第42話 エリシアの答え
ヴァイス公爵邸へ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
叔父の文書箱は、高等審問院とヴァイス公爵家の二重封を施され、書庫ではなく当主執務室の保全庫へ運ばれた。
その中にあった、先代公爵アルベルト様の封書。
――エリシア本人の証言後に開封すること。
以前の私なら、答えを求めてすぐにでも触れていたかもしれない。
けれど今は、封書を持たずにエリシア様の部屋へ向かった。
紙に書かれた名より先に、生きている人の言葉を聞く。
それが叔父様の残した順番だった。
「体調が悪そうなら、今日は聞かない」
部屋の前で、レオン様が言った。
「はい」
「君の体調も同じだ」
「私は封蝋を読んでいません」
「今日は、まだ、だ」
「読みません」
そう答えると、レオン様は私の顔をしばらく確認した。
「今回は信じる」
「今回は?」
「前例が多い」
反論できなかった。
扉を叩くと、マーサさんが内側から開けてくれた。
部屋には暖炉が入り、薬草と蜂蜜の匂いが満ちている。
寝台の上では、エリシア様が上体を起こしていた。
昨日より顔色は良い。
まだ痩せてはいるが、灰青色の瞳には少しずつ力が戻っている。
その傍らにはノアさん。
椅子を寝台のすぐ横へ寄せ、ずっと母親の手を握っていたらしい。
少し離れた場所にはリックさんもいる。
包帯を巻いた腕を吊りながら、二人を見守っていた。
「セラフィナ様」
ノアさんが立ち上がる。
「座っていてください」
「でも」
「今日は、ノアさんにも聞いていただきたい話です」
そう言うと、ノアさんは不安そうにエリシア様を見た。
エリシア様が手を伸ばす。
「ここにいて」
「うん」
ノアさんはもう一度椅子へ座り、その手を握った。
私は寝台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。
レオン様は私の半歩横。
オルデン様は記録机の前へ立つ。
「エリシア様」
私は静かに切り出した。
「ロウエル家で、叔父様が残した文書箱を見つけました」
「ロウエル家に……」
「はい。叔父様は、先代公爵様から記録の写しを預かっていたそうです」
エリシア様は目を閉じた。
「アルベルト兄様が……守ってくれていたのね」
「叔父様の手紙には、ノアさんのお父様について、まずエリシア様ご本人へ尋ねるよう書かれていました」
ノアさんの指が、母親の手を強く握る。
「僕の……父さん?」
「はい」
エリシア様は息子を見た。
その表情には、喜びより先に深い痛みが浮かんでいた。
「いつか話さなければいけないと思っていたわ」
「嫌な人だったの?」
ノアさんが小さく尋ねる。
「いいえ」
エリシア様はすぐに首を横に振った。
「とても優しい人だった」
震える指が、ノアさんの髪を撫でる。
「あなたの父親は、ユリウス・フェルンという人よ」
オルデン様の筆が紙の上を走った。
レオン様がわずかに眉を動かす。
「フェルン……北方港の税関監査官か」
エリシア様が頷く。
「知っているの?」
「名前だけです。父の古い港湾報告にありました。十三年前、密輸事件の調査中に行方不明になったと」
「行方不明ではないわ」
エリシア様の声が、少しだけ掠れた。
「殺されたの」
部屋が静まり返った。
ノアさんの顔から血の気が引く。
リックさんが椅子から立ち上がりかけたが、傷が痛んだのか顔を歪める。
「誰に」
レオン様の声が低くなる。
「オスカー兄様の命令を受けた人たちに」
エリシア様は目を伏せた。
「私は二十年前、オスカー兄様とクラウス商会が、北方港を使って薬と武器を不正に運んでいることを知りました。アルベルト兄様へ知らせようとしましたが、その前に病死したことにされ、王都から連れ出されたのです」
二十年前。
公爵家の記録では、エリシア様が亡くなった年。
「最初に閉じ込められたのは、白鹿修道院ではありません。北方港近くの小さな療養院でした」
「そこから逃げたのですか」
「ユリウスが助けてくれたの」
エリシア様の目に、遠い日の光が戻った。
「彼は税関で帳簿を調べていて、死亡したはずの私の名で療養費が支払われていることに気づいた。私を見つけ、逃がしてくれたわ」
死者名義の支払い。
孤児院や施療院で繰り返されていた方法だ。
オスカーたちは、二十年前から同じ仕組みを使っていた。
「私たちは北方港で身を隠しました。ユリウスは、私をヴァイス家へ戻そうとしてくれた。でも、王宮文書局の記録まで書き換えられていて、誰を信じればよいか分からなかった」
「先代公爵様へは」
