第45話 灰色の鴎を止めよ
《灰色の鴎》は、すでに岸壁を離れ始めていた。
中央監視塔を出ると、東の空には朝日がのぞき、海面を細い金色に染めていた。
三本帆の中型商船。
船尾には灰色の鳥を描いた旗。
甲板では船員たちが帆綱を引き、岸壁との間を結んでいた最後の縄が、今まさに外されようとしている。
「港門を閉じろ!」
レオンハルトの命令が防波堤へ響いた。
だが、鐘は鳴らせない。
中央監視塔の管理契約は停止したばかりであり、鐘による港内一斉命令も保全対象になっている。
代わりに、ヴァイス家の護衛が白銀の狼の旗を掲げた。
高等審問院書記官も、差し止め命令書を港務官へ渡す。
「《灰色の鴎》に告げます!」
港務官が岸壁の伝声筒へ叫んだ。
「高等審問院保全命令およびヴァイス公爵家当主命令により、出港を差し止めます! 直ちに帆を下ろし、岸壁へ戻りなさい!」
船上から返事はない。
むしろ、甲板の動きが速くなった。
「従う気がありません」
セラフィナは目を細めた。
船尾側の船員が帆をさらに広げている。
風を受けた船体が、ゆっくり外海へ向きを変え始めた。
「港門までは」
「四半刻もありません」
オルデンが答える。
北方港の出口には、二本の防波堤が左右から延びている。
その先を抜ければ、公爵家の港湾警備船だけでは追いつくのが難しくなる。
「警備艇を出せ」
レオンハルトが命じる。
「ただし船体を傷つけるな。積荷は証拠だ」
「オスカー様が乗っていてもですか」
護衛が尋ねた。
「人より先に箱を守れ」
先代公爵の警告通りだった。
オスカーを追うな。
先に四つの原本を保全せよ。
人を捕らえても、紙を失えば罪は証明できない。
二隻の小型警備艇が岸壁を離れる。
《灰色の鴎》の左右へ回り込み、進路を塞ごうとする。
だが商船は減速しない。
「ぶつかるつもりです」
セラフィナが言った。
警備艇よりも《灰色の鴎》の方がはるかに重い。
正面から当たれば、小型艇が転覆する。
船長も、それを分かっている。
「港の曳船は使えますか」
「大型船を岸壁へ寄せる船です。速度は遅いですが、船体は頑丈です」
「前へ出してください」
セラフィナが地図を示す。
「港門を塞ぐ必要はありません。《灰色の鴎》の右舷側へ寄せれば、外へ向きを変えられなくなります」
レオンハルトがすぐに港務官へ命じる。
「曳船を動かせ」
「ですが、あれは港湾監督官の許可が」
「暫定管理契約は停止中だ。現当主権限で命じる」
「承知しました!」
港内に停泊していた平底の曳船が動き出す。
黒煙を吐きながら、《灰色の鴎》の右前方へ進む。
商船は進路を左へ切ろうとした。
そこには警備艇。
右には曳船。
正面には港門。
出港できる幅が、少しずつ失われていく。
「止まれ!」
再び警告が響く。
「従わない場合、船長および船主代理人を、証拠隠滅と港務命令違反の疑いで拘束します!」
甲板に、一人の男が姿を現した。
厚い毛皮の外套。
濃い髭。
マルコ・クラウス。
火災を起こした商会本店から姿を消していた商会主だ。
「この船はすでに港外へ向けて出港している!」
マルコが叫ぶ。
「出港許可も積荷検査も完了済みだ!」
「許可時刻は管理契約発動前です」
高等審問院書記官が返す。
「さらに積荷には重大事件の関連文書が含まれる疑いがあります。保全命令を受けた時点で、出港許可は停止されました」
「王宮文書局の確認を受けている!」
「本件について、王宮文書局の単独確認は禁止されています」
マルコの顔が歪む。
「港を私物化する気か、呪われ公爵!」
その言葉に港の労働者たちがざわめいた。
レオンハルトは動じない。
「私物化していた者を調べるだけだ」
