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第44話 鐘を鳴らすな

 北方港へ続く街道は、夜半を過ぎた頃から急に荒れ始めた。


 海から吹きつける風が馬車を揺らし、車輪の下で凍った泥が砕ける。


 窓の外には街灯もない。


 ただ遠く、黒い空と海の境目に、いくつもの小さな灯が浮かんでいた。


 北方港の灯台と停泊船の明かりだ。


「見えました」


 セラフィナが言うと、向かいに座るレオンハルトが地図から顔を上げた。


「ああ。だが、まだ遠い」


 馬車は三度目の替え馬を終えたばかりだった。


 御者も交代している。


 それでも夜通しの移動で、同行者の顔には疲労がにじんでいた。


 セラフィナも座席へ身体を預け、外套の下で指先を握る。


 封蝋読みは使っていない。


 体温も下がっていない。


 それでも、揺れ続ける馬車の中で眠れた時間は短かった。


「気分は」


 レオンハルトが尋ねる。


「少し眠いだけです」


「吐き気は」


「ありません」


「頭痛」


「ありません」


「指先は」


「温かいです」


 手袋を外して見せようとすると、彼は小さく首を振った。


「申告を信じる」


「珍しいですね」


「今のところ、嘘をついていないからな」


 信用が条件付きだった。


 けれど、それでも以前よりは進歩している。


 馬車の前方から、護衛の声が聞こえた。


「検問です!」


 車輪が速度を落とす。


 街道の両側に松明が並び、厚い外套を着た男たちが道を塞いでいた。


 胸には北方港湾監督局の印。


 波と錨。


 だが、その横に見慣れた麦と天秤の小章が縫いつけられている。


 クラウス商会の協力警備隊だ。


「この先は、港湾安全確認のため通行禁止です!」


 先頭の男が声を上げた。


「北方港は夜明けまで封鎖されます!」


 レオンハルトが馬車を降りる。


 セラフィナも続こうとしたが、外から彼の声が飛んだ。


「待て」


「文書確認が必要です」


 一瞬の沈黙。


「足元に気をつけろ」


 許可が出た。


 馬車を降りると、冷たい潮風が頬を打った。


 レオンハルトはすでに、港湾警備隊の男が差し出した通行禁止札を確認している。


 青灰色の紙。


 波と錨の印。


 港湾監督官三名のうち、二名の封が押されている。


「三人目は」


 レオンハルトが尋ねた。


「緊急時には二名の同意で足ります」


 男が答える。


「根拠条項を」


 セラフィナが言うと、男は不快そうに彼女を見た。


「誰だ」


「高等審問院の文書確認に同行する、セラフィナ・ロウエルです」


「封蝋読みの」


 男の声に、わずかな動揺が混じる。


 すでに名前が伝わっている。


 それ自体が、港で待ち構えている者がいる証拠だった。


「緊急時に二名の同意で通行を止められる条項を、提示してください」


「今は説明している時間がない」


「では、命令に従う根拠もありません」


 男の顔が険しくなる。


「港湾監督局の正式命令だ!」


「正式命令なら、条項番号、発効時刻、対象区域、解除条件が記載されます」


 禁止札には、封鎖区域しか書かれていない。


 理由は港湾安全確認。


 発効時刻も、解除条件もない。


 以前の橋梁封鎖札と同じだ。


 急いで作られた命令。


 形式より、足止めだけを目的とした紙。


「高等審問院の保全命令があります」


 同行書記官が馬車から降り、封付き文書を掲げた。


「ヴァイス公爵家の現当主、教会監査官および審問院書記官の通行を妨げる場合、その法的根拠を記録してください」


 港湾警備隊の男たちが顔を見合わせる。


 クラウス商会の小章をつけた一人が、腰の剣へ手を伸ばした。


 ヴァイス家護衛も動く。


 だが、レオンハルトが片手を上げて止めた。


「剣を抜けば、命令書の不備では済まない」


 静かな声だった。


「現公爵への武力妨害として記録される」


 男の手が止まる。


 結局、検問は道を開けた。


「鐘楼へは入れません」


 先頭の男が吐き捨てるように言う。


「日の出と同時に、正式な管理契約が発動します」


「発動すれば、だ」


 レオンハルトはそれだけ返し、馬車へ戻った。