「直接、手紙を出せなかった。だから、ユリウスが港の正式記録を作ったの」
「正式記録?」
「婚姻証明と、あなたの出生登録よ」
エリシア様はノアさんの手を両手で包んだ。
「私たちは、北方港の旧税関礼拝室で結婚しました。教会司祭と税関長が証人になってくれた。あなたはその後、港の診療所で生まれたの」
ノアさんの目から、静かに涙がこぼれた。
「父さんは、僕を見た?」
「ええ」
エリシア様も泣いていた。
「とても喜んでいたわ。何度も抱き上げて、あなたの指は小さいと言っていた」
「僕、覚えてない」
「覚えていなくていいの」
エリシア様は微笑もうとした。
「あなたが悪いのではないから」
ノアさんは俯いた。
リックさんがその肩へ手を置く。
「お前の父さんは、ちゃんとお前を抱いたんだな」
「……うん」
「それで十分だ」
リックさんの声も震えていた。
「俺は後から兄さんになったけど、それも変わらないからな」
ノアさんは涙を拭い、何度も頷いた。
「うん」
私は胸の奥が痛くなるのを感じながら、質問を続けた。
「ユリウス様は、何を見つけたのでしょう」
「クラウス商会の密輸帳簿よ」
エリシア様が答えた。
「薬や武器だけではなかった。領地支援金、公爵家の鉱山収益、北方港の関税。その一部が、オスカー兄様の名義を隠して王都へ流れていた」
ヴァイス公爵領が、資産を持ちながら破産寸前だった理由。
孤児院と施療院だけではない。
北方港そのものが、長年金を抜く出口にされていた。
「ユリウスは原本を旧税関礼拝室へ隠しました。婚姻証明と出生登録も一緒に。名だけを書き換えられても、証人封と税関印が残るように」
「それが、叔父様の手紙にあった原本ですね」
「ええ」
「その後、何が起きたのですか」
エリシア様の指が震えた。
「居場所が知られた」
暖炉の火が、小さく音を立てた。
「ユリウスは私とノアを逃がそうとした。けれど、港を出る前に捕まったわ」
「エリシア様は、その場に?」
「離れた倉庫に隠されていた。でも、声は聞こえた」
彼女の顔から血の気が引く。
「オスカー兄様は、帳簿の場所を聞いた。ユリウスは答えなかった。だから……」
言葉が途切れた。
ノアさんが母親へ身を寄せる。
「もう、言わなくていいよ」
「いいえ」
エリシア様は息を整えた。
「記録してもらわなければ」
その声には、弱さだけではないものがあった。
「ユリウスは殺されました。私は再び連れ去られ、ノアは孤児院へ送られた。出生登録は書き換えられ、父親欄にはアルベルト兄様の名が入れられた」
レオン様の目が氷のように冷える。
「父に、実妹との子を作った汚名を着せるためか」
「それだけではないわ」
エリシア様は首を横に振る。
「アルベルト兄様を相続不適格とし、レオンハルトにも汚れた血の疑いを向けるため。ヴァイス家を内側から壊し、オスカー兄様が正統な後継者だと主張するためよ」
ようやく全体が見えた。
ノアさんは、公爵位を継ぐ相続人ではない。
父親が平民出身の税関監査官であることも、その立場を変えない。
けれど、彼の出生記録が本物だと証明されれば、エリシア様が死亡したとされた後も生きていたことが確定する。
偽の死亡記録。
偽の父親欄。
オスカーによる相続工作。
すべてが崩れる。
「だから、先代公爵様は『ノアは相続人ではない。だが、相続を覆す証人である』と」
私が言うと、エリシア様が頷いた。
「アルベルト兄様は、ノアに公爵位を与えたかったのではない。オスカー兄様が作った偽りを壊したかったの」
ノアさんが不安そうにレオン様を見る。
「僕、公爵にならないといけないの?」
「ならなくていい」
レオン様は即座に答えた。
「君の人生を、相続争いの道具にはしない」
「でも、僕がいると」
「君が存在することは罪ではない」
レオン様はまっすぐノアさんを見る。
「証言するかどうかも、今すぐ決める必要はない。まずは身体を治し、母親と話せ」
ノアさんは少し驚いたような顔をした。
やがて、小さく頷く。
「うん」
レオン様は、ノアさんを後継者とも証拠とも呼ばなかった。
一人の少年として扱った。
それが嬉しかった。
「北方港へ行く必要があります」
私は言った。
「父親の名を知るためではありません」
「原本を回収するためだ」
レオン様が続ける。
「婚姻証明、出生登録、密輸帳簿。すべてが旧税関礼拝室に残っている可能性がある」
「残っていれば」
エリシア様の声には不安があった。
「オスカー様も、場所を知っていますか」
私が尋ねる。
「礼拝室までは知っている。でも、保管庫を開ける方法は知らないはずよ」
「誰が知っていますか」
