正午の光が海へ広がっていた。
鐘は鳴らなかった。
炎も、記録には届かなかった。
消されかけた名を取り戻すための最後の開封が、私たちを待っていた。




