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第46話 礼拝室に残された署名

 旧税関礼拝室は、北方港の外れに建っていた。


 海へ突き出した岩場の上。


 白かったはずの石壁は潮風に削られ、屋根の鐘楼は半ば錆びついている。


 かつては長い航海へ出る船員や、港で身分証明を受ける旅人が祈りを捧げた場所だという。


 今は人の出入りもなく、扉には太い鎖が巻かれていた。


「鍵は港務局が管理しているはずです」


 港務官が鎖を確認する。


「これは局のものではありません」


 鎖には黒い蝋が垂らされていた。


 印はない。


 ただ、開けた者へ責任を押しつけるためだけに施された、無記名の封。


「正午に鐘が鳴れば記録が燃える、とありました」


 セラフィナは鐘楼を見上げた。


 鐘は小さい。


 港全体へ響かせる中央監視塔の鐘とは違う。


 だが、礼拝室内部の仕掛けを動かす合図なら、この大きさで十分だ。


「現在時刻は」


「正午まで一刻を切っています」


 高等審問院書記官が答える。


 四つの文書箱は、すでに港湾公館へ移送した。


 高等審問院、ヴァイス家、港務局の三重管理。


 ここで何が起きても、原本すべてを失うことはない。


 それでも礼拝室には、婚姻と出生を証明した司祭や税関長の署名記録がある。


 原本だけではない。


 誰が立ち会ったか。


 その者が本当にその日にいたか。


 記録同士が結ばれて、初めて偽造ではないと証明できる。


「鎖を切ります」


 書記官が宣言した。


「高等審問院保全命令に基づき、証拠隠滅の危険がある施設へ緊急立入りを行います」


 現状が記録される。


 鎖。


 無記名封。


 扉の傷。


 周囲の足跡。


 それから護衛が鎖を切った。


 重い扉が、低い音を立てて開く。


 中は暗かった。


 細長い礼拝室。


 左右に古い木の長椅子。


 正面には、海鳥を彫った小さな祭壇。


 窓は板で塞がれ、朝だというのに夕暮れのようだ。


 潮と埃の匂いに混じって、別の匂いがした。


「油です」


 セラフィナが言う。


 床の隙間。


 壁際。


 祭壇へ続く絨毯の下。


 細い溝に透明な油が流されている。


「火をつける準備がされています」


 護衛が灯りを低くする。


 火花一つでも危険だ。


 教会監査官が床へ膝をつき、油を確認した。


「燃焼油です。ただし、まだ点火されていません」


「鐘と連動している可能性は」


「高いでしょう」


 鐘が動けば、どこかで火打ち金が落ちる。


 礼拝室全体を燃やし、古い火災として処理する。


「鐘楼へ人を」


 レオンハルトが命じた。


 護衛二名が外階段へ向かう。


「内部の記録を探します」


 セラフィナは祭壇を見る。


 ユリウス様の銀の指輪。


 エリシア様の白鹿の印。


 二つを重ねて保管庫を開けると聞いている。


「礼拝室の保管庫は祭壇の下です」


 エリシア様の証言書にも記されていた。


 祭壇正面には、二つの窪みがある。


 一つは丸い指輪の形。


 もう一つは、白鹿の頭部をかたどった形。


「白鹿の印は」


 レオンハルトが尋ねる。


 セラフィナは小さな文書袋を取り出した。


 エリシア様本人が証言書へ押した白鹿印。


 封蝋を切り取ったものではない。


 北方港へ向かうため、新たに押された正式な確認封だ。


「原印ではありませんが、エリシア様本人の封として、審問院の証明があります」


「試してみよう」


 まず、ユリウス様の指輪を丸い窪みへ入れる。


 ぴたりとはまった。


 次に白鹿印を、隣の窪みへ近づける。


 紙ごと押し込むのではない。


 封の印影を、確認板へ向ける。


 石の奥で小さな音がした。


 祭壇の下部が、ゆっくり前へ出る。


「開きました」


 中には、薄い記録冊子が三冊。


 木製の証人印箱。


 そして、細長い黒い板が一枚収められていた。


「触れないでください」


 セラフィナは黒い板を見て言った。


 見覚えのある黒紫色の線。


 レオンハルトを縛る相続調査制限契約と、同じ色だ。


 高等審問院書記官が、まず記録冊子を確認する。


 一冊目は礼拝室の婚姻台帳。


 二冊目は出生立会い記録。


 三冊目は税関監査官の勤務記録。


