第43話 北方港の鐘
――北方港へ行くなら、オスカーを追うな。
――先に、港の鐘を止めよ。
先代公爵アルベルト様の手紙に記された二行を、誰もすぐには理解できなかった。
ヴァイス公爵邸の確認室。
中央の机には、開封された赤い家門封と、エリシア様の証言書が並んでいる。
立会人は、レオン様、オルデン様、高等審問院の派遣書記官、教会監査補助官。
私はノアさんから預かった銀の指輪を、首から下げた小袋へ収めていた。
ユリウス・フェルン様の税関監査官印。
北方港の旧税関礼拝室を開くための鍵の一つ。
「鐘とは、礼拝室の鐘でしょうか」
私が尋ねると、オルデン様が首を横に振った。
「旧税関礼拝室の鐘は、手で鳴らす小さなものです。港全体へ音を届けるものではございません」
「では、港の鐘というのは」
「北方港の中央監視塔にございます」
レオン様が答えた。
「入港船の確認、暴風警報、火災、封鎖を知らせる鐘だ」
「封鎖?」
「ああ。三度長く鳴らせば、港門と倉庫を閉じる。五度なら、全船の出港を禁ずる」
ただの鐘ではない。
港を動かす合図だ。
先代公爵の手紙には続きがあった。
『北方港の鐘は、初代ヴァイス公爵が王家より港を預かった際に設けた。
鐘楼の地下には、港湾譲渡証書の副本と、港の管理契約盤がある。
公爵家当主が不在、死亡、または相続資格に疑義ありと判断された場合、港湾監督官三名の封によって暫定管理契約を発動できる。
だが現在、監督官の一名はクラウス商会の者へ替えられた。
一名は王宮文書局の推薦。
残る一名も、脅迫を受けている可能性がある。』
高等審問院書記官の顔が険しくなる。
「三名全員がオスカー側なら、暫定管理契約を発動できる」
「その根拠として使われるのが、偽の出生登録です」
私は言った。
先代公爵アルベルト様が、実の妹との間に子を作った。
その偽造記録が公開されれば、公爵家の正統性に重大な疑義があると主張できる。
レオン様自身の血統まで疑わせ、当主権限を一時停止させる。
「オスカー様は、公爵位を正式に奪う前に、北方港だけを暫定管理下へ置くつもりです」
「港を取れば、金と人の流れを押さえられる」
レオン様の声が低くなる。
「それだけではない」
手紙の続きを読む。
『管理契約が発動すれば、港内に保管される文書、積荷、船舶、税関資産は、暫定管理者の確認を受けるまで移動を禁じられる。
旧税関礼拝室も封鎖対象となる。
その後、火災や事故を装って記録を消すことは難しくない。』
私たちが旧税関礼拝室へ到着しても、先に鐘を鳴らされれば中へ入れない。
仮に銀の指輪と白鹿の印があっても、港そのものが暫定管理下に置かれれば、勝手に保管庫を開けたと扱われる。
オスカー様を追うことに気を取られている間に、合法に見える形で港を奪われるのだ。
「鐘を止める、とは壊すことではありませんね」
私は尋ねた。
「鐘だけ壊しても、管理契約盤が残る」
レオン様が手紙の下部を示した。
そこには、先代公爵の筆で手順が書かれていた。
『鐘楼へ入り、管理契約盤の発動前記録を確認せよ。
三監督官の封が揃っていても、現当主の異議封と、高等審問院または王宮港務院の保全封があれば、発動を七日間停止できる。
七日の間に、相続資格の証明と港湾譲渡証書の原本を提出せよ。』
「壊すのではなく、正式に停止させる」
私は言った。
「そうすれば、オスカー様が別の鐘や命令書を用意していても、港は動かせません」
高等審問院書記官が頷く。
「当院の保全封を発行できます。ただし、発動前であることが条件です」
「すでに発動していた場合は?」
「暫定管理者の許可なく鐘楼地下へ入れません。異議申し立てから始める必要があり、数日はかかります」
数日。
その間に礼拝室の原本は消される。
「出発は夜明けです」
レオン様が言った。
「早馬なら、明日の夜には北方領へ入れる。港には翌朝だ」
「通常の馬車では二日以上かかります」
オルデン様が地図を広げた。
「セラフィナ様のお身体を考えますと、途中で一泊を」
「時間がありません」
思わず答えた。
レオン様がこちらを見る。
「だからといって、馬を乗り継いで夜通し進む気か」
「私は馬に乗れます」
「長時間は?」
「少しなら」
「少しでは着かない」
また止められる。
けれど今回は、無理をしたいわけではない。
最短で、確実に着く方法を選びたい。
「公爵家の軽馬車を使い、御者を交代させます」
私は地図の街道宿を指した。
「私は車内で休みます。封蝋読みも行いません。夜間は速度を落としても、通常の馬車より早く着けます」
オルデン様が計算する。
「街道宿三か所へ替え馬を用意すれば、明日の夜半には北方領南端。翌朝、港へ到着可能です」
「身体への負担は」
レオン様が尋ねる。
「通常の旅よりは大きくなりますが、騎乗よりは安全です」
「医師を同行させる」
「必要ありません」
「必要だ」
「封蝋を読まないのに」
「旅で体調を崩すこともある」
レオン様は譲らない。
私は少しだけ考え、頷いた。
「分かりました」
「随分素直だな」
「争って出発が遅れる方が困ります」
「成長したと喜ぶべきか迷うな」
オルデン様が小さく咳払いをした。
「同行者を決めましょう」
北方港へ向かうのは、私とレオン様。
オルデン様。
高等審問院書記官一名。
教会監査官一名。
ヴァイス家護衛六名。