 北方港の城壁をくぐった時、東の空はまだ黒かった。


 港町には人の姿がほとんどない。


 だが、眠っているわけではなかった。


 窓の奥。


 路地の角。


 倉庫の陰。


 こちらの馬車を窺う目がある。


 多くの店には閉鎖札が貼られ、船員たちは宿舎へ戻るよう命じられていた。


 港全体が、鐘の音を待って息を止めている。


 中央監視塔は、海へ突き出す石造りの防波堤の先にあった。


 上部には巨大な青銅の鐘。


 その下の窓には明かりが灯っている。


「監督官たちは、まだ中にいます」


 護衛が報告する。


「正面入口は港湾警備隊が封鎖。裏の管理用扉も閉じられています」


「三名全員か」


「確認できたのは二名です。クラウス商会推薦のダリオ・ベック。王宮文書局推薦のサイモン・レイル」


「残る一名は」


「旧来の港湾監督官、ヘンリク・モーア。姿が確認できません」


 先代公爵の手紙にあった、脅迫されている可能性がある一名。


 その人物がいなければ、正式には三つの封が揃わない。


 しかし、偽造されている可能性がある。


「鐘楼へ向かう」


 レオンハルトが言った。


 馬車は防波堤の手前で止まった。


 ここから先は徒歩になる。


 海風が強い。


 濡れた石の上を波しぶきが洗っている。


 セラフィナは外套の襟元を押さえながら、レオンハルトの半歩横を歩いた。


「無理なら戻れ」


「まだ何もしていません」


「転ぶ可能性がある」


「レオン様も同じです」


「私は転ばない」


 その直後、強い風が吹き、彼の外套が大きく煽られた。


 セラフィナは思わず袖を掴む。


「今のは」


「風だ」


「記録しますか」


「不要だ」


 緊張の中で、ほんの少しだけ息が楽になった。


 鐘楼の前には、十人ほどの警備兵がいた。


 先頭に立つ男が槍を横へ向ける。


「停止してください。港湾監督官の許可なく、塔への立入りは禁止されています」


 高等審問院書記官が保全命令を示す。


「管理契約発動前記録を確認します。現当主の異議申し立ておよび審問院保全のため、入塔を求めます」


「すでに発動手続き中です」


「発動済みではありませんね」


 書記官が確認する。


 男は答えない。


「現当主として異議を申し立てる」


 レオンハルトが白銀の狼の封書を掲げる。


「鐘を鳴らす前に、管理契約盤へ異議封を登録する」


「監督官の審議中です」


「ならば審議へ出席する」


「それは認められません」


「私の相続資格を疑義の根拠にしているのに、本人の異議を聞かないのか」


 警備兵たちが迷い始める。


 彼ら全員がオスカー側とは限らない。


 港の命令に従っているだけの者もいる。


「鐘が鳴れば、港内の文書と積荷はすべて移動禁止になります」


 セラフィナは警備兵たちへ向けて言った。


「その中には、皆さんの給与記録、船員名簿、税関預かり品も含まれます。管理者が誰になるのか分からないまま、本当に発動させるのですか」


「我々は命令に」


「その命令を出した三人目の監督官は、どこにいますか」


 誰も答えなかった。


「ヘンリク・モーア様の姿が確認されていません」


 警備兵の一人が、わずかに顔を上げた。


 知っている。


 何かを。


「彼の封が、塔の中で使われているのでしょう」


 セラフィナは続けた。


「本人がいないのに」


「黙れ!」


 塔の扉が開き、恰幅のよい男が現れた。


 港湾監督官ダリオ・ベック。


 クラウス商会推薦の監督官だ。


「封蝋読みの戯言で、港の安全を乱すな!」


「では、ヘンリク様をここへ」


「病気だ」


「診断書は」


「急病だ!」


「封はいつ押されましたか」


 ダリオの顔が歪む。


「監督官三名の決定に、外部の令嬢が口を挟むな」


「外部ではない」


 レオンハルトが一歩前へ出る。


「ここはヴァイス公爵領だ」


 白銀の狼の印が、夜明け前の灯火を受けて光った。


「港を預かる者が、当主を外部と呼ぶのか」


 ダリオが言葉を失う。


 その時、塔の上で金属の軋む音がした。


 鐘を吊るす巨大な梁が動き始める。


「鐘の準備です!」


 護衛が叫ぶ。


 東の空には、わずかな白い線。


 日の出が近い。


「異議封を登録する!」


 レオンハルトが扉へ進む。