「婚姻記録があります」


 書記官の声がわずかに高くなった。


「エリシア・ヴェール、ユリウス・フェルン。立会司祭アーノルド・セル。税関長マティアス・ロウ」


 偽名ではある。


 だが、備考欄に身元秘匿の理由と、本人確認封の番号が記されている。


「出生記録も」


 日付は十三年前。


 母エリシア。


 父ユリウス。


 子ノア。


 父親欄には、先代公爵の名などない。


「証人印箱を」


 記録に記された司祭印と税関長印が、箱の中に保管されていた。


 印面を台帳の封と照合できる。


 紙だけではない。


 署名。


 勤務記録。


 証人印。


 すべてが揃っている。


「ユリウス様の勤務記録には、失踪当日の記載があります」


 オルデンが読む。


「密輸帳簿の提出予定。提出先は、ヴァイス公爵アルベルト様。同行予定者は、税関長マティアス・ロウ」


「税関長も消されている可能性があります」


 セラフィナが言う。


「生死を確認する必要があります」


 だが今は、目の前の黒い板だ。


「これは契約盤の一部です」


 レオンハルトが低く言った。


 黒い板には、細かな文字が刻まれている。


 対象。


 発動条件。


 制約。


 そして、何本もの線。


 一部は削られているが、中央だけは読めた。


 ――ヴァイス家当主が、港湾譲渡証書、エリシア・ヴァイス、またはその子の出生記録へ接近した場合、身体拘束を発動する。


 レオンハルトを苦しめていた契約。


 王宮第七封庫で見つけたものは、契約書の原本。


 こちらは、発動を支える港側の契約盤。


「呪いの核……」


 セラフィナが呟く。


「完全な核ではありません」


 教会監査官が魔術具を近づける。


「王宮側の契約書と、北方港側の契約盤。二か所を結んで発動する仕組みです」


「片方だけを止めても」


「弱まりますが、消えません」


 だから王宮で原本を保全した後も、レオンハルトの発作は完全には消えなかった。


「契約盤を壊せますか」


 レオンハルトが尋ねる。


「今すぐ壊すのは危険です」


 監査官が答える。


「対象者との接続が残ったまま強制破壊すれば、反動がすべて公爵様へ向かう可能性があります」


「では、どうする」


「まず発動権限を停止し、契約盤を保全します。その後、王宮側の原本と並べて正式に解除する必要があります」


 正しい手続きが必要だ。


 ここでも。


「誰の封で停止できますか」


 黒い板の下部には、三つの空欄があった。


 一つ目、現当主の異議封。


 二つ目、制約対象となった血族本人の否認封。


 三つ目、契約審査権者の無効確認封。


「現当主はレオン様」


 私は言った。


「血族本人は、エリシア様でしょうか」


「契約内容を見る限り、エリシア・ヴァイス本人です」


 彼女はこの場にいない。


 だが証言書には、死亡記録、監禁、ノアの出生記録改変をすべて否認する本人封が押されている。


「本人が、この用途を理解して押した封です」


 高等審問院書記官が証言書を確認する。


「制約契約の否認にも使用できるよう、文言があります」


 エリシア様は、ただ過去を語ったのではない。


 自分の名を使って作られた契約を拒絶していた。


「三つ目は」


「高等審問院の無効確認封で対応できます。ただし、契約盤に偽造や本人同意欠如が認められることが条件です」


「レオン様の署名はありません」


 王宮側の契約書でも確認されている。


 エリシア様も同意していない。


 ノアさんは当時赤子で、当然同意できない。


「十分です」


 書記官が宣言する。


「本人同意なき身体拘束契約として、発動停止を申請します」


 黒い板を確認台へ移す。


 まず、レオンハルトが白銀の狼を押す。


 現当主としての異議。


 次に、エリシア様の白鹿封が登録される。


 死亡したとされた本人による、明確な否認。


 最後に、高等審問院の無効確認封。


 三つが揃った。


 黒い板の線が、ゆっくり暗くなる。


 その瞬間、レオンハルトの身体が強く揺れた。


「レオン様!」


 セラフィナは咄嗟に腕を支える。


 彼は片膝をつき、胸元を押さえた。


 黒い光が、首筋から手首へ走る。


「契約が抵抗しています!」


 教会監査官が解除具を構える。


「封を離すな! 途中で止めれば再接続します!」