医師一名。
大人数で軍勢のように動けば、オスカー様へ早く知られる。
少なすぎれば、港の管理契約を止めた後に守れない。
「リックさんは」
私は尋ねた。
「同行を希望しております」
オルデン様が答える。
「ですが、負傷が治っておりません」
「黒い帳簿の経路を知っています」
リックさんはクラウス商会の取引記録を追い、北方港から王都へ流れた金を見つけている。
案内役としては有用だ。
しかし、怪我をした腕で長旅をさせるべきではない。
「本人に選ばせる」
レオン様が言った。
「危険と負担を説明した上でだ」
「はい」
以前なら、役に立つから連れていくか、守るために置いていくか、どちらかを勝手に決めていたかもしれない。
だがリックさんは証拠ではない。
一人の人間だ。
「ノアさんは屋敷へ残っていただきます」
私は言った。
「指輪は預かっています。本人が行く必要はありません」
「同意する」
レオン様は即答した。
「エリシア叔母上と共に、屋敷で保護する」
「ミリアは?」
「指定施療所で解毒中です。今夜、短時間なら事情聴取ができる可能性があります」
高等審問院書記官が記録を確認する。
「ロウエル男爵については、証拠干渉禁止命令を出しました。王都からの退出も制限されています」
ロウエル家は、いったん審問院へ任せる。
すべてを自分で見届ける必要はない。
今の最優先は北方港だ。
先代公爵の手紙の最後には、もう一つだけ警告があった。
『鐘を止めた後も、オスカー本人を探してはならない。
彼は自分を餌にする。
密輸帳簿、婚姻証明、出生登録、港湾譲渡証書。
先に四つの原本を保全せよ。
人を捕らえても、紙を失えば、彼の罪は証明できない。
紙を守れば、彼は逃げる場所を失う。』
「父らしい」
レオン様が呟いた。
「人を追うより、逃げ道を紙で塞ぐ」
「先代様は、オスカー様の性格を理解しておられたのでしょう」
オルデン様が言う。
「追われれば逃げ、追われなければ自ら出てくる。注目を奪われることに耐えられない方でした」
だから追わない。
オスカー様から届いた挑発にも、従わない。
彼が待つ場所ではなく、彼が消したい記録へ向かう。
「明朝、出発します」
レオン様が決定を告げた。
「それまで全員休め」
その視線が私へ向いている。
「私だけに言っていますか」
「主に」
「レオン様もお休みください」
「ああ」
「本当に?」
「記録させるか」
「お願いします」
オルデン様が真顔で筆を構えたため、レオン様が小さく息を吐いた。
「休む。薬も飲む」
「記録しました」
少しだけ、部屋の緊張が緩んだ。
確認を終えた先代公爵の手紙には、三つの封が押された。
高等審問院の保全封。
ヴァイス公爵家の白銀の狼。
そして、私の小鳥。
今回は、封蝋を読まずに押した。
残すための封。
誰が、いつ、何を確認したのか。
それだけを未来へ伝える封だ。
部屋を出ると、廊下でノアさんが待っていた。
眠るよう言われていたはずなのに、手には毛布を抱えている。
「出発するの?」
「明日の朝です」
「指輪、なくさないでね」
私は首から下げた小袋を見せた。
「ここにあります」
「父さんの記録も」
「必ず保全します」
取り戻す、とは言わなかった。
記録はノアさんのものだが、まず公的に保全しなければならない。
正しい手続きの後、本人へ返す。
「怖くない?」
ノアさんが尋ねた。
怖くないと言えば、嘘になる。
北方港にはオスカー様がいる。
王宮文書局とクラウス商会の協力者も。
港の鐘が鳴れば、私たちは不法侵入者にされるかもしれない。
「怖いです」
私は正直に答えた。
「でも、一人ではありません」
ノアさんの視線が、私の横へ動く。
レオン様が立っている。
「半歩横?」
「はい」
ノアさんが少し笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
大丈夫だとは言い切れない。
それでも、私は頷いた。
「できるだけ、大丈夫にして帰ります」
翌朝。
空が白み始める前に、ヴァイス公爵家の軽馬車は王都を出た。
叔父様の地図。
先代公爵の警告。
エリシア様の証言書。
ユリウス様の銀の指輪。
高等審問院の保全封。
必要なものは、すべて別々の箱へ分けて積んだ。
一つ奪われても、全部は失わないように。
レオン様は向かいの座席で、北方港の地図を見ている。
私は外套に包まりながら、窓の外へ目を向けた。
王都の塔が遠ざかっていく。
目的はオスカー様を捕らえることではない。
鐘を止める。
四つの原本を守る。
その後で、彼の逃げ道をなくす。
昼を過ぎ、二度目の替え馬を終えた頃。
北へ続く街道の先から、一羽の伝書鳥が飛んできた。
ヴァイス家の護衛が、馬車を止めて紙片を受け取る。
レオン様が封を確認した。
北方港に残る、公爵家忠臣からの報告だった。
「何と?」
私が尋ねる。
レオン様の顔が険しくなる。
「港湾監督官三名が、今夜、中央監視塔へ入った」
「管理契約を発動するために?」
「おそらく」
紙片には、さらに一行。
――鐘は、日の出と共に鳴らされる予定。
到着予定も、明朝。
先に着ける保証はない。
馬車の外では、北から吹く風が強くなり始めていた。
北方港の鐘が鳴るまで、あと一夜。
私たちはオスカー様との競争ではなく、夜明けそのものと競っていた。