エリシア様はしばらくノアさんを見つめた後、首にかけていた細い鎖を外した。
服の下から、小さな銀色の輪が現れる。
指輪だった。
古い税関印と、波を越える鳥が刻まれている。
「ユリウスの結婚指輪」
エリシア様はそれをノアさんの手へ置いた。
「礼拝室の保管庫は、税関監査官の印と、私の白鹿の印を重ねれば開くようにしたの」
「僕が持つの?」
「本当は、もっと早く渡したかった」
ノアさんは指輪を強く握った。
その姿を見て、私は尋ねる。
「エリシア様も北方港へ同行されますか」
「行きたい」
即答だった。
だが、身体がまだ耐えられる状態ではない。
エリシア様自身も分かっているのだろう。
「でも、今の私では足手まといになるわ」
「足手まといではありません」
「ありがとう。でも、今度は無理をして、またノアを置いていきたくないの」
エリシア様は息子の手を握った。
「私はここで証言書を作ります。婚姻の日、ユリウスの名、礼拝室の場所、証人になった人たち。覚えていることを全部」
「それがよいと思います」
私は答えた。
生きている本人の証言。
その後に、原本。
叔父様が示した順番通りだ。
「セラフィナ様」
エリシア様が私を見る。
「アルベルト兄様の封書を、今なら開いてもよいと思う」
「はい」
「でも、気をつけて」
彼女の顔がわずかに曇る。
「兄様は、北方港へ向かう者のために、最後の警告を残したと言っていた」
「警告?」
「オスカー兄様が欲しがっているのは、密輸帳簿だけではない」
レオン様の目が鋭くなる。
「何だ」
「北方港の所有権を動かす、初代ヴァイス公爵の港湾譲渡証書」
ヴァイス公爵領の北方港。
鉱山、街道税と並ぶ、公爵家の大きな資産。
「その証書を持つ者が、港を所有できるのですか」
「単独では無理よ。でも、公爵家の相続に疑義を作り、譲渡証書を持って王宮へ申請すれば、港を暫定管理下へ置ける」
「その管理者として、オスカー様が入る」
「ええ」
オスカーの本当の目的。
公爵位だけではない。
北方港を手に入れ、密輸と資金の流れを完全に支配すること。
「だから、父は北方港を遺言に残したのか」
レオン様が呟いた。
北壁の書庫。
黒い帳簿。
エリシア。
ノア。
王宮保管封。
すべての道は、最後に北方港へ向かっている。
「今夜、先代公爵様の封書を開きましょう」
私は言った。
「立会人を揃えて、条件通りに」
レオン様がこちらを見る。
「体調は」
「封蝋読みはしません。まず文書として開封します」
「罠がなければ、だ」
「はい。魔術解除官にも確認していただきます」
以前なら、すぐに自分で読もうとした。
今は手順を選べる。
エリシア様は少し安心したように微笑んだ。
「兄様は、あなたに会えてよかったでしょうね」
「私が、ですか」
「ええ」
彼女はレオン様を見た。
「この子が、一人で全部を背負わなくて済むから」
レオン様がわずかに目を伏せた。
私は何と答えてよいか分からず、手袋の指先を見つめた。
「私も」
言葉を選ぶ。
「一人で背負わなくて済むようになりました」
レオン様の視線が戻る。
何も言わなかった。
ただ、半歩横の距離が少しだけ近くなった。
部屋を出る前に、ノアさんが呼び止めた。
「セラフィナ様」
「はい」
「父さんの記録、取り戻してくれる?」
小さな指の中に、銀の指輪がある。
「はい」
私は約束した。
「必ず」
「僕も行った方がいい?」
「今は、エリシア様のそばにいてください」
「でも、指輪が」
エリシア様が息子へ言う。
「預けてもいいと思う人を、自分で選びなさい」
ノアさんは指輪と私を交互に見た。
それから立ち上がり、銀の輪を差し出す。
「セラフィナ様に預ける」
「大切なものです」
「だから」
ノアさんは涙の跡が残る顔で笑った。
「紙に書いてあることを、勝手に変えさせない人だから」
私は両手で指輪を受け取った。
封蝋ではない。
声も聞こえない。
それでも、十分に重かった。
「お預かりします」
今度は、自分の体温を失わずに守れるものだ。
その夜。
叔父の文書箱から見つかった、先代公爵アルベルト様の封書が確認台へ置かれた。
赤い家門封。
表には、ただ一行。
――北方港へ向かう者へ。
魔術解除官が封の周囲を調べ、罠がないことを確認する。
エリシア様の証言書が、封書の隣へ置かれた。
開封条件は満たされた。
レオン様が先代公爵の家門封へ手を添える。
私はその横で、小鳥の封印具を握った。
赤い封が切られる。
中から現れた文書の最初には、こう記されていた。
――北方港へ行くなら、オスカーを追うな。
――先に、港の鐘を止めよ。