冷たい声が、朝の海へ届く。
「帆を下ろせ、マルコ・クラウス」
「断る!」
マルコが腕を振り上げる。
甲板の船員が、何かを海へ運び始めた。
大きな木箱。
出港札に記された古文書箱より、さらに大きな輸送箱だ。
「証拠を捨てる気です!」
セラフィナが叫ぶ。
船員たちは箱へ鎖を巻きつけている。
そのまま海へ沈めれば、回収は困難になる。
「弓兵!」
レオンハルトが命じる。
「人を射るな。鎖と滑車を狙え!」
護衛の弓が放たれる。
一本目は船縁へ刺さる。
二本目が、箱を吊るす滑車の綱を切った。
箱が甲板へ落ち、鈍い音を立てる。
船員たちがよろめいた。
その隙に、警備艇の一隻が船体へ接近する。
鉤縄が投げられ、《灰色の鴎》の手すりへ引っかかった。
「乗り込め!」
港湾警備兵が縄を伝い、次々と甲板へ上がっていく。
船員の何人かが棒や短剣を手にした。
だが、全員が戦うつもりではなかった。
「武器を捨てろ!」
警備隊長が叫ぶ。
「従った者は、船員として事情聴取のみとする! 証拠の投棄や抵抗に加われば、共犯として扱う!」
迷っていた船員たちが、次々と道具を置いた。
マルコが怒鳴る。
「給金を払っているのは誰だ!」
一人の老船員が答えた。
「牢へ入る給金までは、もらってねえ」
他の船員も武器から離れる。
抵抗した数人だけが取り押さえられた。
やがて帆が下り、《灰色の鴎》は曳船に押されながら岸壁へ戻ってきた。
完全に接岸するまで、誰も気を緩めなかった。
高等審問院書記官が船へ上がり、甲板で正式な保全命令を読み上げる。
「船体、航海記録、積荷、船員名簿を保全します。無断での移動、開封、廃棄を禁じます」
マルコは両腕を警備兵に押さえられていた。
「違法だ!」
「異議は記録します」
書記官が答える。
「ただし、差し止め命令後に証拠と疑われる箱を海へ投棄しようとした事実も記録します」
「ただの商品だ!」
「ならば、確認しても問題はありませんね」
セラフィナたちは船倉へ向かった。
急な階段。
湿った木材と潮の匂い。
薄暗い船倉には、大小の木箱が積まれている。
出港札に記載された積荷番号と照合しながら、港務官が一つずつ確認する。
「古文書箱四点は、奥です」
船倉の最深部。
ほかの積荷に隠すように、鉄枠付きの箱が四つ並んでいた。
それぞれ異なる封が押されている。
一つ目は、波と錨。
北方港税関印。
二つ目は、教会の灯火。
婚姻記録に使われる証人封。
三つ目は、白鹿と小さな狼。
エリシア様が用いた保護封と同じ意匠。
四つ目は、白銀の狼。
ただし、現在のレオン様の印ではない。
「先代公爵の印です」
オルデンが声を震わせた。
四つ。
密輸帳簿。
婚姻証明。
出生登録。
港湾譲渡証書。
先代公爵の手紙に記された原本が、ここにある可能性が高い。
「封に異常は」
高等審問院書記官が尋ねる。
セラフィナは近づいたが、触れなかった。
灯りの角度を変え、封蝋の表面を見る。
「税関印は、縁に工具の跡があります。開けようとして失敗しています」
「教会証人封は」
「表面は無傷です。ただし箱の蝶番側に新しい傷があります。封を切らず、後ろから開けようとしたのでしょう」
「白鹿の封は」
セラフィナは息を整えた。
エリシア様とノアさんの封。
以前は危機に反応して、現在の声まで伝えた。
だが、あれは一対の封による例外的な共鳴。
今は声を探さない。
物理的な状態だけを見る。
「破損はありません」
最後に、先代公爵の白銀の狼。
レオンハルトが箱の前へ膝をつく。
「父の封だ」
「触れないでください」
セラフィナは反射的に言った。
「分かっている」
「すみません」
「いや。正しい」