 レオンハルトの息が詰まる。


 これまで何度も見た発作。


 だが今回は、何かが違う。


 締めつけるのではなく、身体から引き剥がされている。


「私にできることは」


 セラフィナが問う。


「公爵様を契約盤へ触れさせないでください!」


 セラフィナは両腕で彼を支えた。


 冷たい。


 いつもはセラフィナが冷え、レオンハルトが温めてくれた。


 今は逆だ。


「レオン様」


 彼の瞳が、かすかに開く。


「ここにいます」


「……分かっている」


「封は揃っています。もう、あなたの同意がない契約に従う必要はありません」


 それは魔術の言葉ではない。


 ただの事実だ。


 けれど、レオンハルトはセラフィナの腕を掴み返した。


「私の意思で……拒否する」


 彼は苦しい息の中で言った。


「父の遺言を調べることも、叔母を探すことも、ノアの名を守ることも」


 黒い線が震える。


「誰にも禁じさせない」


 黒い板に亀裂が走った。


 壊れたのではない。


 表面を覆っていた制約文だけが、灰のように崩れていく。


 下から別の文字が現れた。


 元々刻まれていた、港の正式な保護契約。


 ――ヴァイス家当主は、港へ逃れた者の名と記録を守る。


 強制契約は、正当な契約盤の上へ重ね書きされていたのだ。


「発動停止を確認!」


 書記官が叫ぶ。


「身体拘束制約、停止しました!」


 レオンハルトの身体から力が抜ける。


 セラフィナはそのまま倒れないよう支えた。


「医師を」


「大丈夫だ」


「無効です」


 反射的に言うと、レオンハルトが苦しそうに息を吐いた。


「それを……私に使うのか」


「今は有効です」


 護衛が医師を呼びに走る。


 教会監査官は黒い板を封鎖箱へ収めた。


 王宮側の契約原本と合わせれば、完全解除できる。


 それまでは発動停止。


 だが少なくとも、もう北方港の記録へ近づくたびにレオンハルトが倒れることはない。


 鐘楼から護衛が戻ってきた。


「点火装置を止めました!」


 鐘の振り子に細い鎖が繋がれ、その先に火打ち具が仕込まれていたという。


 正午に鐘が鳴れば、床下の油へ火花が落ちる仕組み。


「残り時間は」


 港務官が時計を見る。


「正午まで、わずかです」


 間に合った。


 証人記録。


 司祭と税関長の印。


 ユリウス様の勤務記録。


 そして契約盤。


 礼拝室に残っていたものを、火が届く前に守れた。


 高等審問院書記官が記録冊子を一冊ずつ封じる。


「これで四箱の原本と照合できます」


「密輸帳簿は、まだ開封していません」


 セラフィナが言う。


「港湾公館へ戻り、立会人を揃えて確認しましょう」


「オスカーは」


 護衛が尋ねた。


 レオンハルトは医師に支えられながら立ち上がった。


 顔色は悪い。


 それでも、目はまっすぐだった。


「追わない」


 先代公爵の言葉通り。


「記録を開く。港を封じ、船を止め、契約を停止した。あとは罪を紙の上で確定させる」


 オスカー様がどこに隠れていても。


 港を失い。


 商会主を失い。


 偽の出生登録を失い。


 レオンハルトを縛る契約も失った。


 逃げ道は、少しずつ消えている。


 その時、礼拝室の奥から、乾いた拍手が聞こえた。


 一度。


 二度。


 ゆっくりと。


 全員が振り返る。


 祭壇の背後。


 壁だと思っていた石板が、わずかに開いていた。


 暗い通路の入口。


 その前に、灰色の外套を着た男が立っている。


「見事だ、封蝋読み」


 オスカー・ヴァイス。


 彼は逃げていなかった。


 私たちが記録を集め、契約を止めるところを、ずっと礼拝室の奥から見ていたのだ。


「兄上の紙に従わず、正しい順番を選んだ」


 オスカーは薄く笑った。


「だからこそ、最後に選んでもらおう」


 彼の片手には、火のついた小さな灯火。


 もう片方には、古い港湾譲渡証書。


 初代ヴァイス公爵の封が押された原本だった。


「この証書を守るか」


 灯火が紙の端へ近づく。


「それとも、私を捕らえるか」


 先代公爵の警告と同じ選択。


 人か。


 紙か。


 だが今度は、オスカー本人が目の前にいる。

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