 ダリオが腕を広げた。


「通さん!」


 警備兵たちも槍を構える。


 だが、その背後から別の声が響いた。


「その鐘を、鳴らしてはならない!」


 防波堤の入口。


 一人の老人が、二人の船員に支えられて立っていた。


 額には血が滲み、外套は裂けている。


 それでも、胸には波と錨の正式章。


「ヘンリク・モーア様!」


 警備兵の一人が叫ぶ。


 行方不明だった三人目の監督官。


 ヘンリクは震える手を上げた。


「私の封は盗まれた」


 ダリオの顔色が変わる。


「監督官モーアは錯乱している!」


「地下倉庫へ閉じ込めたのは、お前たちだろう!」


 老人は声を振り絞った。


「私は、暫定管理契約へ同意していない!」


 警備兵たちの槍が下がり始める。


 三名の合意はない。


 それどころか、監督官の封が盗まれた。


「塔を開けてください」


 高等審問院書記官が言った。


「偽造封使用、監督官監禁および管理契約の不正発動疑義が発生しました。審問院保全命令に基づき、現場を保全します」


 ダリオが塔の中へ後ずさる。


「鐘を鳴らせ!」


 上階へ向けて叫んだ。


 梁が大きく動く。


 青銅の鐘がゆっくり傾いた。


 レオンハルトが走る。


 護衛たちが扉を押さえる兵を制圧し、塔内へ道を開いた。


「セラフィナは外で待て!」


「異議封の記録確認が必要です!」


「危険だ!」


「読みません。確認するだけです!」


 レオンハルトは一瞬だけ振り返った。


 時間がない。


「私から離れるな」


「はい!」


 石の階段を下る。


 鐘楼の管理契約盤は、塔の地下にあった。


 円形の部屋。


 壁には港の地図と船舶札。


 中央の石台には、三つの監督官封が並んでいる。


 ダリオ。


 サイモン。


 そしてヘンリク。


 だが、三つ目の蝋だけ、縁が不自然に歪んでいた。


「盗まれた封印具で押したものです」


 セラフィナは触れずに言った。


「新しい蝋なのに、印面に古い塩が付着している。保管箱から急に取り出された封印具です」


 審問院書記官が拡大鏡を当てる。


「確認します。三つ目の封に異常あり」


 上から、鐘の最初の音が響きかけた。


 低い振動。


 まだ完全には打たれていない。


「異議封を!」


 レオンハルトが石台の空欄へ、白銀の狼を押す。


 高等審問院書記官が、その隣へ保全封を押した。


 二つの封が揃った瞬間、管理契約盤の文字が赤から白へ変わる。


 鐘を動かしていた鎖が、激しく軋んだ。


 上階で金属が止まる。


 青銅の鐘は、最初の一打を放つ寸前で静止した。


 部屋の壁へ、契約停止の文字が浮かぶ。


 ――現当主異議受理。


 ――高等審問院保全確認。


 ――暫定管理契約、七日間停止。


 間に合った。


 セラフィナは大きく息を吐いた。


 レオンハルトが彼女の肩を支える。


「冷えたか」


「いいえ」


「本当に?」


「今回は、封蝋を読んでいません」


 手袋の中の指先は温かい。


 自分の身体を削らなくても、止められた。


 正しい記録と、正しい封で。


 高等審問院書記官が管理契約盤を確認する。


「七日間、港湾管理権の変更はできません。文書、積荷、船舶への新たな封鎖命令も無効です」


 レオンハルトは頷いた。


「旧税関礼拝室へ向かう」


 まだ終わっていない。


 鐘を止めただけだ。


 四つの原本を保全しなければならない。


 その時、石台の下から小さな音がした。


 かちり。


 管理契約盤の停止と連動して、側面の隠し板が開く。


 中には一枚の船舶出港札が入っていた。


 出港予定は、今朝の日の出。


 船名は《灰色の鴎》。


 積荷欄には、古文書箱四点。


 目的地は王国外。


 船主代理人。


 マルコ・クラウス。


 そして特別乗船者の欄には、一人の名が記されていた。


 オスカー・ヴァイス。


 彼はこの塔にはいない。


 原本を積んだ船で、港から逃げるつもりだ。


 レオンハルトは出港札を握り、低く命じた。


「船を止めろ」


 鐘を止めたことで、ようやくオスカーの逃げ道が紙の上へ現れた。

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