先代公爵の封にも、開封された痕跡はなかった。
「四箱とも、ここでは開けません」
セラフィナが言う。
マルコの笑い声が、階段の上から聞こえた。
「中身も見ずに本物だと思うのか!」
「思いません」
セラフィナは振り返った。
「だから、立会人と証人を揃えて確認します」
「空箱かもしれんぞ」
「それも記録できます」
「偽物ならどうする!」
「どこで偽物へ入れ替えられたかを調べます」
マルコの笑みが消えた。
「あなたが、今すぐ開けさせたい理由も含めて」
開封を急がせる。
封蝋読みを使わせる。
相手の望む順番へ誘導する。
もう、その手には乗らない。
四つの箱には、それぞれ現状記録札が付けられた。
高等審問院封。
ヴァイス家保全封。
北方港務官の受領封。
三つを新たに加え、誰か一人では動かせない状態にする。
「旧税関礼拝室へ運びますか」
港務官が尋ねる。
「いいえ」
レオンハルトが答えた。
「礼拝室の安全確認が先だ。鐘楼の不正が発覚した以上、港内に協力者が残っている」
「では」
「公爵家の港湾公館へ。高等審問院と港務警備の共同管理下に置く」
妥当な判断だった。
原本が見つかったからといって、すぐに目的地へ運んではならない。
礼拝室そのものが罠になっている可能性もある。
「船内を引き続き捜索してください」
セラフィナが言った。
「船名簿では、オスカー様が特別乗船者になっています」
だが、まだ姿を見ていない。
船室。
船長室。
隠し区画。
すべてが調べられた。
しかし、オスカーの姿はなかった。
特別客室には、使われた形跡がある。
暖炉の灰は温かく、酒の杯も残っている。
寝台には毛皮の外套。
だが本人はいない。
「直前まで乗っていた」
レオンハルトが部屋を見る。
「別の船へ移ったのでしょうか」
「港門は閉じている」
「小舟なら、防波堤の岩陰から出られます」
窓際の机には、北方港の地図が置かれていた。
四か所に黒い印。
中央監視塔。
旧税関礼拝室。
公爵家港湾公館。
そして、海岸沿いの古い倉庫。
地図の横には一枚の紙。
封はない。
オスカーの筆跡だった。
――四つの箱を見つけたか。
――ならば、次は中身を守ってみろ。
挑発。
だが、その下にもう一行ある。
――正午、礼拝室の鐘が鳴れば、ユリウス・フェルンの記録は燃える。
私は地図を見る。
旧税関礼拝室。
四つの箱は、すでに船倉で保全した。
ならば礼拝室に残っている記録とは何か。
「写しです」
オルデンが言った。
「あるいは、証人名簿」
婚姻証明や出生登録が原本だけで成立するわけではない。
礼拝室側には、司祭と税関長の立会い記録が残っているはずだ。
それが燃えれば、箱の原本を偽造だと争う余地が生まれる。
現在の時刻は朝の鐘の少し後。
正午までは、まだ時間がある。
「これは、また誘いです」
セラフィナは言った。
「オスカー様は礼拝室へ向かわせたい」
「ああ」
レオンハルトが地図を畳む。
「だが、証人記録を失うわけにもいかない」
「四箱は公館へ。私たちは礼拝室へ向かいます。ただし、オスカー様を探すためではありません」
「礼拝室の記録を保全するためだ」
「はい」
目的を間違えない。
人ではなく、記録。
挑発ではなく、守るべきもの。
船を降りる時、セラフィナは四つの箱を振り返った。
ノアさんの父が生きた証拠。
エリシア様が名を奪われた証拠。
ヴァイス公爵家から港を奪おうとした証拠。
長い年月、消されずに残った紙。
まず一つ、オスカーの逃げ道を塞いだ。
残る時間は、正午まで。
旧税関礼拝室には、まだ紙ではない何かが待っている。
そんな予感が、潮風の中で静かに胸へ残った。




